公共哲学とソーシャルワーク
通信制大学というものを知り、教育(学び)に関心がよったnoteを書くことが増えましたが、今回はまたソーシャルワークについて書いてみたいと思います。
あと、どうでもいいといえばどうでもいいのですが、“最近の学び” のタグをつけるつもりでいますが、実のところ“ちょっと前の学び” です😅
また、ちなみに、このnoteで単に『公共哲学』と書いているときは、基本、大学授業の担当教員でもあった山脇直司先生が研究されてきた公共哲学という分野のことになります。もう少し言うと、山脇先生の考えに触れて、僕が考えたことです。
僕自身はサンデルもロールズもあまり知らずに書いてるので、その点、ご承知のうえ読んでいただければ幸いです😅
通信制で学んだ科目、『公共哲学』
受講したのは昨年の話なのですが、通信制の星槎大学という所で『公共哲学』という科目を履修しました。
いっても元々は、その頃ちょくちょく、“哲学は科学じゃない”“哲学なんか役に立たない” といった話を耳にし、一方で、マルクス・ガブリエルのように“企業は倫理学者を雇うべきだ” というような話も耳にして、哲学というものに興味を持っただけでした。むしろ、参加させてもらっている学び合いのグループで、声をかけてもらわなかったら、受けていなかったかもしれません。
だけど受けてみると、これまでも僕が軸にして(していこうとして)いるソーシャルワークに通じる考え方や、共感、そして違和感も得られた学びでした。
ネット上での解説などを見ていると、公共哲学は、“政治哲学”と並べて、ときには同一視されて語られていることが多いようです。だけど、公共哲学の対象はもう少し広く、その分漠然としたもののように感じます。ざっくり言うと、政治(国家の在り方)を対象とするか、社会というものや社会に暮らす人々を対象とするか、といった違いでしょうか。
公共哲学が、政治哲学の中から生まれ、そこには「政治(国家)だけ考えててもダメじゃね?」という批判を持っていたからなのかもしれません。(以前noteで書いたクリティカルという意味での批判です。アンチ政治学というのでなく。)
理想論だよね
ー 科目「公共哲学」をどのように学修したか
星槎大学は昔ながら(?)の通信制で、各科目ではシラバスや学修指導書というものをガイドに、テキストや参考文献を読み進めていきます。スクーリング(対面授業)もありますが、テキストで学んできた内容のまとめや補足の講義を聞き、その後、その内容についてディスカッションすると言う流れになります。
指定テキストは、「社会とどうかかわるか ー公共哲学からのヒント」岩波書房、「公共哲学からの応答 3・11の衝撃の後で」筑摩書房。ともに担当教員の山脇先生の著書でした。
これら著書では、戦時中やブラック企業で見られる“滅私奉公” という価値を批判し、“活私開公” という表現される思想や、共生社会を創っていくという理念を軸に論述されています。
「読書メーター」のレビューを見ていると、特に「社会とどうかかわるか」については、感想のなかおいて、“理想” “理想論” “隔世の感” “教科書(的)“、あるいは、“より具体的に(書いてあるとよかったのに)” といった言葉が多いように感じます。
実のところ、僕もそう感じたから、それら言葉が目につくのかもしれません。もうちょっと個人的な不満を言うと、「哲学史や思想史の勉強でなく、『哲学をするって言うのは、どういうことか』を知りたかった」のですが。
そこで、加えて、山脇先生の著書「公共哲学とは何か」筑摩書房 と、平尾昌宏さんという方の「哲学する?」萌書房 という書籍を参考にさせていただきました。
教員としてお世話になっているので、山脇先生には少し申し訳ないですが、正直なところ、まず先に、平尾さんの著書などで「哲学をするとはどういうことか、どう学んでいくものなのか」の認識をつくり、その上で、公共哲学や「公共」とは何かを考え、最後に山脇先生の思想や理念に触れた方が、科目を受けた“意義” のようなものが早く腑に落ちたんじゃないかと思います。
ー ただの理想、それがスタートライン
僕の感じたものを含め、「理想論だ」という感想も決して間違いではないと思います。
ちょっと、ちゃぶ台返しのような言い方になりますが、“活私開公” も“共生社会“ も今この社会で実現されているとは言えないからこそ提言されているものです。要するに、山脇先生の考えた目指すべき“理想” そのものです。
だけど、「目指すべきもの」を表現するとき、“理想” のほかにも、“目標” や“目的“、“方向性” といった言葉も使われます。
“目標を持つ” ということは、今一般的にも肯定的に捉えられているものではないでしょうか。一方、“理想” には、「まあ、イイんだけどね、、、」というような、少し否定的なニュアンスが含まれることが多いように感じます。少なくとも“ただの理想” と表現されるときには。
