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自分の内側の静けさに向かう
昨日は誕生日だった。
誕生日に自分が今世で向かうところを改めて意識してみた。
世の中に対しては「女性の幸せは子どもや男性の幸せ」だから今までどおり前向きだけど実は繊細なところのある女性の人生サポートをしていきたいし、とにかく「みなが争いなく安心して暮らせる社会」の実現ためにできることをしていきたいと思う。
自分自身に対しては、軽やかに生きることと「静けさ」に向かうことをより一層したいと思うのだ。
このnoteもそうだし、SNSが発達して今はみんながいろんなことを発信できるようになった。
自分の思っていることを述べられるのは素晴らしいし、多くの人に届くのも素晴らしい。
私もこうしてやっている。
でも、いろんな発信を日々目にしていると自分の心が波立つことがあるのを感じる。
楽しくなったり、しみじみしたり、時には反発を覚えたり。
心にグッとくる投稿、自分とは違うなあと思うような投稿、自分はまだまだだなあと思わされる投稿、いろいろある。
目まぐるしく心が動いていることを感じる。
そんなとき、大事なことを忘れちゃいけないと思うのだ。
それがなにかというと「静けさ」
自分の内側にある静けさ。
私にもあなたにもあるもの。
だけど忘れてしまうもの。
古来から人は瞑想をしてきた。
花見…というのも元々は一本の桜の木を前に沈思黙考し、さらに心を静かにするものだったと聞いたことがある。
「今、ここ」のマインドフルネスも話題になって久しい。
自分の内側にある静謐さを大切さにすることを人々は知っていたのだろう。
静謐さを纏った人に時々出会うことがある。
見た目がおとなしそうとか、寡黙だとかではなく、
明るくても静謐な人というのはいるのだ。
イタリア語の「セレーノ」という語は、静かに晴れた、澄み切った、落ち着いた、客観的なという意味があるという。そんな人。
自分もセレーナな人になりたいという「欲」がある。
毎日少しでもいいから、静けさに向かう時間を取るようにしている。
雑念は次々にくるけれど、次々に流していって捉われない。
気がすぐにそれるけれども、また気づいて戻す。
瞑想とまではいかなくても、自然の中にただいるだけでもいい。
無心にトイレ掃除をしてもいいかもしれない。
静けさに向かうことはかなり前からやっているけれど、SNSの発達とともにますます大切な時間になってきた。
いろんな情報から自分を遮断する時間。
自分の思考や感情からも解き放たれる瞬間。
雑念だらけの私は、生きているうちに本当の静けさには出会えないかもしれない。
それでも、一人で静かに自分の内側の静謐さに向かうことは貴重な時間。
こんな時代だからこそ続けていきたいと思う。