斬新な着想を多く生むのが若者なのは何故なのか?
mikiokousaka
何故なのか?(Why)の問いに、何(What)や、如何(How)で回答されてしまう場面が良くあります。
高学歴で優秀な人との会話でも起きる現象なので、これは、明解な回答をしたい自我が、曖昧なこと(Why)を回答するのを、意識せずとも避けているのではないか?と考えています。
観察から生まれた考えで、主観的・直感的にしか説明が出来無いのですが、自分(Who)が何者かを他者に正しく説明するのが難しいのと同様に、過去まで遡る原因や将来を規定する目的(Why)の言語化には「客観力」が必要で、解くべき対象が目の前にあればあるほど、解きやすいものから先に手をつけて後回しにしてしまうという、難易度を一つの要因とした現象だと思っています。
また、間違えを答えることによるリスクよりも曖昧さを避けているので、エルズバーグのパラドックスとして説明は出来ますが、根本的な原因は、正解を答えるという教育がもたらす習慣化だろう、という仮説を私は立てています。
イノベーションコンテスト等で、社会人の中に大学生が混じってプレゼンしているのを見る時、社会人の方がマネタイズモデルとして優れていても、ビジネスモデルで大学生に勝てていないことが多くありますし、大学生と高校生のプレゼンを比較するような時には高校生のビジネスアイデアの斬新さに驚かされ、高校生と中学生の場合では着想の鋭さで、中学生の夢の実現に手を貸したいと共感することが多かったりします。
様々なイノベーションコンテストに参加されている審査員やメンターに話すと、強く同意される現象です。
あの中学生が高校生になり育っていったら最強の大学生になるはずなのに、そうならないのは何故なのか?
この、年齢による差は、エルズバーグのパラドックスだけでは説明できません。
仮説は、学校教育で求められる答案の正解は(採点のしやすさもあり)一つということが多いので、曖昧なものは間違えだという刷り込みが起きていて、正解が一つでない答えは回答すべきでは無いという思考になっていく、というものです。
この仮説の通りだとしたら学校教育を受ける時間がまだ少ない中学生は、何故なのか?(Why)の問いに対して真っ直ぐに向き合える思考(Mindset)を持てているので、曖昧な中から答えを見つけだすことができ「斬新な着想を多く生むのが若者」(大学生より高校生、それよりも中学生)になると説明できそうです。
教育を正しく類型化することなど出来ないですが、一般的に学校教育で行っているのを「授業」だとして、生きる力を育むために始められた探求「学習」は、正解が判らない課題に対して回答を求めるので、曖昧なものは間違えという刷り込みから離れた学びになり、何故(Why)を回答することができるようになっていくことが期待できます。
ただ実際に行われている探求学習の事例を見ると、「課題」という名目で「問題」を提示した先生が、多数決で正解を導く授業を行っていることが多く、曖昧なこと(Why)を回答するのを、意識せずとも避けてしまう状況が変わるのには時間がかかりそうです。
学校の先生自身が、曖昧なものは間違えと刷り込まれている中で始めているので、ゆっくりとでも客観力を持った先生達によって、学校「教育」に「学習」や「発見」の比重が増えていくことに期待を持っています。
また、政府が主導してきたアントレプレナーシップ教育施策も、育成促進から育成事業になり形成支援へと変わったのは、やはり曖昧なことを意識せずとも避けてしまうからだと感じていますが、アントレプレナー(事業家)教育やビジネス(スキル)教育にならず、思考(Mindset)を育てる人材育成モデルとして機能していくことを信じています。
授業中に「何故?」を連発して先生を困らせたトーマス・エジソン(Thomas Edison)氏が小学校を3ヶ月で退学させられたのは170年以上前で、「正規教育を受け好奇心を失わなかったら奇跡だ (It is a miracle that curiosity survives formal education.)」とアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)氏が語ったのは70年以上前ですが、VUCAの世界と呼ばれる現在に、Volatility(変動性),Uncertainty(不確実性),Complexity(複雑性),Ambiguity(曖昧性)へ対処できる人材が育つことによって、エジソン氏やアインシュタイン氏を超える斬新な着想が多く生まれ、社会を革新していくことを私は望みます。
Mikio Kousaka
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