人は、どういう時に「目指すべきもの」を“目標” と捉え、どういう時に“(ただの)理想” と感じるのでしょう。
僕は、それは、目指すべきものへ向かう手段や方法が見えない時、目を背けたい時、もしくは、知っていても腑に落ちていない時に、“ただの理想” と感じるのではないかと思います。
ここで、山脇先生は哲学者として、先人の思想と向き合い、考え、たどり着いた“理想” を、教育という場で語り、学生や読者と対話する(コミュニケーションをとる)ことを自身の“実践”としているのだと、僕は思っています。
しかし、これは言い換えれば、「理想はわかるけど、じゃあ、どうするの?」という問いに対する応えに、「理想を語ること」が含まれることでもあります。
このことは、“実践すること“ や“端的に結論から示すこと” に価値のおかれる現代においては、まどろっこしく、場合によっては空虚なことに感じられるのではないでしょうか。
ただ、哲学や対話するということに価値を感じはじめた身としては、“理想” を語ることも、それを踏み台に対話を重ねることにも意義があるのだと思うのです。そして、『公共哲学』というのは、そこに意義を持たせるための方法論だと思うのです。
方法としての“哲学” と、生み出された“思想・理念”
さきに「このnoteで単に『公共哲学』と書くときは」とことわってはいましたが、「公共哲学=山脇先生の思想」ということではありません。
“活私開公” も“共生社会” も、共感するところは多くありますが、あくまで山脇先生(達)が見出した思想であり理念です。公共哲学というなかに限っても、それ以外の思想は“間違い” といった性質のものではないのです。また、こと哲学という分野においては、“定説”という概念もありません。
哲学史や誰かの思想を覚えたいのでなく、“哲学をすること“ を学びたいのであれば、担当教員の思想であれ、たとえカントやソクラテスのように著名な哲人の思想であれ、「その考えに同意できるか」ではなく、「そこから自分は何を考えるのか」という姿勢で望まなければならないと言えるでしょう。
あくまで、先人の思想は先人の思想、先生の思想は先生の思想。大事なのは、それらに触れることで、自分の思想や理想を、自身で明確に掴むことです。また、互いに価値を交換し、いわゆる“アップデート” というのを繰り返すことです。(優れた人の思想を知って、自分のをそれに置き換えろって意味ではありません。)
“公共哲学“の方法
ここで、僕が「理想を語ることや、そのことについて対話すること」にも意義が持たせられると考えた理由についても、言葉にしてみたいと思います。
哲学の中でも、公共哲学に見られる方法論というか、特徴のことです。(哲学の話ばかりで、タイトル詐称のようになっていますが、ここがソーシャルワークにも通じていると感じている部分です。)
ー “公共“とは
あえて政治哲学と公共哲学を区別するなら、この「公共」という概念を念頭においているか否かだと思います。
「公共」は、個人や特定のグループでも、国や施政者、行政といったシステムでもありません。それでいて、それらが関わり合うことで、存在しているものでもあります。
この“公共” が掴みづらいのは、何か具体的な実体のようなものがあるわけではないところです。実体があるわけではないが、大勢の人が頭の片隅にでも意識しているから存在する、そういうものです。
日本でも2010年代くらいから、政府が「新しい公共」といったことを言い出していました。なので、「公共」というのも言葉としてはある程度馴染みのあるものかと思います。だけど、第三セクターやNPO活動というのとは、また少し違います。
どちらかというと「世間」とかが近いかのではないでしょうか。“世間体” とか言うと少しイメージがよくないですが、ヒトが”世間体を気にする” とき、国や政府を意識しているわけでも、具体的な個人を意識しているわけでもありません。もちろん、NPOのような“団体” を意識しているわけでもありません。
ついつい具体的な何かに置き換えて理解したくなりますが、あくまで抽象イメージとして存在しているものです。
哲学史的な見方をしても、公共哲学では、この漠然とした“何か” を捉えようと、サンデルが「“共同体(参考、深谷,2021)”」という概念を唱えるなど、言語化すること、言葉にすることを試みてきたようです。
(漠然として抽象的なものに、名前をつけて、人間の頭でも考えられるようにするのは、”概念化” と呼ばれる哲学的な作業の一つです。)
漠然として掴みがたいですが、国家でも、単なる個人の集合でもない、共通した“仲間意識“ のようなもの。抽象的で、実体はないけど、その意識があるからこそおそらく、人間は、「群れ」を「社会」と呼べるものに成長させ、今日あるように思います。
