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15_タトゥーとシミ_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解釈


J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

Q.15-1 ありもしないタトゥーを見られるのが嫌だというのはなぜか?

 「バナナフィッシュ」で、シーモアは「大勢のバカ者どもにいれずみ(tattoo)を見られるのはいやだ」(20)という理由でバスローブを脱がないとミュリエルはいい、ミュリエルの母は「あの人、いれずみなんかないじゃない」と返す。このやり取りの意味は何だろうか。(大勢のバカ者どもの意味は下記参照)

 『ハムレット』で狂気におちいったオフィーリアは「経帷子は雪の白」(196)と歌う。これが、クローディアスが自らの兄殺しの罪を悔いて「天は恵みの雨を降らせ/雪のように白く浄めてはくれないのか?」(158)という祈りの言葉と結びつく。白は伝統的に死者がまとう色であり、シェイクスピア作品では水死や洪水と同様、浄化の意味が込められている。神話では、死者は白を纏い、現世で染みついた汚れを浄化して再生へ導かれる。
 サリンジャーはこれに倣い、短編「最後の休暇」で、水死を思わせるバミューダからのお土産として、「白いスーツ」を戦地へ向かう主人公ベイブに与えた。ここに、彼が戦地で命を落としたとしても、再生へ導かれるようにという願いが込められていることは前回みたとおり(下記参照)。『キャッチャー』で、ニューヨークの街に降りしきる雪や、外の美しい雪景色にホールデンが雪玉をぶつけるのをためらう姿に、ガールフレンドや子どもたちの無垢な心を守りたいという願いがにじむ一節も、これに連なる表現だ。

 「最後の休暇」で、ベイブの分身的キャラクターであるヴィンセントは、弟ホールデンが戦地で行方不明になっていると語り、その怒りや悲しみや憤りから、「いまは、銃撃戦に飛び込んでいって殺し合いをしたくてしょうがない」(54)という心情を吐露する。そして、敵を殺したいと思ってしまう、戦争によって汚れていく自分の心の内を、ベイブの父の口をとおして「ゴキブリ」という言葉で表現し、戦地は地獄だと繰り返す。ベイブが持っているスーツの「白」は、この心の汚れを浄化して無垢へ導く色といえるだろう。
 『ナイン・ストーリーズ』におさめられた短編「エズメ」の前半は、訓練を終え、ノルマンディ上陸作戦、本格的な戦闘への出発を控えた兵士が語り手。彼の敵を殺したいような殺したくないような複雑な心境が、「引き金を引く指が、ごくわずか、目ではわからぬほどわずかに疼いて(itching)いた。」(柴_149)と描写される。そして、彼のなかにある汚れた感情が、歯の詰め物や黒板の〈黒〉として、それに対比される幼い少年少女の無垢な心がソックス(足の意味は下記参照、白いソックスを履かないと痒くなるキャラクターは「ロイス・タゲット」にも登場する)やチョークの文字の〈白〉として表現され、タイトルの〈汚辱〉と〈愛〉に重ねられる(詳細「エズメ」読解にて)。〈白〉と〈黒〉は、いうまでもなく、オセロゲームの名前の由来であるシェイクスピアの『オセロー』に用いられた対比。

 だから、「バナナフィッシュ」で書かれているタトゥーもまた、戦争で敵を傷つけたい、殺したいと考えてしまう精神的な汚れの表象と読んでよいだろう。『ハムレット』で語られる「娼婦の烙印」(165)や、かつて囚人のしるしとして入れられたといういれずみ、罪のしるしを思わせるイメージだ。
 それは、『マクベス』で王を殺害した罪悪感から夢遊病を患ったマクベス夫人が、眠りながら手を洗い続け、「消えろ、この染み、忌々しい! 消えろったら!」(153)と叫ぶのと同様、現実世界ではなく、夢の世界=暗い地獄(『マクベス』_153)=彼岸=鏡の世界でだけ見える汚れ=血の痕跡=いれずみ。
 マクベス夫人が「この手は二度ときれいにならないのかしら?」「まだここに血のにおいが」(154)と語るように、現実の正常な嗅覚では感知できない汚れの臭いがかげるのは、鼻に亜鉛華軟膏を塗った女(下記参照)。

 シーモアは自分の足に刻まれたいれずみを見られること、戦地でしみついた血のにおいをかがれること=汚れた心を見抜かれることを恐れてエレベーターの中で激怒し、その恐怖と絶望から死を選ぶ。シーモアは、自分の内にある汚れに恥や罪悪感を抱き、そんな自分に耐えられずに拳銃の引き金を引いた。あるいは、サリンジャーは自分が戦時中に抱いた汚れた感情を作中で告白し、それが浄化されることを願って自らの鏡像であるシーモアを殺した、という言い方も可能だろう。

