私が太った原因を探ると愛情の欠乏にたどり着いた話。
先日、昔の画像や動画を整理していた妹が、昔の私はキレイだったと言ってきた。
――なんでこうなった?
その時は、「下の子を産んでから」とか「年」とか「食べてるし」とか言っていたのだが、なぜかこの疑問は傷つけられたとかの残り方ではなく、頭から離れなかった。
まるで、そこを深堀しなされと言ってるように。
ということで、脱毛話の途中なのだが、一つの解答が生まれたので書いておこうと思う。
ダイエット系も書こうと思っていろいろ自己分析していたのだが、少し書き直さないといけなさそうだ。
預言者
脳内をぐるぐると「太ったきっかけ探し」の旅を始めてしばらく経ったときに、小学校高学年頃に父に言われたことを思い出した。
「この子(私)はデブになるんじゃないか」。
今思い返すと、単なるノリで言った言葉だったように思うが、当時、私は両親からの扱いに少し飢えていて、溺愛される妹との比較に苦しんでいたので、美醜がその理由なんだとショックを受けた。
なんで今まで忘れていたのかはわからないが、確かにショックを受けたのだった。
細かった頃を思い出すと、私はあの頃でも「まだ太い」と自分を評価していた。
もちろん標準体重だったので、一般的に肥満と言われる位置にいないことは知っていたが、それとは別に「太い」と思っていた。
これはなんなんだろう。
ずっと、私はどんな体重でも「太い」。
そう自分のことを思ってきたのだ。
あれ?私ってこんな人間だっけ?
ここ数日、私はずっとこう思っている。
何か、忘れ物をしてきたような感覚なのだ。
話は変わるが、昔、ホンジャマカの石塚さんが「デブに悪いやつはいない」と冗談交じりにおっしゃっていたのを見たことがある。
ダイエット本や教訓にも、「残す勇気」「断る勇気」などと書かれることがあるが、「出されたものは食べる」「残さず食べる」「断れない」というのは私も大きく共感できる。
薦められたら、お腹すいていなくても、なんならパンパン状態でも「ありがとうございます」と言ってしまうのだ。
私、これは「欲求の麻痺」だと思う。
ほしいほしいお化け
つまりだ。
私は親にせよ夫にせよ、愛情の飢餓状態が続いている。
※参照↓↓
モテてる友達を見ていると、「愛情をかけられることを当然とできる自分」があるように思うのだが、私はその逆で、「愛される状態にあまり慣れていない」。
人に告白をされたこともあったりするが、申し訳ない気になったりする。
モテたいなー、愛されたいなーと思って苦しんでる状態のほうが過ごしやすいのだ。
私が両親から「愛されている」という実感を受けたのは、両親が望むようにふるまったときだった。
つまり「期待」が「愛」だというバグを起こしていたのだ。
夫にシテシテお化けになったのって、夫が私に「~してほしい」とかをあまり言わず、逆に私のシテシテを断ったりしたからなんじゃなかろうか。
彼は、期待に背いても愛されることを知っている。
そういう育てられ方をしているからだ。
期待通りにいかなくても、ご両親は彼を批判も非難もしない。
でも私はそれがダメなことだと言われて育った。
そこで盛大なバグが生まれてしまったんだと思う。
何気なく「これしてくれない?」と言われると、それが私に期待されていることと思ってしまう。
そして期待されない状態を知っていて恐れているので、何が何でもやってしまう。
「断れない」もそうなのだ。
相手は別に期待じゃないのだ。
何なら気軽に断ってもいいと思っている。
それなのに、「期待」だと思う。
「ない」が普通で「ある」を求め追う側に属している人間は、「ある」ことが貴重で希少だと思っている。
「ある」が普通の人よりも、食べ物も環境も、信頼も愛情も素晴らしいことを知っている。
そして。
執着をする。
溜め込み体質
要は、性格と連動して体形も年月を経てそうなったんだと思う。
断れないからいっぱい食べるし、飢餓状態に陥りやすいから、あればあるだけ詰め込む。
人の期待には思っている以上に応えようとするから、オーバーワークでストレスもかかりがちだし、自己犠牲をしても人のために動こうとする。
人以上のことをしないと私に愛情がくることはない、くらいに思ってるんだと思う、心の奥底で。
体の悲鳴も後回しなのだ、外ばっかり見ているので。
自分へのストレスや飢餓状態は、食って飲んでなだめるようにする。
体の声なんて聞こえないフリを決め込む。
なるほど、こういう循環が起きてたんだな。
いろんなことの不調も、太ったのも。
「そのままでいいよ」の経験値がまったくなかったからだ。
両親のせいではない。
親として未熟なのはお互い様だ。
そんな親に私は〇をつけてしんぜよう。
でないと、私はいまだ×を過去にも今にも、おそらく未来の自分にもつけることになるから。