私がアメリカ美術大学院で2年間向き合って書いた母娘関係についての卒論と作品紹介 第1話
今年5月にアメリカ美術大学院、metalsmithing科を卒業する為に製作した卒論 (Master's Statement)、「Girl Good Good Miku」の内容を和訳して少しずつ紹介をしていきたいと思います!
今回は4章のうちの最初の1章の紹介です。引き続き投稿していくので是非追って読んでみてください。
聞きなれない「metalsmith」とは
まず私の2年間のリサーチと作品を紹介する前に、私の専攻の「metalsmithing」という言葉について少し説明したいと思います。
「metal」という言葉が入っているので想像がつく方もいるかもしれませんが、シンプルに言うと金属全般を扱う学科です。生徒によって、使う金属の種類(鉄、銅、真鍮、シルバーetc.)や技術(鋳金、鍛金、彫金etc.)、またそれらを使って造る作品(装身具、彫刻、オブジェクト)など様々です。特に私の大学院ではファインジュエリーのような貴金属、ダイヤモンドなどの天然の宝石を使用したジュエリーより、色々な素材と金属を組み合わせて造る、より自由なコンテンポラリー作品が中心です。
私はその中でも大学時代からコンテンポラリージュエリーと空間を使ったインスタレーションアートを中心に制作してきました。(コンテンポラリージュエリーについてはまた他の記事で詳しく紹介したいと思っています!)
2年間向き合った母娘関係のリサーチの始まり
自分らしく生きることが難しいと感じていた私は、そのもやもやの根源を突き止めるのに長い時間を要しました。大学院に入学する前、私はファインジュエリーの考え方を参考に、女性に対する社会的な美の基準を探り、批判する作品を制作しています。やがて私は、多くの女性が満たそうとする手の届かない美の基準は、真珠のネックレスのように、まさに母から娘へと家族の中で受け継がれていくものだということに気がつき、今まで自分の中だけで抱えていた、共依存関係にあることへの苛立ちなど、押し付けられたような感覚に気がつくことができました。
そして自分と親の境界線はどこにあるのだろうと考えるようになりました。
私の実践は、従来の母娘関係を反映した複雑な関係をナビゲートする成長した娘のもどかしいの感覚を認識しそれを形にすることです。それは、心理分析のリサーチを元に親の視点も理解しながら自分を主張するプロセスです。慣れ親しんだ親密な関係に批判的な立場をとることは、罪悪感を感じさせますが、諦めるのではなく、新たに疑問を投げかけ、ぎすぎすした愛情の中でselfhood(自己)を見出し、自分自身として生きるためのプロセスです。
第1章 献身
Three Becomes Two (三が二になる)
キリスト教文化圏とは異なり、日本では夫婦関係よりも親子関係が重視さレます。父親が脇役に徹することが多い日本では、男女のパートナーシップを構築するのは難しいのです。
子育てにおける父親の不在(ここで言う不在は物理的と言うより精神的。)は、母子の強すぎる繋がりを引き起こす大きな要因の一つです。日本のように「負担・責任・愛情の三位一体」を信じる人が多い社会では、親、特に母親の奉仕や犠牲を美化し、それを子どもへの愛情の表現と見なします。ドイツの発達心理学者ハイディ・ケラーは、子育てを「近接型子育て(Proximal Parenting)」と「遠距離型子育て(Distal Parenting)」の2種類に分類しています。ケラー氏は、添い寝や入浴などがよく見られる日本の子育てを「近接型子育て」と定義し、赤ちゃんの自己表現を大切にし、自立を教えることが多い欧米の子育てを「遠距離型子育て」と定義しています。日本の 「母親は、子供のニーズを積極的に予測し、騒ぎの予防を最優先します。」事実、ある記事によると、日本の母親は平均して週に2時間しか赤ちゃんと離れていないのに対し、アメリカの母親はベビーシッターや親に子どもを見てもらうことで週24時間離れているそうです。このように、日本では「母性」が重要視されすぎているのです。
このような家族主義的な考え方は、子どもたち、特に娘に負担をかける。社会的な期待によって、母親が子どもに不健康な愛着を持ち、健全な境界線を設定することができなくなることがよくあります。そのような母親は、子供が独立した後もなかなか子離れできず、子供の世話をするという自分の欲求を満たし続けることが多い。献身的な態度は、支配を意識しても子どもに罪悪感を与えるような支配的な関係につながるのです。
作品1 : Fond
Fondは、拡大プリントされたコラージュシリーズです。自身の家族写真に、私が作ったオブジェをコラージュした習作です。自分の中の言葉にならない感情をさらに理解し、実際の問題を発見するために行った重要なプロセスでした。制作を進めていくうちに、自分の不満の根本は両親ではなく、母親だだったことに気づかされました。
私は家族写真の上に物を置いて、ある部分を隠したり強調したりすることで私が実際には持っていない関係や境界線を作っていた。しかし、父との接点がなかなか見つからず、無理をしてコラージュを作っていました。家族内での父の疎外感も、母からの干渉の一因になっていると思います。
When Does a Hug Become a Strangle (ハグが制御になる境界線は)
バウンダリーが十分に保たれていない過度な親のサポートは、信頼を正しく築くことができません。干渉には、サポート(手助け)の意味と、(子どもにとっては効率的であっても)非効率な学習や失敗から子どもを守る意味が含まれています。過度に干渉的な親に育てられた子どもたちは
は、失敗に対して寛容でなく、新しいことへの好奇心や挑戦心が少なくなってしまいます。他人からの評価に過剰に敏感になり、他人を満足させることや、いかに叱られないようにするかを優先するようになり、新しいことに挑戦したり、リスクを冒すことを避けるようになります。結果として子どもは自分のために生きることができなくなるのです。
