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そもそも宗教とは何であり、何のために存在するのか。念仏の信徒:たけなかさんのホロスコープを読む

きょうは、このホロスコープを読んでみます。



あたしとしては
とても親近感の湧く図です💕



これは一言で言って『生きづらい』図です。
社会生活に困るとか、就職できないとか、外敵が次々襲ってくるとかでは無いんだけど。
(むしろ社会生活全般、そつなくこなせることでしょうけれど)
どぅにも、寄る辺がないというか、
この世に安住の地が無い感じ。




みんな違って、みんな良い。
みたいな話ってあるじゃん?
ホロスコープでいえば
どんなホロスコープも無条件に素晴らしい、
的なことを言う“雑な”人はけっこういる。

占星術界の“オモテの”第一人者といえる
鏡リュウジ氏なんかは、
まぁ表舞台に立つ以上は、
十二星座ぜんぶが等しく素晴らしいだとか、
ひいては、どんなホロスコープも無条件に素晴らしい、みたいな表現を使わざるを得ないのでしょうけど。

この粗雑さが、あたしはイヤ。




じつのところ、
じつに愉しく人生を謳歌できる図もあれば、
生きることそのものがものすごく大変な図もあるわけですよ。
そうして、
その“差”を埋める方法などは無い。

だからわたしはこう言います。
占星術というのは“差別の学問”であり、
公平性や万民救済思想とは無縁ですよ、
ってね。

個性、
なんて安易な言葉を使うと、大事な部分が見落とされる。

個性、
なんて言葉じゃ足りないくらいに、
ホロスコープというのは
(つまり人間というのは)
ひとりひとり違っていて。

そのうえ、
この世=現実世界それじたいが、
対等性だとか公平性とかをまるっきし無視した、きわめて『歪な世界』であるので。

この世の人生を生きることが、
ラクであるか、大変であるかは、
それはもぅ。
人それぞれ、天国と地獄くらいに大きく異なっているのです。




そうして、
この図はとても生きづらい図であり、
この図の持ち主にとって、
この世とはひどく居心地の悪い場所でしょう。




その点では、
あたし(ミミィ)も、
生きづらい図の持ち主であり、
この世を強く嫌悪しているので。

この図のこの方には、
とても親近感を感じますね💕💕💕






♡♡







♡♡





三浦さやかさんの後押しで
ホロスコープ有料鑑定を始めたのは
2024年4月のこと。



その後もなぜか予約は順調に埋まっていったのですが、とくに宣伝広告をしているわけでもなく、それどころか“公式ページ”や“申し込みフォーム”等も用意してないので、基本的には知り合いしか来ないのですよ。

(というより、知らない人にアクセスされる頻度を減らしたいから公式ページも申し込みフォームも作らなかったのですが)

そうして、
初めての『まったく知らない人』からの申し込みがじつはこの、たけなかさんでした。
引き受けるべきか少し迷ったあとで、

①noteにアカウントを用意してもらい
②最低一記事以上書いてもらう

ということを、こちらからあえて要望したのでした。アカウントがあり投稿があれば、それを読むことで『まったく知らない人』では、なくなりますからね!



そんなわけで、
わたしの要望に応えて書き下ろしてくれた3本の記事は、じつに、じつに。
いずれも念仏に関するものでした。
これを読めば、

たけなかさんは念仏の信徒であることが分かります。

ほかに、プロフィール欄には、ヨガ修行にも未練がある、とありますので、たけなかさんはそちら方面の人であることも分かります。






分かります、って言ってみたけどさ!
これは本当に『無いと困る情報』なのね。

ホロスコープというのは
『その瞬間の星の配置』
というだけなので、
図面だけ見ていても、
依頼者の性別さえも分かりません。

最初に『生年月日+出生時刻』の情報をいただいてホロスコープを作成するので、
これは人間の出生に関する図である、
ということだけは確実に分かりますが。

その条件さえも無かったとしたら、
ホロスコープとは単に
『ある瞬間の星の配置』にすぎず、
そこから何もかもを読み解くのは、
根本的に不可能なのですね。

そういうわけなので、
年末年始の申し込みラッシュのときに
一斉に申し込んでくれた人達のなかで、
まだ投稿が無い人は、
鑑定の時期までに何か書いてみてください。
できれば、
自己紹介的なことも書いてみてください。
無くてもペナルティはありませんが、
鑑定の精度は、やはり大幅に落ちます。





