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マツリゴトを負う女たちの覚悟の花

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第16回 『彼岸花が咲く島』(李 琴峰)

ある年の9月、連休に両親がふたりだけで格安のバスツアーに出かけた。例年、8月のハイシーズンを避けて9月に夏休みをとって、両親と私の3人でちょっとした旅行に出かけるのだけれど、その年は仕事の都合で私の休みがとれず、両親だけで行くことになった。

父も母も高級な旅館やホテルに泊まりたいとかいいものを食べたいとか、これが観たいといった旅へのこだわりはほとんどないのだが、車を持っていない、運転もしないので、近隣の大きな駅から観光地、宿泊施設までバス1本で行ける添乗員付きのツアーを好んだ。

このときも最寄り駅でもらったチラシに近郊の避暑地への格安バスツアーがあり、母が目をつけて申し込んだ。

往復のバス料金、2泊3日4食付きの宿代、できたばかりで話題になっていたアウトレットショッピングモールやちょっとした観光地への送迎、それに添乗員がついて1万5,000円という破格の安さに、母は大丈夫かしら?と訝しがりながらもお気に入りの避暑地へ行けることに喜んだ。しかし母の予感は、ある意味、的中した。

当日ふたりは、朝早くリュックサックを背負って出かけていった。昼過ぎには避暑地の目玉のひとつになったアウトレットショッピングモールに到着して、昼食となった。宿のチェックインが始まる15時まではフリータイムで、そこでのショッピングを楽しむ行程だったが、父も母も買い物にはそれほど興味がないため、緑豊かな広大な敷地を散策したり、木陰で都会にはない爽やかな空気を楽しんだりした。

15時にバスで再び出発して、16時前には宿に到着した。ホテルや旅館というよりは、大企業が所有している研修所というか、小中学生が移動教室などに使うような古ぼけた山荘といった感じの宿だった。バスから降りたツアー客がチェックインを済ませて、それぞれの部屋に向かおうとしたところ、エレベーターがない。誘導の係の人が出てきて、階段を使って部屋まで案内する。

各階の廊下は暗く、長い間、換気をしていなかった古い建物特有の臭いがすることに、ツアー客は不安を覚える。係の人はそんな不安をよそに、1階ずつ廊下の電灯のスイッチを入れながら、窓を開けながら(いまさら?)案内して回った。

部屋はロッジ風なつくりで、山側の眺めのよい部屋ではあったが、やはり長く換気をしていなかった臭いがする。換気のために窓を開けようとすると、硬くて軋んでいる。父が力任せにこじ開けたが、網戸がなくて虫が入ってきて、結局閉めざるを得ない。ベッドやシーツは一見清潔ではあったものの、なんとなく湿っぽい。トイレは、和式便器の上に洋式の便座を取り付けたもので、ウォシュレットであるはずもない。風呂も昔ならどこの家にもあったタイルばりで、浴槽の横につまみをひねってカチカチカチと点火する沸かし器がついたものだった。

値段が値段だったので、それほど期待はしていなかったが、ここまで古色蒼然とした宿だとは思わなかった。風呂に入ることを諦めたふたりは、湿ったベッドで一休みしたのち、夕食のために食堂へ降りて行った。

夕食もこれまた昭和の社員食堂といったようなメニューで、ご飯と味噌汁、アジフライとコロッケに刻んだキャベツ、小鉢に申し訳程度の切り干し大根が盛られている程度で、唖然とした。たしかツアーのチラシではカニだかエビだかの食べ放題がうたわれていたはずだが(沿岸部でもないのに)、それもない。

なんだか腑に落ちないことばかりの客たちは、部屋へ戻る途中、安いからといってもこれはひどいのではないかと口々にいい合った。ある夫婦客がいうには、日が落ちて寒くなったので、エアコンを入れようとしたら、部屋にエアコンらしきものがない、電気ストーブが借りられるかフロントに連絡したが、電話はつながらず、添乗員に連絡してみたところ、季節的にまだ用意していないという返事があったといって、憤慨していた。

ツアー客の多くは、両親のような定年退職後の夫婦か、年配の女性同志のペアやグループ、もしくは子供がまだ小さい家族連れだった。何ごとにも諦めという名の適応力で人生のあれこれに対処してきた女性たちは、この安さですものしょうがないですよねといった様子だった。

