静かすぎる演劇
またこんど、ぺぺぺの会で演劇をやる。
「今度はセリフがない劇をやろう」
と言い始めたのは、ぺぺぺの会の大和。
ぺの人たちは、嘘なんだか本当なんだかよくわからないことばかり言っていて、
公演でやる、とか、美術館でやる、とか言っていたら、夏には、上野公園で演劇をすることになった。すごいことのような、すごくないような、不思議な感じだ。
ぺぺぺの会の劇のつくりかたは、へんだ。
大和が戯曲を書いてきて、それをみんなで解釈するところから始まる。
書いた本人も、あたまを悩ませて解釈している。
へんだけれど、書いた人の解釈が正解というわけでもない。正解でないというわけでも、ない。
そこに正解はなくて、正解がないというわけでもなくて、間違いがあるというわけでも、ない。
特に結論が出されるわけでもなく、とにかくみんなで一緒にあれこれ考えている。
「わたしは4が抜けてるのはなんでなんだろうなって思った」
「あ、わたしもおもった」
「意味ないらしいよ」
「でも意味あるかもしれない」
沈黙。(8.8)
「うん」
「対話」は、結論の召使いではないはずなのに、いまや結論の鎖につながれてしまった。
相手のことをひとつひとつ受け止めていたら、やっぱり、沈黙の時間というのは訪れると思う。みんなが、ナマのことばを喋っているのなら。
現代のわたしたちは、沈黙を怖れすぎるのかもしれない。
今回は、ワークショップ・オーディションで集まったメンバーなのだけれど、みんな人の話を聞くのがうまい。
そんな稽古場を、ぺぺぺの会は無料で公開している。(よかったらぜひ)
Twitterでは、違う意見を持っている人たちが、しばしば、ひどい言葉を投げ合っている。世界とつながるTwitterは、世界は狭めたのかもしれない。
もちろん、Twitterによって世界が広がっていく、ということもありうるだろうけれど、タイムラインにひどい言葉が流れてくるたびに、わたしは少しずつ傷ついている。そこに他者はいない。
多様性、ということばが、今、リベラル派のあいだでは流行っているけれど、そういう人たちが、右寄りの発言を炎上させているのを見ると、多様性ってなんだろうな、と思ってしまうな。(この記事で、リベラルや右寄り、どちらかを擁護するつもりはないです、念のため)
僕らは事実として多様であって、自分と意見が絶対に合わない人も中にはいるのだから、多様かどうかということではなくて、ひとつの客観的な正解がそこにあるわけではない、ということが、もう少し強調されてもいいのではないかしら。
特にわたしたちの世代なんかは、受験勉強をとおして、あたかも世界には、ひとつの与えられた答えがあるように考えがちだけれど、じつは全然そんなことはない。
ウサギ・アヒルは、ウサギだったり、アヒルだったり、するのだし。
それは、エキスモーにとって、雪が雪でないのとおなじだ。
そう考えると、ことばはある意味で、ひとつの世界だ。わたしたちは、異なるひとつの世界を生きている。
ある世界が正解と呼ばれることなく、変化しつつも並存できるような、そして、沈黙が許されるような、そういう対話の場をつくることが、ひとつの世界に置かれた私たちの宿題なのかもしれない。
わたしたちは、静かすぎる演劇をつくります。