♡♡






♡♡






さて。
たけなかさんの図の話に戻るとですね、
この図はとても『生きにくい』図です。

どぅにか人生を生きてゆくためには
言ってみれば“わるあがき”が必要であり。

言い換えれば、
この人は、
『食ってクソして寝るだけの人生』には
絶対に耐えられないタイプの人、
ということですね。

そういうわけで たけなかさんは、
いまは念仏の信徒であり、
かつてはヨガの修行をしていた時期があり、
noteには記載されていなくても、
たぶんほかにもいくつもあるはずです。




これはちょっと説明しにくいことではあるのですが──────。
いやはや、
道徳的にも、
説明の難易度から言っても、
まったくもって、
『言いにくいこと』なんですけど!!!




人間には2種類いて、
『食ってクソして寝るだけの人生』で
満足できる人とできない人。

人口比から言ってたぶん、
大部分が前者なのは確実で。

だからこそ、
この社会のルールもシステムも
『人生とは食ってクソして寝ること』
(の繰り返し)
という視点から設計されているわけですね。







そうしてまぁ、
宗教家と芸術家は、
本来的な意味でいえば、
『食ってクソして寝るだけの人生には、ぜったいに耐えられない』
というタイプの人しか、
なれないはずの職業ではあります。

とはいえ、
宗教家も芸術家も
立ち回りしだいでは、
『莫大な富を築ける職業』でもあるので。

じつのところ、
『高級な食事をして』
『高級な家で眠りたい』
というだけの“俗物”も
たくさん呼び寄せてしまうことになるので、
肩書きだけで区別を付けることは
事実上不可能なってしまっていてですね。





そうして、
そんな現実がある以上は、
『食ってクソして寝るだけの人生には耐えられない』という属性の持ち主が、
自分自身を探求するために、
宗教や芸術にたくさん触れる、
ということをしてみても、
まぁ十中八九、

“ニセモノ”にしか遭遇できない、

という現実に直面させられることになるわけですね。





そもそもの人口比において、
全人口の大部分が、
『人生とは食ってクソして寝るだけのもの』
という世界観に適応していて、

『世の中とはそういうもの』
『人生とはそのようなもの』

だと思っているわけですよ??





すると、
社会の構造そのものが、
『生まれてきたら、食ってクソして寝る、食ってクソして寝る、食ってクソして寝るのを延々と繰り返して、寿命が来たら死ぬ』
という“生き方”に合わせた造りになるので、

『そんな動物のような無意味な人生には』
とてもじゃないが、耐えられない。

というタイプの人のための“なにか”というのは、基本的に、この社会には存在していないのですよね。

そんなわけで、
『人生の無意味さに耐えられない』
という人が、
自分の悩みに向き合おうとして
どこの誰に相談したとしても、

まぁまたしても十中八九、
だれに相談しても
『悩み事の具体的な意味内容さえも把握してもらえずに』
退散させられる、

という事態に、
たびたび直面させられることになるわけですね。

なぜって、
世の人々は
『食ってクソして寝るだけの人生』で
大いに満足していて、
それ以上のものが存在するなんて、
想像したことも無いからです。









♡♡







♡♡







さて。
こんなふうに説明してみても、
『食ってクソして寝るだけの人生』
という言い回しで、
わたしがいったい何を説明しようとしているのか。

分からない人がほとんどなのではないですかね?






ここまでの話を聞いてみて、

『人間というのは、食ってクソして寝るだけの存在じゃないんだ!!!』

『他者への貢献こそが大切だ💥💥💥』
『社会への貢献こそが重要だ💥💥💥』

そんなふうに考える人もいるのでは??







たしかにね、
『自分が』
食ってクソして寝るだけの人生を生きるより、
『他人が』
ないしは、
『社会全体が』
“より良い”食事をして、
“より良い”家で寝られるようになったほうが良いのはたしかでしょうよ?

その志は尊い、とは言えるでしょう。






でもね?
根本的に言って、
いまここで話題にしているこれは、
そんな話ではないのですよ??






ちょっとね、
ここは面倒だけれど、
順を追って説明してみますね?









