みなと
おもに観た作品のことについてまとめています。
エッセイのような、とりとめのない文章をまとめています。
詩です。このマガジンは、天才チンパンジーのアイちゃんが編纂しています。
noteはもうたくさん!ということで、はてなブログに引っ越しました。 せっせと書いているので、見てもらえたらうれしいです。
分かりあう、とか、分かり合えないことから、とか、分かり合えないことへと、とか、いろいろ議論はあるようだけれども、「わかる」を前提とすること自体が、わたしには、どうもよくわからないでいる。(このなかだと、分かり合えないことへと、の話が、私はまだわかる) このところ、いろんな国の出身の人とおしゃべりする機会がそれなりにあって、同じとかより、違うということの方が面白かったりする、ああ、鴨の肉を食べるのかとか、サウナは混浴なのか、とか、卵は生で食べないのかとか(わたしはそれでお腹を
それは学べたり、資格が取れたりするものでなく、言葉にもおおよそできないだろう、生活のなかで、そのつど人にやさしくできるかみたいなことでしかない、 それらしきそれに巻き込まれない、ように、めちゃくちゃな言葉で話していきたい、どうせばかなのだからわたしたちは
年末から書いていた博論に引き続き、学振の申請書を書き終わって、ようやく、束の間の息継ぎをしている。 学振というのは、日本学術振興会の特別研究員という、若い研究者を金銭的に支援するための制度(2、3年間、生活費がもらえる)で、多くの大学院生やポスドクが、例年凌ぎを削って申請書を書いている。 この申請書の最後には、 「本制度は、我が国の学術研究の将来を担う独創的な研究者を育てることを目的としています。これを鑑みて、目指す研究者像を書いてください」 ・・というような項目があって
「chatGPTは嘘つきだとchatGPTは言った」という文章のおかしさを指摘してください. 「chatGPTは嘘つきだとchatGPTは言ったという発言は自己矛盾しているとchatGPTは言った」という文章のおかしさを指摘してください. 「chatGPTは嘘つきだとchatGPTは言ったという発言は自己矛盾しているとchatGPTは言ったという文が自己矛盾しているとchatGPTは言った」という文章のおかしさを指摘してください. 「chatGPTは嘘つきだとchatG
今年に入ってから、木曜日と日曜日を休みの日にすることにしている。 ほんとうは毎日、研究なり、執筆なり、進められたらいいのだけれど、週に2回は休まないと、どんどん頭が働かなくなっていって、一日パソコンの前でぼんやりしていることにもなりかねないから、いけない。 だから、今日はお休みということにして、コーヒーなんか飲みながら、こうしてnoteを書いているわけであります。ごくごく・・。 昨年の梅雨、ドラマトゥルクとして関わらせてもらっていた、いいへんじ「薬をもらいにいく薬」(作・
なんだかんだ、Twitterを1ヶ月以上やめることができている。 積極的に、世の中の流れに遅れをとっていきたい。
つくづく、アートマネジメントって、芸術性と商業性のバランス感覚が命だよなあと思う。 最近見た演劇、どれもこれも、「上演中の撮影OKなのでぜひSNSにシェアしてください」的なアナウンスがあって、(作品がとてもよかったとしても、)毎度毎度、げんなりしてしまう。 なんらかの演出効果がそこにあるならまだしも、そうでないのだとしたら、作品の切り売りじゃないかと、私は思ってしまうのだよな。 (いい作品も多いのに、単純に、もったいないと思う。もちろん、コロナで動員に苦しんでいる劇団のこと
まえがき 2022年12月21日~25日、北千住BUoYで上演されている“Aventure”の評を、こちらで公開します。 この公演、わたしはドラマトゥルクで入っているので、ある意味で、客観性を欠いた批評になっている可能性はあります。他方で、ドラマトゥルクとはいっても、戯曲の立ち上げ段階での文献調査・リサーチが中心で、なおかつ、わたしは劇団員でもないので、(戯曲ではなく)上演作品としての“Aventure”に対しては、ある程度の批評性は担保されていると思われます。 また、こ
「責任」は英語にするとresponsibility(応答可能性)とも読めるのだけれど、どちらかというと、すぐになんでも応答している人の方が責任感無いよなあと、わたしは思う。 わたしは手紙が好きだし、本も、詩も、好きだ。 それは、やっぱり書くことに時間も手間もかかる、非効率なメディアだからというのも、一つあるように思う。 (だからこそ、いまだに大学に残って、一つも役に立たない、芸術のコミュニケーションの研究とかしているわけですが・・。) どんなSNSでもそうだけれど、なんだ
声声が踊りに向かって歩むように とつとつと白鯨の詩は星星を結いた 地球人は戯曲のなかへと放下され 溢れ出した深海の詩詩はその孤独を懐しむ やがて訪れる調査隊はくすくすと笑い去ってゆくだろう 錆びついた錨を投げ捨てながら 身体は肉肉を開き海底に揺蕩い とぷとぷと科学は空洞に谺する ああ なにも なかったのだ 最初から この青い星には なにも なかった わたしたちはせめて永く続いた一編の詩となり 遠くの恒星で挽かれたコーヒーは甘苦く すやすやと絶望し微睡まれるなら ―
脱臼させられた おれのからだは とうとうたらりと 変身させられた 改造ベルトは 重くしわがれ おれのからだ 霧散してゆく 煙草の煙は ゆらりゆらりと震え ふいに思い出しては 桜の園燃ゆる 赦すも赦さぬもない 淡い夏草のもと 小さな幸いのため 粛々と祈るのだ ヘリウムガスはやがて星の呼吸となり 川沿いの花畑でくしゃくしゃと微笑むだろう 燃ゆれよ燃ゆれ どうにもならね せめて忘れたことも忘れるまでは
「みんなで」とか「全員で」とか、なかなか身体がついていかないし、やさしく溶け合っていく全体こそ、わたしはおっかない、ついていけなくてすみませんと思う 絶望も希望もせず、教えたり教えられたりもせず、ぼんやり集まれるような、そういう、場、をつくりたい
わけのわからないものを、わけのわからないまま、手に書かせるということを、忘れないようにしなきゃだよなあ、とたびたび思う。 noteやら批評やら書いていると、どこかの本や新聞で読んだことや、意志やらイデオロギーなどなどが、いつも、わたしの手を誘惑してくる。 「この現象はウィトゲンシュタインのこの概念が使えて、この人の言っていることはフッサールとここが似ていて、云々!」 ついつい、自分を甘やかして、そうした誘惑に飛びついてしまうと、(わたしの場合は)たいてい、ひどい。どこか
こういうとき、Googleは容赦ないと思う。 いつから青かった夏休みが、灰色になったのだろう。 Googleフォトには、1年前の写真や5年前、10年前の写真を自動でサジェストしてくる機能があって、私の青色だった夏休みをフラッシュバックさせてくる。(「あなたの5年前は、こんな1日でした!」という具合である。) 画面の中の青かった夏休みが、私の現実の夏休みを、かえって灰色にさせていくように思われる。「こんなに夏休みって、昔、青かったっけ?」 「おばけばかり」という名前の短編演
自分の近況を思いながら制作しました。27歳になりました。 ぜひ寝る前とかに聴いてみてください。