春なんか憂鬱。私は抱っこされたくて生きている。
せっかく春だから、のろのろ歩こうと思った。
春はぽかぽかしていてのどかで、あたかも希望に満ちているかのようだ。
しかし私は「春、てめえ野郎、この詐欺師め猫かぶりめ」と言いたい。
春は毎年憂鬱で、物悲しくて、やりきれない。冬の次に鬱な季節である。
ライフステージの変化なんて、新たな出会いなんて、私にはとんと縁のなかったものだから。春に思い出すのは悲しいことだけ。別れのことだけ。ひとりだった記憶のことだけ。何が希望だ。そんなものはねえのじゃい。あるなら私がこんなよれよれになってやしない。
久しぶりに外に出た私は、窓辺で死んだ目しながらギター弾いてる人みたいだった。魂が疲れきった人なので、魂が疲れきった人のような雰囲気がある。至極当たり前のことをいった。
最近はずっと引きこもっていた。というか精神的に死んでいた。ぶっ殺されていた。ドアノブのことについて考えていた。一番仲良くしたいのがロープだった。薬なんかいくら飲んでもラムネだった。(規定量は守っています)
死ぬ前に後悔することについて考えたが、思いつかなかった。
高いところで(つまり命の危機を感じられるような場所で)それを考えたらなにか思い付くかもしれないと言われたので、歩道橋から下を見下ろしながらやり残した後悔について考えようとしたけど、頭が停止してしまった。
私は高所恐怖症なのだった。
すなわちなんの成果も得られませんでした。
誰かのために分かりやすくした言葉なんて、と思いながら、誰かに分かってもらいたくてこの文章を書いている。愚か。
ずっとひとりだったから孤独耐性はあるはずなのに、誰もいないなあ、という心細さに勝つことができない。どこにいても何してても心細くて、特に外にいる時ずっと不安で心細い。足元が崩れ落ちそうな気持ちになる。だけどきっと、誰かが隣にいても私はひとりぼっちだ。
春だし相対性理論の「ハイファイ新書」を聴いていた。「地獄先生」が特に好き。
私を切なくさせてくれるような、歌詞のように「下の名前で呼んで、おねがい」と言いたくなるような人は私にはまだ見つからないよ。
ねえ先生。あの人は死にました。生きているけど、私の中では死にました。もう誰も好きになれる気がしません。そもそも私なんか好きになる人いるわけがないです。愛されないのです。えんがちょえんがちょ、ぺっぺのぺ、である。
私を特別な種族だと言ってくれた人は死にました。もうそんなこと言ってくれる人はいないんじゃないだろか。消えたい。生きる意味を感じない。途方もなく心細い。本当に四六時中頭のどっかでは誰かに助けて欲しい。助からない。ロープとお友達するしかない。困った。もうだめだ。
私みたいなものを羨むような人もこの世にはいるんだろうか。到底いるとは思えない。どう考えても私がこの世で一番人と関わるのがへただ。みんななんだかんだ人の輪の中に入っていける。私はほんとうにできない。ほんとうのほんとうにできない。それがどういうことか分かっているのか。私はどうしたらいいかさっぱり分からない!
イオンに向かう道を渡りながら、
私は誰かに抱っこされたくて生きてるんだなあ
って思った。
どんなに人と関わっても、隣に誰かがいても、抱っこしてくれなきゃ、私の甘えを受け止めてくれるママかパパみたいになってくれなきゃきっと満たされないんだなあって。
そしてそんなこと叶うわけがないなあ、死だなあと思った。
今回のnoteもやはり、特に救いはなく終わる。
だってこれは物語ではなく現実だから。私は画面上の文字ではなく、生身の生きた人間だから。