♡♡







♡♡







昭和時代(いわゆる戦後)には、
こんな価値観がありました。
『良い人生とは』
『良い学校を出て良い会社に入って良いお給料をもらって良い子を育てること』
もちろん、
ここでいう『良い子を育てる』とは
産まれてきた子どもにも、
『良い会社を出て良い会社に入って以下略』
という人生を歩んでもらうことを意味していますから、まぁ一種の無限ループですね。




で?
平成に入ってからは、
個性がどぅの、という価値観が出てきて。
『良い学校』じゃなく
『行きたい学校』に行こう!
『良い会社』じゃなく
『行きたい会社』に行こう!
みたいな話になるわけです。




平成の30年間、
日本はまったく経済成長しませんでしたから!
ある時点からは、
『良い会社』に入ったところで
『良い給料』をもらえるとは
かぎらなくなってきてしまいまして。





で、平成中期くらいからは、
『起業しよう!』
っていう話になるわけですね。

自分の個性を活かして、
やりたいことをやろう!
自分のやりたいことで起業すれば、
好きなことを仕事にできる!!!

そんな流れがたしかにありましたよね?
本田健の幸せな小金持ちシリーズとか
ロバート・キヨサキの金持ち父さんとか。




会社員がいいのか、
起業するのがいいのか、
そもそも今の世の中は不景気すぎて、
どれを選んでも死ぬほど大変だとか。



そういったこともあるけどさ!



そうした話は脇に置いてさぁ!




これってぜんぶ、
『いかにしてお金を稼ぐか』以外に、
なにひとつテーマが存在していないってことが、
分かりますかね??




で?
お金を稼いで何をするかって、
お金の使い道には
『消費』と『投資』しかないのだから。

とどのつまり、
稼いだお金で

①生活をする、か
②もっとお金を手に入れようとする

そのふたつしか
道は無いわけですよ??





何の話をしているか
分かりますか??






もっともっともっともっと
たくさんのお金を稼いだところで、
そんなものは虚しい。
ということに気づく人が出てきたのは、
ひとつの進歩とは言えるのですが。




①いまお金を使うとしたら、
それは(広義には)生活のため。

②未来のためのお金の使い道というのも、
あるといえばあるけれど、
それだって、つきつめれば
『未来において、より良い生活をするため』
ということになり。




①②両方合わせて考えてみれば、
人間とはお金を稼ぐ生き物で、
お金を稼ぐのは生活するためで、
つきつめれば、

人生とは生活である。

という答えになりますね??






たくさんのお金を稼げれば
『豊かな生活=豊かな人生』
あまりお金を稼げなければ
『貧しい生活=貧しい人生』




つきつめれば、
人生とは生活でしかなく。

『貧しい生活』を免れて
『豊かな生活』を手に入れるために
人々は努力している。

あるいは、
『豊かな生活』にたどり着ける見込みがまったく無くて、
『貧しい生活』に耐えている人々もいる。




要約してみれば、
世の中とは、人生とは、
けっきょくこれだけのものなのです。



『お金をたくさん稼げれば良い人生』
『お金をろくに稼げなければ悪い人生』



でね?
そぅぃぅ話をするとかならず、
『お金じゃなくて心の豊かさが大事だ』
みたいな話が出てくるでしょ??

そんな話を混ぜ込むことで、
お金以外にも大切なものがある、
みたいな方向に“逃げる”ことができる。




じゃあさ、
『心を育てることで(心が)豊かな人生を歩むことができる』
ということにしてみようか?
逆に言えば、
『心を育てることを怠った人は、精神的には貧しい人生しか歩めない』
のだとも。




で?
すると、どうなるかと言えば、
『お金があれば(物質的に)豊かな生活ができる』
『心があれば(精神的に)豊かな人生が歩める』
ということにはなるけれど。




そしたらどうなるかって。
べつに何も変わることは無く。






ただ単に、
人生とは生活であって。
朝起きてから夜寝るまでのあいだに、
『食ってクソして働いて』という作業を、
裕福な状態で行うか、
貧乏な状態で行うか、
という程度の違いでしかないことが明らかになる。




物質的に豊かか貧しいか。
精神的に豊かか貧しいか。

物質面×精神面の二択を二回で、
合わせて4パターンあるわけですが。

(①物質的に豊かで精神的にも豊か)
(②物質的に豊かだが精神的に貧しい)
(③物質的に貧しいが精神的に豊か)
(④物質的にも精神的にも貧しい)

どのパターンだとしても、
つきつめれば、
人生とは生活であり、
つきつめれば、
人間とは、
『生まれてから死ぬまで生活している』
だけの生き物。
ということになりますよね??