一方エネルギーを持て余し気味の年配の男性や家族連れの父親たちは血気盛んに、これはおかしいのではないかと添乗員にクレームを入れようということになり、食堂に残ることになった。女性たちは何も楽しみにしていた旅行でそんなことをしなくても・・・といった心境でそれぞれの部屋に戻っていった。

男性たちが食堂でああでもないこうでもないと言い合っていると、各部屋へ案内してくれた係の人が通りかかった。格安とはいいながらも、あまりにも設備や食事がひどいので、宿の支配人と添乗員を呼ぶようにと声をかけた。

私はこの施設の従業員ではありません。この近くの住民で、しばらく使用していなかったこちらの施設で何か催しものがあると言われて、駆り出されて手伝っているだけです。

皆、きつねにつままれたように、ただただ唖然とするばかりだった。

とうとう、ある男性が携帯電話で添乗員を呼び出して、強い口調でひととおりの不満をぶちまける。すると、添乗員はその手のことには慣れているらしく、慌てる様子もなく、とおり一遍の詫びを述べたのち、本社に確認して明日の朝までに対応案を用意すると約束した。

翌朝、ツアー客が集まった朝食の席で、添乗員からことの説明と対応案が伝えられた。もともと用意していた宿が、施設の不具合か何かの理由で直前に提供できなくなり、急遽、この施設と食事を用意した。ただし、現時点では他の宿も手配できないので、もしこれ以上、ここに宿泊したくない、途中キャンセルしたいということであれば、迎えのバスを手配したので、それで戻っても構わない、全額返金するということだった。

そして両親をはじめとするツアー客の半分くらいが、迎えのバスで戻ることになった。

両親はバスが到着するまでの時間、荷物をまとめ、すこしだけ周辺を散策することにした。部屋のそばにあった非常口の方から建物の外に出ると、燃えさかる火の海に飲み込まれたような錯覚を覚えた。群生する真っ赤な彼岸花が、風に揺られて波のように押し寄せてきた。

* * *

彼岸花、日本では秋のお彼岸前後に咲く花で、炎のような赤い花が秋の深まりを感じさせる。都市部で育った私にとっては、墓地に植えられている印象が強く、毒があるから手折ってはいけない、触ると毒が身体にまわって死んでしまうといった都市伝説のようなことを、幼いころ大人たちから聞かされてきたせいか、死のイメージと結びついていた。また小学生の頃に国語の授業で学んだ『ごんぎつね』にも出てくることから、悲しい花でもあった。

近年、漫画『鬼滅の刃』で「青い彼岸花」が重要な意味のある花として登場したことで、注目を集めている彼岸花だが、あらためて考えてみると、伝統的な和歌に詠まれていた記憶はなく、別名の曼珠沙華も含めて、近代以降の短歌や俳句に登場するくらいなのでは?といった不勉強さであったため、『彼岸花が咲く島』というタイトルの本を見つけたとき、どのような花として描かれているのか、がぜん興味が湧いて読んでみることにした。


白い砂浜に、見知らぬ少女が打ち上げられていた。身体中にひどい傷を負った少女を見つけた〈島〉の少女游娜、家に連れて帰り介抱した。意識を取り戻した少女は記憶を失い、自分の名前すら思い出せない。游娜が話す言葉には、ところどころ理解できる単語はあるものの、ほとんど理解できない。游娜に「宇美」と名付けられ、〈島〉で暮らしていくことになる。

彼岸花をはじめとする〈島〉の薬草を使って宇美の介抱をした游娜は、島の中で彼岸花を採取する役割を担っていた。彼岸花は宇美が打ち上げられた〈島〉の北側の浜辺近くで群生し、貴重な薬草として〈島〉で厳重に管理されているため、その扱いを学んだ者にしか採取が許されていなかった。

〈島〉はノロと呼ばれる指導者であり各種祭礼の祭祀を務める女たちによって治められ、女だけに許された〈島〉の歴史を語り継ぐ〈女語〉と呼ばれる言語があり、男は〈女語〉を学ぶこともできなければ、ノロにもなれない。彼岸花の採取も女にしか許されていない。

〈島〉では16歳で成人とされ、何かしらの職業に就き、オヤの元を離れて自立しなければならない。オヤと子は必ずしも血縁関係にあるわけではなく、自立したものならば、単身であっても、男女であっても、同性同志であっても、〈島〉の子供を迎え育てることができる。

