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命の選択。猫とともに生きるということ。

あなたは後悔したことはありますか?


私には1つだけ、生涯背負っていくだろう後悔がある。


後悔と言うか教訓だ。
生き物と共に暮らすこと
それを深く考えさせられた出来事がある。


我が家には老猫が2匹いる。
14歳と15歳。
もうすぐ15歳と16歳になる。
人間でいうと70代後半、立派な後期高齢者だ。

私は物心ついた頃から、猫と暮らしてきた。
多い時で6匹。
若く、体力があり余っている猫たちとの暮らしは、毎日が運動会のようで、にぎやかだった。


みんな保護猫だ。
なぜか猫たちが我が家に集まってきたのだ。
「猫コミュニティの掲示板にでも書かれているんかい」
と思わなくもなかったが、
おそらくは、猫の匂いや家の雰囲気を気に入ってやってくるようになったのだろう。


ある年、白猫の親子を保護した。
ガリガリに痩せて、白い毛は薄茶色に汚れていた。
動物病院に連れていき、カラダを洗うと、
白い毛がよみがえった。



子猫は生後一ヶ月くらい。
長毛種の血が入っているのか、フサフサでフワフワだ。
額のあたりには、うっすらアメリカンショートヘアの特徴的な模様が浮かんでいる。
「ペルシャとアメショーのミックスなのか?」


野良猫生活が長そうな、眼光が鋭い母猫を見ると、毛は短いもののペルシャっぽい顔をしている。



・・・とすると、この子は「ペルシャのクォーター?」
よくわからないが、その子猫はとにかくかわいかったのだ。
性格も人懐っこくて甘えんぼう。

マシュマロみたいだったので、マシュマロと名付けた(通称マロ)。
家族はもちろん、我が家にやってくる人、
ご近所さんや宅配便のお兄さん。
とりわけ宅配便のお兄さんはマロにメロメロだった。


当時は対面でやり取りをしていたので、
受け取りのサインをする間、マロは宅配便のお兄さんの足元にスリスリしたり、
甘えたりして、
お兄さんは完全にとろけていた。


マロは我が家のアイドルだった。

その日は突然やってきた。
その年の冬は寒かった。

ある日、マロの姿が見当たらない。
いつもは、リビングの一番暖かい場所を陣取っているのに。
家中を探す。
やっとみつけた。
下駄箱の下の暗くて寒いデッドスペースにうずくまっていた。


「そこ寒いから、こっちにおいで」
声をかけてもピクリともしない。
かすかに耳をこちらに傾けているだけ。


嫌な予感がした。
猫は死期を悟ると人の前から姿を消すという。
子供の頃に飼っていた猫も、家を抜け出したまま帰って来ないことがあった。


マロはそこから動かない。
たまに水を飲みにリビングにきても、
すぐにデッドスペースに戻っていくのだ。


もう一つ気付いたことがあった。
今までのように食事を摂らない。
食いしん坊の代名詞のようなマロが、
食事に興味を示さなくなった。


すぐに動物病院へ連れていった。
マロの肝臓に腫瘍が見つかった。
まずは点滴と投薬で治療をする。
2〜3日後、マロは元気を取り戻し、いつも通りリビングで、他の猫たちと過ごしていた。
ホッとしたのも束の間。
翌日からは、またデッドスペースにこもった。


一進一退を繰り返しながら、どんどん弱っていった。
頭ではわかっていたが、私はマロを失いたくなかった。


ある日、ついにマロの意識が途絶えた。
息をするのもやっとの様子で、ぐったりとしている。
「明日の朝までもたないかもしれない」
主治医の言葉に震えながら、
私は延命治療をお願いした。


一分一秒でもマロに生きていて欲しかったのだ。


点滴をするため、マロを入院させることにした。
私の腕から主治医の腕に抱きかかえられた瞬間、「ミャア」と声がした。
小さいけどしっかりとした声。


たしかにマロが鳴いたのだ。
完全に意識がなかったのに。


その数時間後、マロは虹の橋を渡った。
7歳、人間で言うと44歳だった。


私はあの日の選択を後悔している。
なぜならマロを一人で旅立たせてしまったからだ。
家族や仲間が大好きだったマロは、
みんなに見送られたかっただろう。
一分一秒でもマロに生きていて欲しいという、私のエゴで一人ぼっちで逝かせてしまった。
マロはそんなことは望んでいなかったはずだ。


私は動物にも感情はあると思っている。
機嫌がいいときや機嫌が悪いときはあからさまだ。
イライラしたり、遊んでほしくて目を丸くしたり、ときどき人間の子供みたいだと思うことがある。


でも、思う。
「死」については、
人間とは捉え方が違うのではないか


人間にとって「死」は特別だ。
忌み恐れるもの。
誰にでも訪れるものだが、
できれば抗いたい。


だから病気になれば治療をする。
「死」を宣告されたとしても、
できる限りのことはする。
そういうものだ。


だが、動物にとっては違うのではないか。
たとえば猫は、具合が悪ければ、人目につかないところでジッと耐えたり癒す。


食欲がなければ、無理に食べたりしない。
内蔵を休めて回復させることもあれば、
静かにその時を待っているのかもしれない。


彼らにとって「死」とは、生命を全うするものなのかもしれない。


私がそのことを感じたのは、
マロ以外の猫たちを見送ったときだ。
「死」を悟った猫は、食事を受け付けなくなる。
口元に運んでも、全力で拒絶する。


食べることは生きるコト、
生きることは食べるコト


食べることを拒絶されたとき、
私も覚悟をする。
できる限りのことをしながら、
猫の意志を尊重する。
私の一方的なエゴで、延命措置はもうしない。


生き物と暮らすということは、彼らの尊厳を守り、彼らの意志を尊重することだと思う。
彼らには彼らのルールがある。
人間にそれを犯す権利はないのだ。


動物は、私たちに多くのことを教えてくれる。
命の尊さ、そして、いつまでも続く愛。
彼らの存在は、私たちの心を豊かにし、
人生をより深く意味のあるものにしてくれる。



だからこそ、今、目の前にある命に精一杯の愛を注ぎ、彼らの生涯を尊重したい。
そして、先に旅立った彼らと、
いつかまた虹の橋で再会できると信じて、
彼らの愛を胸に、これからも生きていきたいと思う。

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