ここまでの話を聞いて、
多くの読者はそれでもまだ、
いったい何の話をしているのか、
ぜんぜん理解できないかもしれない。





あのね、
人間とは
『生まれてから死ぬまでずっと生活をしているだけの』
生き物。
だから何なんですか??




じつはね、
『生まれてから死ぬまで、ただ生活をしているだけ』ということが、
『虚しくて耐えられない』
という人が、
ごく少数ながらも、
一定数、存在しているのです。





裕福だろうと貧乏だろうと関係ない。
生まれてきて、
生活して生活して生活して生活しつづけて、
さいごには死ぬ。
こんな人生にどんな意味があるというのだ??




こういうことに悩んでしまう人が、
この世にはほんとうにいるのてす。




これは、刺激がほしい、という意味ではないですよ?

どんな刺激的な波乱万丈を体験したところで
『だから何なんだ?』
という感覚は変わりませんから!




また、
たとえばの話、
大学受験に合格するため、
いまは生活を犠牲にして、
ひたすら勉強に打ち込む。

みたいな生き方をした場合だって、
これは
『より良い未来の生活』のために
『いまの生活を犠牲にしている』というだけのことなので、

『人生とは生活である』
という事実には何ら変わりはありません。




そうして、
繰り返しになりますが、
どんな形であれ
『ひたすら生活を繰り返すだけ』
という“人生”なるものの“虚しさ”に
耐え難いほどの苦痛を感じる人も
(ごく少数ながらも)
存在していて、
わたし(ミミィ)はそうだし、
たけなかさんも、おそらく、そうです。








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ここでやっと実物のホロスコープの話に入ると、この図ではアセンダントは水瓶座で、しかもかなり終盤の度数ですね。



(図を再掲)

アセンダントや、それ以外でも占星術の様々な場面に出てくる12星座というのは、
片方ではぐるぐると循環する性質を持ち、
(※魚座のつぎは再び牡羊座、そのまま何周でもできる)
もぅ片方では、
スタート地点としての牡羊座、
ゴール地点としての魚座。
(※春分点がスタート地点兼ゴール地点)




アセンダントが『早い星座』にある場合。

ここでいう『早い星座』とは、
さしあたって
アセンダント牡羊座、
アセンダント牡牛座、
アセンダント双子座のことを指すとして。

ある種の“純粋性”というか、
生きてこの世にいることそのものに価値がある、という考えになりやすいです。

というか、そんなことをいちいち考えたりしないで、とにかく、生きているから生きているのだ、
という感じでしょうか。

牡羊座と牡牛座ではそもそも全く別の星座なんですが、あえて言葉で表現したとすると、
アセンダント牡羊座も
アセンダント牡牛座も
『自分が生きてこの世に存在していることじたいに無条件に価値がある』
という感覚を、ごくふつうに持っている。

また、
アセンダント双子座は、生まれつき好奇心旺盛ですから、
アセンダント双子座の場合は、
『この世の現実をあれこれ体験することに』
無条件に価値を感じる、
という感じでしょうかね。



いずれにせよ、
アセンダントが最初の3つの星座にある場合には、純粋に“生きることを愉しむ”ことができて、まぁ言い換えれば単純バカ、ということになるのかもしれませんが。生まれ出づる悩み、という感じにはなりません。



4番目の蟹座以降は、
仲間たち、他者という要素が加わってきて、
そのぶん純粋さは減ってきてしまい、
天秤座以降の後半の星座ともなると、
ある意味“位置関係が反転している”ことになるので、
(※アセンダント天秤座であれば、自分自身をあらわす牡羊座は他人側の7ハウスにある等)
ある種の“複雑さ”が出てきます。

それでも
9番目の射手座までは、
まだ何とか『前に進もう』『上に昇ろう』という感覚が存在しうるものなのですが。


10番目の山羊座、
アセンダント山羊座ともなると、
そこはすでに山の頂点であり、
『前に進むのなら山を降りるしかない』
という、
名状しがたい“行き止まり感覚”のようなものが、人生のはじめから付きまとってくることになり。

11番目の星座:水瓶座では、
もはや中空を彷徨っているようなものですから、前に進む、とか、高みに昇る、などの感覚を持つことがきわめて難しく、人生そのものが方向喪失状態になりやすい。