子供たちはある程度の年齢まで〈島〉の子として育てられたのち、大人に引き取られ、学校卒業まで育てられる。いわゆる婚姻と血のつながりに基づく家族という概念がない。游娜も単身の女に育てられ、学校を出た後は、ノロになりたいと考え、そのための特別授業を受けている。

ノロを束ねる〈島〉の統治者大ノロは、よそ者の宇美が〈島〉で暮らし続けていくためには、ノロになることが条件だと告げる。宇美は〈島〉の日常の言語を学びながら、游娜とともにノロになるため〈女語〉の勉強を始める。宇美にとって〈女語〉は記憶を失う前に使っていた言語と共通するところがあるせいか、めきめき上達していった。

しかし游娜に想いを寄せる同級生の拓慈が、男には禁じられている〈女語〉を密かに学び、ノロになり〈島〉の歴史を知りたいと考えていることを知って、なぜ男はノロになれないのかと大ノロに問いただす。ノロになれば自ずと分かることだと諭す大ノロ。游娜と宇美は、自分たちがノロになったら、拓慈にも〈島〉の歴史と〈女語〉を教え、男がノロになる道を開こうと考える。そしてノロの試験の日がやってくる。

〈島〉の彼岸花

この『彼岸花が咲く島』の〈島〉は、「東西に長く、南北に狭く、ガジュマルの葉のような形」をしていて、「高温多湿で樹木の生育に適しており、全体的にガジュマルや蒲葵(ビロウ)に覆われて鬱蒼として」いるという。

その〈島〉で1年中咲く彼岸花は、花弁をすりつぶして水を加えてかき混ぜて、痛み止めの生薬として傷口に塗られる。痺れを伴う麻酔ほどの効果がある。物語の後半では、〈島〉が貿易で生活必需品を得るための阿片のような役割を担っていることが明らかになる。一方、現実の彼岸花は1年に一度しか咲かない。鎮痛作用もあるが、大量に摂取しない限り麻酔や阿片ほどの効能はない。

本書の巻末に付せられた参考文献から、〈島〉は与那国島をモデルにした架空の島だと考えられる。巻頭に置かれた〈島〉の地図と現在の与那国島の地図を見比べてみると、地形はほぼ同じで、与那国島も「東西に長く、南北に狭く、ガジュマルの葉のような形」をしている。岬、浜辺、港、御嶽(うたき)と呼ばれる聖地、集落、空港(作品の中では、「過去」に空港があったとされる場所に彼岸花が群生している)の位置もほぼ一致する。

ところが与那国島では、ヒガンバナ科の花として黄色のショウキズイセンは咲くが、私たちが一般的にイメージする赤い彼岸花は咲かない。つまり本作の彼岸花は、ある意味、架空の花なのだ。架空の花ならば、あえて彼岸花である必要もなく、実際に麻酔や阿片のような効能を持つ花、あるいは現実には存在しない全くの架空の花でもよかったはずだ。

しかし大ノロとノロたちによって語り継がれてきた〈島〉の歴史と、游娜、宇美、拓慈ら若者が担う〈島〉の未来に思いを馳せるとき、やはり彼岸花でなければならなかったのではないかと思うのだ。

彼岸花の“赤”が負う太陽の神、火の神

改めて彼岸花の描写のすべてに目を通してみると、薬効だけでなく花の赤色に言及している箇所が多いことに気がつく。

物語の冒頭、宇美が浜辺に打ち上げられたシーン。

 砂浜に倒れている少女は、炙られているようでもあり、炎の触手に囲われ大事に守られているようでもあった。・・・中略・・・
 少女を包み込んでいるのは赤一面に咲き乱れる彼岸花である。砂浜を埋めつくすほど花盛りの彼岸花は、蜘蛛の足のような毒々しい長い蕊を伸ばし、北向きの強い潮風に吹かれながら揺れている。薄藍の空には雲がほとんどなく、太陽はちょうど中天に差し掛かる頃で、その下には際限なく広がる海水は浜辺から翡翠色、群青色、濃紺へとグラデーションしていく。白い波は彼岸花の群れに押し寄せては、岸を打つと音を立てて砕ける。

