南河内郡河南町の弘川寺 西行終焉の地
今日2月15日は、西行忌といって平安時代の末期に活躍した歌人の
西行法師(さいぎょうほうし)が1190年に亡くなった日とのこと。本当は旧暦2月16日らしいのですが「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」という歌から2月15日になったそうです。
南河内地域でも西行法師とは関係が深く、以前、こちらの記事を書いたのを思い出しました。これは富田林の石川河川敷公園にあった西行絵巻。
そしてこの石川から東にある河内国の弘川寺に行き、最後はそこで亡くなったそうです。
この河内弘川寺というのは現在の河南町にあります。以前行ってきました。
ここが弘川寺の入口ですが、ここは弘川という集落ですが、本当に山に囲まれた中にあります。
地図で見ると本当に東の端で山が迫っているところにあるのが分かります。
説明版、少し見えにくいので引用しましょう。
弘川寺
弘川寺は、今から1300年の昔、天武天皇の頃に建立された古い寺である。
この寺はまた、歌聖西行法師最後の地としても有名である。
西行は、文治6年(1190年)2月16日、願ばくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ。と願った歌の通り、この寺で亡くった。それから500年後、広島の歌僧似雲は西行法師のあとを訪ねてこの寺に住み、西行の顕彰に尽くした。
寺の本坊は西行記念館という博物館。
境内を眺めました。山号は竜池山で真言宗醍醐派の準別格本山の寺院。
鐘楼も山に囲まれたところにあります。
記録によれば役小角によって創建され、天武天皇5年には祈雨法(密教で雨ごいする法)を行い、その結果天武天皇から山寺号が与えられたとか。
平安時代の初めごろに空海によって寺が中興されたそうです。
1188年に空寂というひとが後鳥羽天皇の病気平癒を祈願して天皇が回復したそうで、それを知った西行が空寂を慕って来たようです。
境内の上に、西行が最後に住んでいた西行堂があります。
登る気力がなかったので下から撮影しました。ちょうど紅葉の時期だったので赤く染まった気の後ろに西行堂が見えます。
弘川寺
住所:大阪府南河内郡河南町弘川43
アクセス:近鉄長野線「富田林」駅からバス。河内行終点下車徒歩5分