こんなふうにですね、
アセンダントの場所そのものが、
“生きづらさ”を表している場合というのも、
あるにはあって。
具体的には、
アセンダントでいうと、
アセンダント山羊座とアセンダント水瓶座は
『生きていることそのもの』に関して
悩みを抱えやすい、と言えます。




なお、
理屈としては
アセンダント魚座の人も、
同じような悩みに直面させられても不思議ではないのですが。

わたしの知るかぎり、
アセンダント魚座の人は、そんなことでは悩まずに、うまくこの世に適応できているように見えます。

日本の占星術界の“ウラの”第一人者である松村潔先生は、
(※よほど本気で学びたい人でないと彼の見解には理解が及ばないので“ウラ”と呼ぶことにしてみました)

アセンダントは魚座の初期度数ですが、
生きることそのものに悩んでいたような雰囲気は、見てのとおり、まったくありません。
なんというか、
なにひとつ悩まずに、
『この世への適応を拒否する』
ことを平然とやっている感じにみえます。
そんなふうに、
必要最低限しかこの世と関わらないことが、
彼なりの、この世界への適応の仕方なのですね。

ちょっと思い出したんですが。
まだまだテレビに権威があった1990年代のこと。
松村先生は、
『日本のノストラダムス』とか呼ばれていて、あやうくテレビに出演させられそうになったとき、
『俺は嫌だよ』とかいって、
飛鳥昭雄に代わりに出演させた、
という話。

はじめから自分の目的が分かっていて、
それと関係のないものはぜんぶ拒否。

自分の人生の目的が
最初から分かっているから、
生きることそのものに悩むことなどありえない。

あの人はそんな人に見えますよね。





わたしとしては、
自分の理論の整合性が取れなくなるのはイヤなのですが。アセンダントが終盤の星座にあることで『生まれ出づる悩み』に苛まれることになるのは、アセンダント山羊座とアセンダント水瓶座に多い印象です。
アセンダントが序盤の星座にあると、そんなテーマでは悩まないし、最後の最後の魚座では、その問題は解決済みのような印象。




そんなわけで、
アセンダント魚座だけはなぜか当てはまらないのですが。
アセンダントが終盤の星座(※山羊座と水瓶座)にあると、生きる意味を感じられない、と言ったような悩みに直面しやすく、人生そのものが厳しいものになりがち。




ほかの人たちは、
『より良い人生とは、より良い生活を手に入れることである』
という世界観、ないしは人生観に、
“なんの疑問もなく”適応しているわけですよね??

なのに、
『そんなものには何の意味も無いんじゃないか??』
という部分で葛藤を持ってしまうと、

その苦しみは、だれにも理解されないし、
むしろ自分でも自分の悩みを正確に把握できなかったりして、

『自分はおかしいんじゃないか』
とかいう、

本来とは別の悩みを
“持たされる”ことにもなります。



わたし自身の実体験として、
noteでは馬鹿正直に
『人生に意味を感じられない』
というか、
『人生は無意味で無価値だ』などと
断定調で自分の思想を表明していますが、

現実世界では、
同じ考えの人に出会ったことは一度も無くてですね。
noteでも、
寄ってきたのは“ニセモノ”だけだったりして。




まぁだから大半の人は
『食ってクソして寝るだけの人生』に
大いに満足しているようで、
違いはせいぜい、利己と利他くらい。

すなわち
『自分だけが』食って寝られれば満足か、
『他人にも』存分に食える境遇を与えたいと願うか。

その程度の差異であっても、
人間としての成熟度を反映した、
じつに重要なものだったりするのですが。

それでも大半の人は、
人生とはそのようなものであると理解していて、

人生そのものが
『たかだか食ってクソして寝るの繰り返しでしかない』ことに、
どぅしょぅもなぃ虚しさを感じる、
という人は、
ほんとうに、ほんとうに、
少数派なのでしょうね。




わたしに言わせれば、
インドの王子様がとつぜん出家したのは、
この世そのものが持つ
『底無しの虚しさ』のせいなのですが。

それさえも、
一般的な宗教家の手にかかれば、
『お釈迦様は衆生(人々)を救うために』
『あえて全てを捨てて修行の道に入られた』
などという“美談”にすり替えられてしまっていたりするのが現状だったりするわけですね。