作品2: Family Portrait
Family Portraitは、同じ折りたたまれた形を共有する3つからなるオブジェクトです。横の2つは頑丈な銅製で、真ん中には潰れやすいシリコンが挟まれています。シリコンはだけでは形を保つことができず、両脇に頼っているが、同時に側面からの圧力が強すぎると潰されてしまいます。
手が生み出す圧力は、「Family Portrait」シリーズにおいて重要な要素です。私は「Fond」 で使った家族写真の手の配置に興味をそそられました。父の手は私の肩に、母の手は膝の上で重ねられ、そして私の手は母のように振舞えと言わんばかりに横にきちんと置かれています。手は、親密さと同時に、私たちが感じているストレスを明らかにする身体部位のひとつであり、他者へのパワーを表現するものでもあります。
作品3 : Family Portrait (Amulet)
Family Portrait (Amulet)では、Family Portrait を手のひらサイズのオブジェにし、手の力が作品をより活性化させることを探求しました。より小さくなり、手の中で簡単に握ることができます。あなたが感じている不安は、作品と直接リンクします。
『母と娘はなぜこじれるのか』では、著者の斎藤氏が娘の葛藤を綴った漫画家・田房永子氏にインタビューしています。彼女は、威圧的な母娘関係にある場合、「母親の支配から解放されるためには、まずその関係の異常に気づく必要がある」と主張し、母親の望む娘ではない自分を認め、自分で立ち上がることが必要だと述べています: 親の評価が変わることを迫られた子どもにとっては、厳しいものがあります。母娘関係の葛藤は、「部屋の中の象」のようなものです。特に家族主義社会では、「お母さんがしてくれていることに対して文句を言うのは不謹慎」「お母さんはあなたを愛しているからあなたのためにやっている」と、子どもの意見を封殺する。そうすると余計に罪悪感に感じてしまうし、この古いパターンの関係を変えるのは難しいのである。
作品4 : Mother Assists
Mother Assistsは、階段と手すりで構成された、サイトスペシフィック作品です。印刷したコラージュを繰り返し貼り手すりを覆いました。コラージュには、Fondで使用したのと同じ家族写真を使いましたが今回は自分と母親だけに焦点を当てました。このインスタレーションにおける重要な要素である手すりは、すでに一般的にサポートするという意味を持ち、鑑賞者に相互作用を与え、母娘関係の中の母親の役割への手がかりとなる。また、抵抗することが不可能な「サポート」から感じる負担を伝えることができます。
私は幼い頃から、日本の映画やテレビ番組では、「母親は聖なる母」「良妻賢母」という考え方が強く押し出されている印象がありました。特に第二次世界大戦後、夫に寛容で甘えを許す妻が、賞賛を受けるようになったそうで、そうした社会的な考え方は、子どもたちが不満を溜め込んでいることを口にすることを無意識のうちに負担にするだけでなく、母親にとっても負担になっています。日本の母親は、社会や男性から「母親」という役割を完璧にこなさなければならないという極端な期待にさらされている。そのため、母親は、その責任を果たさなければならないというプレッシャーから、支配的な行動をとってしまうのです。
それは日本映画でもよく見かけられます。邦画『明日の食卓』は息子を育てる3人の母親を描いた作品ですが、母親の負担の例として使うことができます。夫のサポートが得られない(マゾヒスティックな支配の表れ) 中での母親達子育てに対する怒り、不安、孤独をとらえ、それぞれの異なる状況(シングルマザー、共働き世帯、支配的な夫を持つ専業主婦)での女性としての生きづらさをうまくみせている作品です。
父親が家にいない状況は様々ですが、父親の一人が息子のしつけを怠ったことを専業主婦の妻になすりつけるシーンが印象に残っています。この映画も映されるように、共働き世帯であっても、女性(母親)が子育ての役割のほとんどを押し付けるのが一般的という印象がある。冒頭では、母親たちのリアルな葛藤が描かれていて感心したが、結末には個人的に少し落胆しました。ラストでは結局家族主義や 「聖なる母 」の考えを押し付けていると感じました。息子たちとの葛藤を母親の偉大な愛の力ですべて乗り越え、夫との関係など実際の問題は解決しないまま終わってまいました。母親の強大な愛」を強調する他の映画や番組と何ら変わりはなく、多くの子供や娘に「母親の献身を負担に感じていても、それを疑ってはいけない」という気持ちにさせると感じます。それは彼らに極度の罪悪感を与えるものであり、実際、私がこの母娘関係について自身の意見を作品を通して声を上げるのに長い時間を要した理由のひとつでもありました。
次回
長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!次回は2章節目を紹介したいと思います。
引き続きぜひ覗いてみてください!インスタグラムにも作品を載せているのでぜひチェックしてください。@miku_saeki_
参考
斎藤環 『母と娘はなぜこじれるのか』 , 2014, NHK出版
斎藤学 『インナーマザーあなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」』, 2004, 新講社
瀬々敬久『明日の食卓』, 2021
Brian O’Sullivan, Japanese Parenting Style – And Differences from the West, O’Sullivan Counseling, 2022, https://socialanxietycounseling. com/japanese-parenting-style/.
IG: @miku_saeki_
オブジェクトメーカー。アメリカ、オハイオ州で学士(美術)終了後、現在ミシガン州で美術大学院を今年修了。