 『ハムレット』では、ハムレット(王子)が、父(先王)の死後、父との結婚の誓いを裏切り、叔父(現王)と再婚した母(王妃)に向かって、「いま鏡を出します。/心の奥底まで映してご覧にいれましょう」(163)といってその罪を糾弾する。
 ハムレット(息子)の行動にショックを受けた王妃は、「お前は私の目を心の奥に向けさせる。/そこに見えるのはどす黒いしみ、(black and grained spots)/どうあっても褪せはしない。」(168)と自らの罪を自覚する。そして「ああ、ハムレット、おまえは私の心をまっぷたつに裂いてしまった」と嘆く。
 自分の罪に無自覚だった王妃は、息子から元夫(先王)を忘れて早くも現王と結婚したのは不貞にあたると指摘され、鏡に映る自分の姿を見ることで初めてそこに汚れがあることに気づく。鏡のなかに、罪を自覚できなかったほどの純粋さと、無意識にせよ欲望に身を任せてしまった汚れや弱さといった負の側面、自らの二面性、善悪の乖離を発見する。罪を自覚したからこそ、自分が「まっぷたつに」引き裂かれた感覚が痛みとなり、苦しみとなって王妃を苛む。
 シェイクスピア作品、サリンジャー作品において、「まっぷたつ」に割れることが悲劇のはじまりであること、これが太古からの豊饒神話に結びつくテーマであることは、下記でみたとおり。これが鏡を見る男、実像と鏡像に引き裂かれたシーモア・グラスという名前や、グラス家サーガ全体のテーマにも引き継がれている。「2×3=6」については、下記でみた通り。「2」になるときに引き裂かれた心の一方は〈白〉、もう一方は〈黒〉。自らのうちに在る善と悪の戦いが、苦悩や狂気を引き起こす。

 「バナナフィッシュ」のシーモアもこれと同じ。鏡の中に、戦争で敵を憎み殺したいと思う感情と、誰も傷つけない善い人間でありたいという気持ちに引き裂かれた自分の姿を見たのではないだろうか。

Q15-2 ミュリエルがスカートのしみを取るのはなぜか?

 「バナナフィッシュ」の冒頭で、ミュリエルが、櫛とブラシを洗い、スカートの汚点(しみ)を取る(10)のも、シーモアのタトゥーと結び付けて考えることができる。
 「エズメ」の後半では、戦争で傷つき汚れた精神が、埃に汚れた髪の毛として、「大工よ」では、精霊のようなキャラクターである小柄な老人の汚れが、彼の服のしみ(106)として、「序章」ではシーモアの精神的な汚れが首筋の汚れとして描かれているように、サリンジャーは登場人物たちの心の汚れを髪や衣服の汚れ・しみに託して表現する。「序章」で聖性の高いシーモアの「首筋はほんとうに汚れていた」と強調されるように、誰もが二面性を持っており、汚れがひどいほど、それに比例してその人物の中にある聖性や純粋さも高くなるというのがサリンジャー作品の思想(詳しくは各作品読解にて)。
 だから、絶世の美女であり、シーモアにとって究極の女神であるミュリエルが、内面にひどい汚れを抱えているのは当然のこと。ミュリエルが櫛とブラシを洗い、スカートのしみを取るのは、自らの内に秘めた汚れを落とそうとしている行為であり、これはシーモアのタトゥーと対になっている表現と読んでよいだろう。
 これもまた、シェイクスピアを真似た表現。『ハムレット』で、亡霊が怒りを「束ねた髪も解きほぐれ」(56)と表現するように、髪の乱れは精神の乱れ。王妃は「お前は私の目を心の奥に向けさせる。/そこに見えるのはどす黒いしみ、And there I see such black and grained spots/どうあっても褪せはしない」(168)と嘆く。『リチャード二世』では、「(彼の)黒い斑点(汚れ・汚名)までは消せません not change his spots.」(20)とあるように、汚れた心は黒いシミspotsとして記される。
 シェイクスピアを参照しているエリオットも『荒地』で、精神的に堕落した上流階級の女性が髪をとかすと、「女の髪は火焔のように先が尖り/白熱化して言葉を発し、それからまた猛烈に静まるのだ」と書いている。

Q.15-3 1パイントの膿汁(うみ)とは?

 『ハムレット』で、母の罪を責め立てるハムレットが、「腐った膿は奥まで浸透し/見えないうちに全身を蝕む」(172)というように、シェイクスピア作品で、心の汚れは、内側から体と精神を腐敗させる膿としても描かれる。
 さらに、『ハムレット』で、王子は現王(義父・クローディアス)に向かって「さようなら、母上」とあいさつをする。自分は父だと答える義父に対して、ハムレットは「母上です。父と母は夫と妻、夫と妻は一心同体、だから母上」(187)と弁明する。クローディアスが「妃はこの命と魂に堅く結びついている」「私も妃なしには生きてゆけない」(212)と訴えるのも、この発想に基づくもの。サリンジャーの初期短編「すぐに覚えます」で男性の軍曹が「おふくろ」と呼ばれているという設定(90)は、おそらくこれを受けたもの。
 シェイクスピアの『間違いの喜劇』では、妻が夫(そう思い込んでいるだけで実は別人なのだが)に、お前など知らないといわれ、「なぜあなた自身によそよそしくなったの?/そう、あなたにつれなくされている私は、あなた自身、/だって私は、あなたとは切っても切れない一心同体/あなたの一番大切な魂だもの。/ああ、私からあなた自身を引き裂かないで」と訴え、「一心同体の私たちのうちあなたが不義を犯せば、/あなたの肉の毒は私の体にまわり、/その毒に感染して、私は娼婦になってしまう」(202)と訴える。ここでは、汚れや毒は夫婦で共有されるものなのである。
 この発想は、下記でみたような、『キャッチャー』における両性具有や男女の一致(下記参照)、豆の片割れ同士がひとつになって、豊穣がもたらされるイメージ(上記リンク[11_最初の試練・豆_『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解]参照)にも結びつく。