『この世は虚しい』
と考える者が、
いかに少数派であるかが、
偲ばれます──────。












♡♡








♡♡







でね、
そんなアセンダント水瓶座終盤度数の
たけなかさんのホロスコープは、
そこに輪をかけて、配置がすごく極端。




(図を再掲)

これ、ドラゴンは除外して
基本10天体だけで見てみると、
上側(南半球)に9天体、
下側(北半球)には1個だけ。土星。



上のハウスと下のハウスの分割は、
上は“公的な”ハウス、
下は“私的な”ハウスですからね。
この人は公的領域が広くて、
私的な部分がとても少ない。
しかも“私的な”下のハウスにある唯一の星が土星だったりして、これだと私的な領域においてもきちんと義務を果たせ、ということになりますから、まったく気楽ではない。




冥王星─土星─水星で
土のサインかつ風のハウスでの
三角形ができていますね?
しかもグランドトラインじゃなく
トールハンマーなのよね。

(120度120度120度じゃなくて)
(135度135度90度)

これは発する言葉がどぎつくなるか、
自分の言葉に自信が持てないかのどちらか。

何か書いてみて、と言われて、
おすすめの念仏本の話題にしたのは、
やはり、文字どおりの“自己紹介”をするのは、どこか抵抗があるのでしょう。




そして、
月の位置が凶暴すぎて悲惨。
対人関係がものすごく苦手でしょうね。

というか、
被差別的、と言えるくらいに、
この人の身にだけは厳しい出来事が降りかかり、対人関係を“楽しいこと”だと思える機会がそもそも無かった印象。




といっても、
太陽12ハウスですからね、
対人関係をどぅにかしようとするよりも、
ひとりきりで“自己探求”に打ち込むほうが、
この人の人生の目的としては合っています。

ヨガの修行に打ち込み、
おそらくそれ以外の体系にもいろいろと門を叩いたあと、
いまでは
念仏の信徒、という位置に落ち着いた。

それで合っています。

『どの』体系が適切か、ということは、
ホロスコープだけで読み解くのは
ほとんど不可能なのですが。

修行と自己探求に打ち込む人生だった、
というのは、
まったくもって適切なことです。

というより、
ほかの人生は不可能でしょうよ??






結婚して家庭を築いたとしても
妻子は心の拠り所にはまったくならず、
(※男としての義務は果たすことでしょうけど)
けっきょく修行に打ち込むよりほかは無く、
すると、
いずれは妻子を捨てて出家してしまうか、
そもそも最初から妻帯を拒否するか。




12ハウスの太陽は山羊座終盤でもあり、
ひとりきりで山に籠って修行するイメージ。

山羊座の守護星は土星で、
じゃあ土星はどこにあるかというと、
みごとに
“たったひとつの下のハウス”が
3ハウス牡牛座の土星ですから!

修行を完成させたら、
山から降りてきて。
人々、というか主に“若い子たち”に、
道を説くことになるのではないでしょうか?




これって??
十牛図の最後の一枚みたいだ??!?




山奥に籠って修行に打ち込んで、
修行が完成したら山から降りてきて、
人々(というか後進の者たち)に教えを説くの。



その頃には、
さきほど説明した
冥王星─土星─水星の三角形の意味も
大きく変わっていて。

“この人の言葉には力がある”

という感じになっているでしょうね。

“この人の言葉には法が宿っている”
“この人の言葉には法が生きている”

というような。




たけなかさんは、
十牛図はご存知でしょうか??




すでに念仏の信徒として生涯をすごすことを決意されているのなら、いまさら十牛図を研究する必要は無いのですが。

十牛図の第十図=“入鄽垂手”を、
ある意味での“人生の目標”
ないしは“人生の到達点”として、
掲げてみられてはいかがでしょうか??