ー “公共善”とは
「公共」という概念は、モラルや倫理、正義を考えるうえでも、公共哲学を特徴づけます。
長らく、哲学や倫理学では、普遍的な”正しさ” や“正義” を求めてきました。特に、古代ギリシャや中世の哲学は、そういった”普遍” や”真理” のイメージではないかと思います。
しかし、いまこの時代、“正義” などと聞くと、ときに胡散臭く、「そんなの時代や社会によって変わるもの」、「政府や偉い人の洗脳」と言った印象を受けるのではないでしょうか。
それは、正義を騙って行われる戦争、身近なところではネットの炎上騒ぎなどでみられるバッシングという名の誹謗中傷、そんなことが繰り返され、それを見させられ続けてきた蓄積でもあるかと思います。
ただ、その社会や共同体で暮らしているかぎり、ヒトはその社会で“正しい”とされるように生きようと、大なり小なりしているのではないでしょうか? 利己的で開き直ったような人間ですら、自分を“正当化しよう” とはします。
そして、「その社会で正しいとされること」が、法律のようにはっきりしたものでなく、政府や偉い人の示すものと違っても、そこに暮らすヒトがなんとなく“正しい” と感じるものがある。客観的に絶対でも普遍でもなく、いつまでも変わらないというものでなくても。
それぞれが主観で感じているだけであっても、その社会のだいたいの人が同じように、共通して感じるものがある。
社会を観察してそう考えた人達が、その漠然として曖昧なその“正しさ” に、「共通善」や「公共善」と名前をつけました。これが、公共哲学で求められている“正義” です。
また、公共哲学では、その「公共善(共通善)」のもう一つの特徴も重視されています。それは、「そんなの時代や社会によって変わるもの」という特徴です。
“時代によって”とは言うものの、現実的に「時代」に意思や思考があるわけではありません。「社会(集団)」でもそうです。集団の意思のようなイメージが感じられても、それは各個人の意見や行動が重なりあった結果なのです。
それなら逆に、そこに暮らす人が、自分も社会と繋がっていることを自覚した上で、対話し、行動していけば、「公共善(共通善)」をより良いものにしていくこともできるのではないか?また、そこに暮らす人が、そうやってつくられた公共善を意識して、自身を振り返るようになれば、その社会もより良いものになるのではないか?
そう考えたからこそ、「公共哲学」をする人は、自身の意見を発信しながらも、一緒に考えよう、対話しようと呼びかけるのです。(そのため、速く答えの欲しい人には『結局何が言いたいの?』になってしまうのですが、、)
ソーシャルワークと似てるとこ
ー “社会とどう関わるか”を考える学問
「ソーシャルワークとは何か?」という問いに対する“答え“ もまた、人それぞれだと思います。noteにもたくさんのソーシャルワーカーが、自身の“答え” を発信しています。
僕もまた、noteを始めたのは、自分自身の“答え” を探すためでした。
遠回りし、なんなら寄り道の方が楽しくなってきている感がありますが、最近ひとつ思うところがあります。
僕はいま、結局のところ“相談職” や“対人援助職” を生業とはしていません。だからこそ、こう思うのかも知れませんが、
ソーシャルワークは、職業的な専門技術などではなく、
人や社会と関わっていくための技術と姿勢(スタンス)
なのだと思います。
人間という生き物にとって、「社会や人とのつながり」はなくてはならないものです。同時に、逃れられないものだとも思います。
だから、生まれた技術と姿勢が、ソーシャルワークなのだと。
カウンセラーでなくとも心の働きを知っておいた方が良いのと同じように、相談職や対人援助職でなくとも、人や社会との関わり方を考えていくことは、意味も意義もあることなのです。
公共哲学でも、倫理や“正しさ” は政治家や影響力のある偉い人だけが考えることではないとしています。一人ひとりの影響は小さくとも、個人の発言や行動の積み重ねこそが、公共哲学でいう“共通善” や“公共善“ といったものの「中身」を創り上げていくと。
このことが。“社会とどう関わるか” を考えるところだけでなく、それを呼びかけ、対話を望むところが、僕が公共哲学とソーシャルワークに感じる共通点の一つです。
ー ソーシャルワークの価値と倫理
ソーシャルワークでも、倫理や価値といったものが重視されます。技術や知識だけでなく、と。なんなら、ソーシャルワーカーが使う技術などは、カウンセリングや、対人援助以外でも経営・ビジネスの分野のものを流用したものです。知識や情報も、ネットをたたけば出てきますし、ネットでは出てこない福祉情報というのも考えものです。