『彼岸花が咲く島』(李 琴峰 文藝春秋)電子書籍版

「炙られているようでもあり、炎の触手に囲われ大事に守られているようでも」とは、まさに赤い6輪前後の花を上に向かって放射線状に咲かせる彼岸花の姿であり、「炙られている」と「大事に守られている」とは、毒にも薬にもなる〈島〉の彼岸花の両義性を暗示するところから物語ははじまる。

そして緑青色の空と海を背景に、南西諸島特有の強烈な太陽に照りつけられた彼岸花は、「赤一面に咲き乱れ」「砂浜を埋めつくす」ように咲いているのだが、太陽の赤々しさを受けて、より一層、火や炎のような赤々しさを映し出すものとして語られている。

〈島〉のマチリ(祭り)の潔斎期間が明け、学校で行われた催事で游娜や拓慈らが〈島〉に伝わる舞踊を披露し、島民たちが湧きかえるなか、宇美は寄る辺ない自分の境遇に耐えられなくなり、打ち上げられていた彼岸花が咲く浜辺にひとり向かうと、そこでも燃え盛る炎のように彼岸花が咲いている。

集落の北に位置しているこの砂浜は、季節にかかわらずいつ何時も赤い彼岸花の絨毯に覆われているらしく、今でも燃え盛っている。緑の茎に支えられている無数の妖艶な炎の触手、それが傾きつつある橙色の西日を照り返し、今にも燃え尽きて消えてしまいそうで儚く見えた。

同上

心配して追ってきた游娜に声をかけられたとき、宇美が目にしたのは、游娜が着ている舞踊用の赤い衣装と彼岸花が溶け合って一つになっている風景だ。

色鮮やかな赤の着物はそのままで、日没後なほんのり明るい光の中で、彼岸花の絨毯と渾然一体となっていた。

同上

そして台風で島民が3人亡くなると、游娜たちが暮らす集落の海岸の崖下に遺体が置かれて、風化するのを待つ。そこでも彼岸花が灼熱の太陽の光を受けて、燃えるように咲いている。

島民たちは岩陰の外で立ち止まり、ノロたちが彼岸花の群れを渡り、遺体を中へ運んだ。昨夜の嵐が嘘だったかのように、空は雲一つなく晴れ渡り、太陽の灼熱の白光を受けて、岩肌から陽炎が立ち上り、彼岸花は狂ったようにめらめら燃え盛っていた

同上

さらには、游娜と宇美がノロの試験に合格し、大ノロから島の歴史を受け継ぐ儀式が、彼岸御嶽と呼ばれる聖地で行われる。そこには樹齢300年以上の赤木があり、〈島〉で最も神聖な樹だと考えられている。

石垣に囲まれているのは、五人が手を繋いでも抱きかかえることができないくらい、幹が太い大きな赤木だった。石垣の周りには赤い彼岸花が咲き乱れている

同上

赤木とはよく聞く名前ではあるものの、どのような木なのか詳しくは知らなかったので、調べてみると、半常緑の高さ20~30mの大木、樹皮は赤褐色を帯び、削ると赤い樹液を出すという。いくつか樹液の写真を見たが、血のような赤いどろっとした樹液だったのに、ギョッとした。

おそらく御嶽の赤木は神が憑りつく樹であり、その周りを取り囲む石垣は聖(神域)と俗(日常生活の場)とを分ける境界と考えられる。

ちなみに、実際の彼岸花は球根に毒があるのだが、同時に他の植物の繁殖を防ぐアレロパシー(他感作用)という作用がある。墓地で彼岸花を見かけるのは、土葬だった時代、動物による掘り起こしや他の雑草の繁殖を抑えるためという説があり、それを考え合わせると、御嶽の石垣の周りの彼岸花も、神域を動物や他の植物から守る役割があるのではないか。

赤い樹皮の大木、濃い常緑、咲き乱れる彼岸花と、赤と緑に包まれた空間を想像すると、神さびた空気が頬をピリッとさせた。

この聖なる赤木に宿るのが、伝説の楽園「ニライカナイ」の神だと考えられる。〈島〉の信仰では、ニライカナイは海の向こう(西方)にある伝説の楽園で、死後に魂が戻る場所、島に宝物をもたらすと信じられている。年に数回、ノロたちはニライカナイへ船で渡り、ニライカナイの恩恵としてたくさんの宝物(島の暮らしに必要な飲食料品、洋服、日用雑貨品だけでなく漁船や自動車などの耐久消費財など)を持ち帰る。

