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憎しみと強さ
本を読み終わってもないのに感想を書くなんて初めてかもしれない。
でも良いのだ。この話の結末がどうであろうと、この話の中で自分が大切だと思えるような文章には、もう出会ったからだ。
この話は全10章で構成されているが、章の名前は全て漢字一文字、「コウ」と読むことができる漢字だ。
読みながらこのことの意味を考えるのも面白い。
端的にあらすじをまとめると、戦争真っ只中のお話だ。題名は「コイコワレ」だが恋愛要素はほとんどない。とある寺に集団疎開してきた浜野清子と、もともと寺に住む(拾われ子の)リツという2人の少女を中心として物語は繰り広げられる。
この本には、不思議な怖さがある。それは時に戦争より怖い、「憎しみ」だ。
戦争を生んだ、「憎しみ」とも言えるかもしれない。
浜野清子とリツという2人の少女は、出会った時から互いに互いを嫌い、憎しみ合うのだ。この本を8割ほどすでに読んだが、少なくとも今私が読み終えた部分までは2人はずっと、ただただ憎しみ合っている。
言うなれば、1人が山で、もう1人が海。
決して交わることのない2人が、交わってしまったことにより生まれてしまった憎しみは、恐ろしい。
強い人間は、憎しみを相手にぶつけない、ということ
強い人間は、憎しみを相手にぶつけることなどせず、自分の中で自分の憎しみと戦い続ける。
確かにそうかもしれない。
憎しみを相手にぶつけるから、争いが生まれる。弱い人間が憎しみを争いの理由にしてしまう。
この本は間接的に「戦争は憎しみを相手にぶつけてしまうような弱い人間が始めたものだ」ということを伝えたいのかもしれない。
憎しみを抱いても、争わないでいることはできる。
誰かを憎く思うのは仕方がないことである。
でも憎しみを、争いにまで至らせることには何ら意味がない。
この本の中で浜野清子の母もそういうようなことを言っている。
強い人間は、自分の憎しみと戦うのか。
誰に当てつけたりもせずぶつけたりもせず、自分の中で憎しみと向き合うのか。
そういう人間が「強い人間」と呼べるならば、そういう意味では私は「強い人間」と呼べるかもしれない。
自分のことを強い人間だなんていうのはおかしな話かもしれないが、
この話で言うような人間が「強い人間」ならば、私はそういう人間になりたいと思う。そういう人間を目指し続けたいと思う。
憎しみを抱かずに相手にプラスの感情だけを持って生きることなんて、絶対に無理だ。
人は人との関わりの中で絶対にマイナスの感情を抱くことがある。
それが憎しみに変わるきっかけなんて、ほんの些細なことじゃないだろうか。
たまに「楽しかった思い出は?」と聴かれた時、楽しかった思い出よりも辛かったことや苦しかった思い出の方が先に思い出されてしまうことがある。
自分の人生をたまに思い出したり振り返ったりしてみても、どうしてか楽しかったことや嬉しかったことで できている「良い思い出」より、マイナスの感情で できている「思い出したくもない思い出」が、先に頭に浮かんできてしまうことがあるのだ。
そう考えると、私はまだまだ「憎しみ」との戦いに勝利できていないのかもしれない。
憎しみを自制できていないのかもしれない。
それでも憎しみという感情をプラスの力に変えようとどうにか生きてきたはずだ。
憎しみという感情があって初めて頑張ることができたことだってあったはずなのだ。
そう考えれば、「憎しみ」を自分の一部として捉え、それが外に漏れてしまわないように抱え込むことができているのかもしれない。
「憎しみ」と戦う「強さ」は、誰もが持っているものではないからこそ、争いが絶えることはない。
そう思うと、
「憎しみ」そのものを消し去る努力をしていかなければいけないのか、と
ほんの少しだけ、
そんな感じがしたのだった。