 『ハムレット』で、ハムレットは恋人オフィーリアに「尼寺へ行け」という。ここには、売春婦になれという意味が含まれている(この読解は次回)。また、母(王妃)を、先王の死後、現王と再婚したことで、自らに「娼婦の烙印を/押し」(165)たと罵るなど、恋人や母、神話における女神、ユングのいうアニマに当たる女性たちに娼婦のイメージが重ねられており、この思想が「もろきもの、お前の名は女」(30)というひと言に集約されている。
 だが、『ハムレット』は女性ばかりをひとくくりにして貶めようとする作品ではなく、兄殺しをした現王クローディアスが「厚化粧の娼婦の素顔は/塗りたくった紅白粉よりはるかに醜いが、/俺のしたことが飾りたてた言葉より醜いのはそれ以上だ」(119)と語るように、男性も同じかそれ以上に罪深いことが示されている。シェイクスピアが描いているのは、男女どちらも、誰もが多かれ少なかれ、弱さや汚れや罪を持っているものだという世界観だ。
 シェイクスピアからの影響が強いサリンジャー作品もこれと同じ。「バナナフィッシュ」において、シーモアがミュリエルを「売女」と呼ぶとき、そこにある汚れは夫婦で共有しているもの。最初に蛇にそそのかされて甘い果実をかじったのはエヴァかもしれないが、シェイクスピア・サリンジャー読解で重要なのはアダムだって一緒にほお張ったことなのである。

 シーモアとミュリエルは夫婦であり、「バナナフィッシュ」の最後の場面で、ベッドに並んで横たわる亡くなったシーモアと眠っているミュリエルは、最後の晩餐で皿に並べられた二匹の魚、一心同体、二人でひとつの存在。
 「ズーイ」でバディは、弟に宛てた手紙に、シーモアが自殺した後、彼の遺体を引き取るためにフロリダまで行ったときのことをこう記す。「飛行機の中で五時間ぶっ続けにおいおい泣いていた」すると、「後ろの席からの会話が聞こえた」、「優秀な詩人が死を迎えている。しかし同時にやはりこのすぐ近辺で、若い女性がその美しい身体から、膿汁(うみ)をたっぷり一パイント抜かれている」(94)ことが分かった、そして、「僕としても、悲しみと大歓びとの間を永遠に忙しく行ったり来たりしているわけにはいかないんだ」(94)。
 これは、「バナナフィッシュ」の最後の場面で最後の晩餐の皿の魚のように二人並んで横たわる詩人シーモアと、若く美しい女性ミュリエルについての種明かし。
 「パイント」は、ワインやビールを数えるときにも使う単位。私には英語ネイティブの方の感覚が分からないのだけれど、日本ではお酒のイメージが強い言葉だ。ワインは最後の晩餐で飲むお酒であり、イエスが流す血、イニシエーションで息子が流す血。また、ビールは『キャッチャー』で使われたオシリス神話の麦畑につながるモチーフ。最初にビールを作ったのはオシリスだという言い伝えがあり、「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」で間接的に登場するホールデンはスコッチを飲んでいることから、麦とお酒と豊饒神話のつながりにも、サリンジャーは意識的だったように思う。
 シェイクスピア・サリンジャー作品において、血を流すことがイニシエーションと浄化を意味することは下記でみたとおり。

 だから、「バナナフィッシュ」の最後の場面で、シーモアのこめかみから血が流れるとき、その横で眠っているミュリエルの身体からは「1パイントの膿汁が抜かれる」。
 兄の死の悲しみと、ミュリエルの浄化の歓びを行ったり来たりするバディは、『ハムレット』で語られる「些細なことで悲しみは歓びに、歓びは悲しみに姿を変える」(142)と同じで、気分の急上昇と急降下を繰り返すイカロス的、道化的な未熟な若者であることを示す表現であり、バディはそこを抜け出して大人にならなければならないと語っているわけだ。

 さらに、ユング派の研究では、神話や夢のなかでの結婚は〈聖婚〉といわれ、分裂した精神の統合の象徴でもある。うお座のマークのように、彷徨える魂としての魚は伝統的に二匹で描かれる。それは、AかBかという二項対立で揺らぐ未熟者の表象だからだということは、下記でみたとおり。

 ならば、シーモア・ミュリエル夫妻の浄化と統合が、シーモア=サリンジャー、あるいはシーモア=読者の〈白〉と〈黒〉、善悪や聖俗、実像と鏡像、正気と狂気に分裂した精神の浄化と統合を仄めかしていると読むこともできるのではないだろうか。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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