このニライカナイ、〈島〉のモデルになっている与那国島をはじめとする沖縄南西諸島の伝説にも存在し、五穀豊穣をもたらすとされている。しかし〈島〉の伝説とは反対に東方にあるとされ、太陽の神「あがるいの大ぬし」(東方の大主)がいると信じられている。特に古代においては、太陽の神と人とをつなぐのが火の神と考えられていた。

〈島〉のニライカナイは西方にあり、それを祀る御嶽も西方の極楽浄土を思い出させる「彼岸御嶽」と名付けられていることから、太陽の神や火の神について触れられることはないが、その代わり彼岸花の赤色を何度も太陽や炎のように語ることで、太陽の神や火の神をイメージさせようとしているのではないか。

〈島〉の歴史とノロという女性神職

そして太陽の神や火の神を祀るのがノロであったという。ノロとは、沖縄西南諸島の村落の祭祀を担う女性神職の呼称の一つで、古代においては、村落の宗家(創始者一家)を出自とする女性がノロとなった。その後、武力によって複数の村落を支配する家が現れ、そこを出自とする女性がなり、15世紀後半の尚氏による琉球王朝成立後は、王府の管理下で公職としての地位が与えられたという。

ノロは村落の御嶽で火の神を通じてニライカナイの太陽の神をはじめとする神々を祀ることで、村落の安寧繁栄や五穀豊穣、除災、航海安全などを祈願した。

太陽の神と火の神との繋がりについては、諸説あるのでここでは詳細は触れないけれども、おそらく火や炎の赤々しい様子に太陽を見出したということなのだろう。

火の神とノロの繋がりは、一家の台所で食事の煮炊きに火を扱う女性が、火に神性を見出し家内安全や子孫繁栄を祈願するわけだが、村落の宗家(創始者一家)、あるいは複数の村落を支配する家のノロが火の神を通じてその家について祈ることは、自ずと村落そのものについて祈ることになったのではないか。

ノロはあくまでも祭祀を司る存在であり、政治は根人(ニーッチュ)や按司(アジ)と呼ばれる宗家(創始者一家)の男性たちによって行われた。民俗学者柳田國男の『妹の力』にあるように、祭祀によって男性を守護することで村落を守るという構図であり、日本神話でいえば、ヤマトタケルに草薙剣を与えるなどして彼を数々の困難厄災から守った叔母のヤマトヒメや、それを祖とする伊勢の斎宮のような存在だったと考えられる。

さて、〈島〉のノロたちも〈島〉の祭祀を担っているわけだが、本来のノロとは違い、祭祀とともに政治をも担っている。〈島〉の男はノロになることはできない、つまり男は祭祀と政治のいずれにもかかわることができないのだ。それは、男たちによる〈島〉の血塗られた歴史を繰り返さないための女たちの知恵であり、〈島〉のシステムであった。


遠い昔、〈島〉の先祖はずっと北にある〈ニホン〉という国を追い出され、逃げ出してきた人たちだった。あるとき〈ニホン〉は流行り病によって多くの死者を出したが、それが外の国からもたらされたものだとわかり、「外から来た人」を追い出し、出て行かない人を皆殺しにした。そのような〈ニホン〉の政治と歴史を牛耳っていたのが男だった。女は男の所有物でしかなく、性を犯され、命を脅かされ、人としての自由や尊厳を奪われ続けた。

〈島〉の先祖はその〈ニホン〉を追われ、大きな船で逃げ出してきた果てに、この〈島〉に流れ着いた。男たちは、先にいた島民を皆殺しにして〈島〉を奪った。しかし〈島〉は小さく食料が足りなかった。そこで妊婦やお腹の子、体力のない男を殺す人減らしが行われた。

しばらくすると〈島〉の西方の大国〈チュウゴク〉が〈タイワン〉に攻め入った。今度は〈タイワン〉から〈島〉に逃げてきた人たちとの戦いと殺し合いが始まった。

数えきれないほどの命が失われ、「彼岸花のような、赤い血で〈島〉のあちこちが染まっていった」果てに、男たちはようやく自分たちの愚かしさに気づき、女たちに政治と歴史を明け渡した。女たちは戦いや血のつながりによらないに国づくりをはじめ、先住民と〈ニホン〉と〈タイワン〉の言語や文化、信仰を混ぜて、〈島〉の暮らしを形作っていった。