宗教家に向いている人というのは、
大きく分けて3種類いまして。




この3種類というのは
ここまでの説明から類推できる、というか
この鑑定文の当然の帰結でもあり。




①まずね、
『お金がほしい』
『偉くなりたい』
というだけの人が、
よりによって宗教家なんぞを目指してしまい、
よりによって思惑どおりになってしまうと、

まぁ確実に腐敗しますね。
大金を溜め込み、
愛人を何人も抱えていた、
という現代の仏教僧には、
ほんとうによくいるタイプがこれです。



②つぎに、
『人々を救いたい』
『社会に貢献したい』
というタイプの人が、宗教にこそ救いがあると考え、宗教家になったという場合。

このタイプは修行のかたわら、慈善事業に夢中になったり、ボランティア活動に手を出したり。

べつに、まちがっているわけではないのですが。このタイプの人は苦労を美談に仕立てたがるし、弟子にはやたらと厳しいです。



それにね。



あけすけに
『お金がほしい』
『名誉がほしい』
という①のタイプよりはよほどマシではあるのですが。

それでも②の人には、
『自分は善人である』
『そのことを人々にも知ってもらいたい』
(あるいは釈迦如来にみていてもらいたい)
というような、
“形を変えた”欲望が含まれているのが
通常であり。

しかも、
本人はそのことを自覚していない場合が、
じつに多い。

だからこそ、
こういう人は、
『良い事をしているはずなのに』
偽善者呼わばりされると、
怒り出したりもします。




『宗教家は自分にも他人にも厳しい』
というイメージは、
じつに、ここから来ているんですね。

偽善者、と呼ばれて、
はいそーです!偽善者でーーーす!!!
とは言えない『自我のプライド』ですね。



世の中における
宗教家のイメージというのは
①はニセモノで
②がホンモノ。
という理解でしょうけど。

じつは②だって、
“形を変えた”ニセモノにすぎず、

じっさい、
高い理想を掲げて聖職者になった②が
カネだかオンナだか知らんけど、
ある時点で堕落して
①になってしまうことは
ありえます。

というか、
これって『よくある話』ですよね??

なぜこんなことが起こるのかといえば、
すこし引いた目線から見れば、
①も②も変わりはないからです。



どぅぃぅことかというとですね。





『宗教家になる』のではなく
『医者になる』だとか
『弁護士になる』だとかに
言葉を置き換えても、
これって同じ話が、そっくりそのまま成立しちゃうでしょう??

つまりね、
それだと名前だけは宗教家であっても
その人は単に世俗の人であり
『世俗の外にある別の世界』
(=聖なるもの)
には触れたことがないわけですよ。

なので、
仏教だろうとキリスト教だろうと、
スピリチュアル方面のそれらしい名前だろうと、
つきつめれば、
これって、
世俗の人が世俗の活動をしているだけ、
という話なのですよ??



なので、
わたしに言わせれば
①②どちらもニセモノにすぎず、

だったら最初から
“世俗の職業”に就いたらいかがですか??
そのほうがずっと“分かりやすい”ですよね?
というふうに、わたしは思います。





そういうわけなので。
わたしの考える“本物の宗教家”というのはですね。

③生きることの無意味さに耐えられず、
この世の無意味さから逃れたくて、
修行に打ち込んできた者。

ということになるのです。





本来、
宗教とかスピリチュアルというのは、
『この世の外にあるもの』です。




『この世の外にある』なにかを探求して、
じっさいにそれを見つけ出してしまって、

なおかつ、
それでも、
まだこの世に“滞在”している者だけが、

宗教家、ないしはオカルティスト、スピリチュアリストとして、人々に教えを説くことができるし、価値のある言葉を差し出すことができる。

わたしは、
そんなふうに考えています。





さきほどの①②との対比でいえば、
そもそもの目的地が
この世には存在していないため、
この世での『利己』とも
この世での『利他』とも
無縁でいることができ。

この世にそもそも価値を置いていないのだから、食って寝る場所はじつに質素なもので良く。それこそ草を編んだ庵でもよく。

この世を生きることは地獄の苦しみであることを肌で知っているからこそ、人々、とくに弟子たちに対してとてもやさしい。




慈悲、
という言葉がありますね?
これは利己でも利他でもなくて、
この世はどぅあがいても地獄でしかないことを本当の本当に理解できてはじめて出てくる“肌から滲み出てくるような”ひとつの感性なのですよ?





たけなかさんは、
この世にはほんとうに数少ない、
“本物の宗教家”になれる人のように
わたしには思えます。




どぅか修行を完成なされて、
どぅぞ世俗へと還ってきてください。




修行が完成した瞬間は
おそらくご自分でもわかるはずで、
そのあと何をすべきかも、
自ずと明らかになることでしょう。





その日がくるのを、
わたしは心待ちにしております。






【おしまい】




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