個人的には、倫理や価値と向き合うことが、ソーシャルワークをソーシャルワークたらしめる要訣だとすら思います。
ただ、これは、「テクニックだけでなく、内面や気持ちも大切」ということではありません(と、僕は考えています)。
倫理や価値というものに向き合う姿勢(スタンス)が、人や社会と関わるうえで必要になるものだからです。
そして、重要な要訣だからこその危険性、危うさもあります。
例えば、ソーシャルワークやたぶん医療や他の福祉分野でも、学んでいく中で、“パターナリズム“ という言葉に出会います(imidas,集英社,2017)。
福祉の分野では、かつて(今でも残ってますが)、助けてあげる助けられるという関係をつくり、「こうあるべき」を押し付けるような“支援” が行われてきたことに対する批判や反省のなかで使われる言葉です。
絶対の正義や、客観的に“正しい” ということがあると思い込み、ましてや自分の正義がそれだと思い込むことは、大きな危険をはらみます。福祉という分野に限っても、実際にそれで人が傷ついてきた事実もあるのです。
ただ、ソーシャルワークでは、危険なものだから捨て去ろうとはしませんでした。危険性も含めて向き合おう、考えていこうとします。倫理や“正しい” と思うことに向き合うことが、人や社会とつながり関わることにおいて、必要であることに変わりはないからです。
この“正しさ” にどう向き合うのかという姿勢も、公共哲学とソーシャルワークに通じるものを感じた一つです。
学びで得た違和感
科目での学びの中で、共感したこと、以前に学んだことや自身の考えと通じるところというのも多く感じましたが、違和感、腑に落ちないところも得ました。
“因果応報”やら“情けは人の為ならず” というのは、少し使い古されたものかも知れませんが、やはり個人的にはどうしても倫理や正義、人権を考えると、僕はここに行き着いてしまいます。
このnoteで、公共哲学とソーシャルワークは似ている!と書いてきたことも、結局はそうです。やはり、僕はどこか、「ソーシャルワークで倫理を大事にしているのは、ソーシャルワーカー自身が、人や社会と関わりたいと思っているから」と考えてしまいます。
福祉やボランティアというと、何か高尚なことのようなイメージを持って(または反感を持って)語られることも多いかもしれません。だけど、やっぱり、なぜその道を選ぶのかといえば、自身が人や社会と関わりたいという「願望」を持っているからです。
共感性や“思いやり” のようなものも、人間が他の人や社会と関わらずには生きていけない生物だからこそ備わっているものだと思っています。
この違和感は、“対話が大事” と考えていながらも、「自分の利益のためには弱い立場の人を踏みつけて当然」と考える人とも対話なんてできるのか、多様性なんて認めないという人の多様性は?といった迷いのようなものにも繋がってくることなのかと感じます。
そんな考えがあるからこそ、“先生の思想” に関しては“たしかに理想論” と感じるところはあります。スクーリングの中では、その思想を実際の社会問題に照らし合わせて説明してもらう時間もありましたが、細かいところでは腑に落ちないところも多くありました。
だけど、得た違和感は、今はまだ、ただの違和感ですが、これからまた考えていくキッカケとして“得た”という感覚があります。
最後に
「公共哲学」という科目の学修を振り返って、それまでに学んだことや自身の考えと比較し、共感する点や違和感といった「学び」を言葉にしてみました。
読み返してみると、なんだか文章も気恥ずかしいものになっているし、議論や討論のような場で語れば、簡単に“論破”というやつをされるでしょう。
ただ、だからこそ言葉にして文章として残せたのは良かった気がします。
長々としたnoteになりましたが、最後までお読みいただいが方、ありがとうございます🙇
参考文献
====(2023/4/30追記、参加中メンバーシップ企画用)===
以下は、参加中のメンバーシップでの企画用に追記したものになります。
“好きなこと” をメインのテーマに書こうとも思ったんですが、書くの遅くて😅、「まあ、結局のところ、自分が好きなのはこういうことだろうな」ということで、この記事にしました。
なにか収入に結びつくわけでもないのに、通信制大学に入ったり、学び直しみたいなことをやってるのか。知人に尋ねられたとき、答えに窮してしまうこともありましたが、要は 「こういうことゴニョゴニョ考えてるのが好き」 なんでしょう。僕は。
# 決して“リスキリング”ではないな
(あと、この部分に本文の流れ的に繋げられなくて没にしていた「文章」を消し忘れて残していました。以前、読んでいただいて「ん?」と思われた方、(もし、いらっしゃったら)、失礼しました😅)