そして小さい〈島〉の人々が生きていくために、女たちは〈島〉の植物を調べ尽くし、彼岸花を加工することで〈タイワン〉と貿易し、〈島〉に必要なものを手に入れるようになった。つまりニライカナイという楽園は存在せず、ノロたちが年に数回、ニライカナイから持ち帰る宝物(生活必需品)は〈タイワン〉との貿易で手に入れたものだった。その元手となっているのが「人間が一度摂取すれば絶えず欲しがるもの」に加工した彼岸花だった。

このような〈島〉の歴史を語り継ぐ言葉が〈女語〉であり、〈ニホン〉が「外の国の人」を排斥しはじめるまで使っていた言葉だ。ノロ(女)たちはこの歴史を語り継ぐことで、政治と歴史が持つ暴力や差別、排他、排斥による悲劇を繰り返さないと誓う。そして生涯をかけて、時には自らの命をかけて島民の安寧な暮らしを守り抜こうとする。


大ノロによって語られる〈島〉の歴史においては、彼岸花の赤色は男たちが流してきた血の色でもあった。

同時に、彼岸花が〈島〉の彼岸御嶽の聖なる樹を、根にある毒で動物の掘り起こしや他の植物の侵食から守っているかのように、北側の浜辺に群生している彼岸花は、北方にある〈ニホン〉から〈島〉を守り、ノロたちがその毒を利用して西方の〈タイワン〉と貿易することは、〈タイワン〉から〈島〉を守っているのでもあった。そして何より彼岸花は、男たちによる血塗られた政治と歴史を二度と繰り返さないという、女たちの覚悟を託す花でもあった。

ふと気になって与那国島の歴史や伝説を調べてみると、大ノロが語る〈島〉の歴史と重なる部分があることに気がついた。

15世紀末、与那国島を割拠していた按司(部族長)たちの抗争とそれによる食料不足で、〈島〉の歴史で行われた人減らしと同じような「久部良割(くぶらばり)」「人升田(とぅんぐだ)」が横行していたという。「久部良割(くぶらばり)」は久部良にある大きな岩の裂け目を妊婦に飛び越えさせるもので、「人升田(とぅんぐだ)」は、鳴り物によってある場所まで男性たちを緊急招集し、制限時間内にその場所に来られなかった場合は、その場で斬り殺すというものだった。

そのような事態を収拾したのがサンアイ・イソバという女性だった。サンアイ・イソバは兄弟とともに人減らしを強行する按司を討ち取った。そして兄弟たちを各地に按司として配置し、自分は島の中央のサンアイ村で祭祀と政治を司り、島の繁栄に尽力したという。

サンアイ・イソバは伝説上の人物と考えられているが、「サンアイ」とはガジュマルのことで、ガジュマルは沖縄南西諸島では火の精霊が宿る木だという。それは火の神を通じてニライカナイの太陽の神を祀り、村の安寧や五穀豊穣を祈ったノロのような存在だったと考えられる。

そしていうまでもなくこのようなサンアイ・イソバの姿は、〈島〉のノロや女たちの姿と重なる。〈島〉が「ガジュマルの葉のような形」をしていて、「全体的にガジュマル」に覆われているのは、サンアイ・イソバ伝説とそれに連なる歴史上のノロたちによって守っているからだ。私にはそんなふうに思われた。

彼岸花の繁殖方法と〈島〉の未来

彼岸花には6本ずつの雄しべと雌しべがあるが、日本の一般的な赤い彼岸花は種子をつけることはなく、球根を分球させる形で繁殖していく。これは染色体数が33の三倍体であることによるものと考えられている。

多くの生物の生殖にかかわる細胞分裂では、2本一対の染色体が2倍のDNA量(4本)に複製された後、2回続けて分裂することで、対がばらされて1本の染色体が4つできる。1本の染色体を持つ精子と1本の染色体を持つ卵が融合する(1本+1本)ことで、2本1対の受精卵になる。

しかし何らかの事情で2回の分裂の際、1本ずつばらされることなく、2本の染色体を持つ精子もしくは卵ができることがある。それらが1本の染色体を持つ精子もしくは卵と受精する(2本+1本)と、3本の染色体を持つ受精卵ができる。これを三倍体という。それで問題なく成長する生物もいるが、受精卵が成熟しないために、配偶子をつくることができない。つまり植物でいえば種子をつけることがないという。

全てのヒガンバナ科の花がこのような生殖の仕組みを持つわけでなく、主に日本で一般的にイメージされる赤い彼岸花に備わっている仕組みのようだが、この仕組みについて知ったとき、游娜と宇美と拓慈の3人の未来について、私は思いを馳せた。

先に、〈島〉には婚姻と血のつながりに基づく家族という概念がないといったが、これも〈島〉が歩んできた歴史を繰り返さないために、女たちが選んだ道だった。婚姻や血のつながりによる家族観を重視すれば、男女以外の結びつきは認められず、性の役割が固定し、女たちが出産の道具として不当に扱われる。そして血の重視は苛烈な排他、排斥につながるからだ。

拓慈は游娜に想いを寄せているが、当の游娜は浜辺に打ち上げられた宇美を見た瞬間、宇美が特別な存在となり、宇美も游娜との暮らしの中で同じ思いに至った。宇美はそのような性の傾向によって〈ニホン〉を追われたのではないかという記憶が、おぼろげながら戻りつつあった。

游娜は拓慈からオヤの元を離れたらひとりで暮らすのかと問われ、宇美と暮らすと答える。拓慈の気持ちを知る宇美は、気をきかせて3人で暮らそうと提案するが、游娜はできないという。自分たちはノロになる、ノロは男には禁じられている〈女語〉を話し、男には伝えてはいけない〈島〉の歴史を知っているため、男と一緒に暮らさないという不文律があるという。

3本の染色体の結合によって種子にたよらない子孫繁栄の方法を獲得した彼岸花に、この3人の未来を重ねて読むとき、男だけでもない、女だけでもない、〈島〉の新たな歴史の扉がまた開かれる。そんな気がするのは、私だけではないはずだ。

* * *

夜、職場から帰宅すると、部屋に灯りがついている。

あれ?電気を消し忘れて出かけたのかな?まさか、鍵掛け忘れて泥棒に入られたとか?

最悪の事態が頭の中でぐるぐるしながら、口から心臓が飛び出しそうになりながら、おそるおそる玄関の扉を開けてみる。そこには出かけるときに両親が履いていった靴があった。

???帰りは明日の午後では?

少し安堵しながらも不思議に思ってリビングに入ると、父と母がいつもどおり、ソファでテレビを観ていた。

あれ?どうしたの?

私は着替え、夕食の準備をしながら、母からことの顛末をきいた。

そして母は不満げにいった。

たしかにどうしようもない宿だったけれど、値段が値段なんだから、しょうがないのよ。私はそのままそこにもう一泊して、涼しい風にあたって、観光地やお土産物屋をまわって帰ってきたかったのよ。でもパパやほかの男の人たちは、食堂に集まってキャンセルだの補償だのたいそうなことをいって、一緒の家族や奥さんをほったらかしているんだもの、なんのための旅行なのかしら・・・やんなっちゃう。

でもいいわ、最後に今までに見たこともない、真っ赤な彼岸花があたり一面に咲いているのが見られたから・・・。



『彼岸花の咲く島』(李 琴峰)は、以下の電子書籍を基にした。

彼岸花については、以下の書籍を参考とした。

沖縄南西諸島のニライカナイ、太陽の神、火の神、ノロについては以下を参考とした。

日本の火の神信仰――特に南西諸島を中心として

サンアイ・イソバ関連の与那国島の歴史や伝説については以下を参考とした。

女酋長サンアイ・イソバ

与那国島の伝説とその背景

与那国島に関する主要歴史年表

仲宗根豊見親と鬼虎~与那国攻入りの年代について - 宮古島市

沖縄南西諸島の植物については、以下を参考とした。

アカギ(赤木)

彼岸花の繁殖方法と三倍体の植物については、上記の彼岸花に関する書籍とともに、以下を参考とした。



第15回 片腕偏愛と白い花 『片腕』(川端康成)、『くちなし』(彩瀬まる)



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