26_馬に乗る者・見守る者_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解説
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.26-1 男の子がカウボーイハットをかぶっているのはなぜか?
聖杯探究の物語のなかでも、有名なものといえば『アーサー王と円卓の騎士』の「パーシヴァル」のエピソード。パーシヴァルは十歳の頃に赤い騎士に会い、成長した後、赤い騎士と対決。赤い鎧を着て聖杯を見つけ出し、漁夫王を救う(参考:『アーサー王の世界(6)聖杯の騎士パーシヴァル』斉藤洋、静山社、2020年)。
十歳はフィービー(116)や、短編「最後の休暇」に登場する主人公の妹マティ(62)(「最後の休暇」ではフィービーがマティの分身として登場)と同じ年齢。『キャッチャー』のフィービーは、ぎりぎり両性具有的な性質を残す子ども(これについては改めて)。サリンジャーはおそらくパーシヴァルの物語などの古典を参考に、十歳という年齢を、自我がある程度確立され、象徴的父からの抑圧と闘いながら自発的に大人へと成長していくようになる分岐点と位置づけている。赤い騎士は象徴的父とも、パーシヴァルの分身とも読め、赤い騎士との対決は、ホールデンがストラドレイターと対決する場面とも重ねられるし、赤い鎧は赤いハンティング帽、イニシエーションの象徴と解釈できる(下記参照)。
イニシエーションの赤については下記参照
シャドウとしてのストラドレイターとの対決は下記参照
父との対決については下記参照
フィービーのコンプレックスと成長については下記参照
パーシヴァルが麦畑の農園の息子で、収穫の時期に帰京する点は豊饒神話に通じる(詳細は上記リンク[01_ライ麦畑の聖杯]参照)。パーシヴァルの特徴は、『キャッチャー』でホールデンに与えられたイメージに、ほぼそのまま重なるものだ。
また、『ナイン・ストーリーズ』の「愛らしき」には、ランスロットとアーサー王の物語が重ねられており(詳細は「愛らしき」読解にて)、サリンジャーが『アーサー王と円卓の騎士』を意識していたことはおそらく間違いないだろう。〈円卓〉というモチーフは回転木馬が象徴する神話の円環(下記参照)であり、ランスロットの次はパーシヴァルが騎士となって試練の旅に出るように、ホールデンの次はフィービーが試練の旅に出るわけだ。
『キャッチャー』には、ホールデンが家出をして牧場で暮らすというのを、フィービーが「ふん、笑わせないでよ。馬にだって乗れないくせに」(282)と笑い飛ばすシーンがある。この場面が、パーシヴァルが馬に乗って聖杯探究の旅をする物語をはじめ、騎士道文学やシェイクスピアが描く騎士たちのイメージを経由して、『キャッチャー』のラスト、回転木馬の場面へと結びつく。ここでは、馬に乗って円環をまわることが、英雄の旅を繰り返しながら人生を生きることの比喩になっている(『キャッチャー』1章にあるフェンシング用具紛失の描写は、サリンジャーが学生時代、実際にフェンシング部だったからだそうだ(A)が、これも騎士道につながるイメージといえるかもしれない)(先行研究では、ホールデンといえばドン・キホーテというのが定説、これについては改めて)。
回転木馬のところへ行く前、ホールデンとフィービーが二人で訪れる動物園では、「カウボーイハットを耳までしっかりとかぶった小さな男の子がいて、父親に向かって(穴に入り込んだ北極熊について)「ねえ、父さん、あいつを外に出してよ」と言っていた」(354)様子が描かれる。カウボーイは、馬を上手に乗りこなせる人の象徴だろうか。穴に入り込んだ北極熊は、クジラの腹に入ったまま、帰還を拒否している英雄(下記参照)、凍結されたままでいたいと望むホールデンと重なる。
すると、人生の馬を上手に乗りこなせるカウボーイとは、帰還を拒む英雄たちは早く再生して、力強く颯爽と生きるべきだという考えを持っている者の象徴かもしれない。
この小さな男の子は、父親からの教えを受けて、オイディプス・コンプレックスをものともせず、人生という馬を乗りこなせる大人へと成長しそうな子ども。対するホールデンや、金の輪を取ろうと落下しそうになっているフィービーは二人とも、人生という馬をまだ上手に乗りこなすことができない未熟な英雄として示されているのではないだろうか。
「一頭は外に出ていてもう一頭の茶色いやつは穴に入り込んだきり」(354)という描写の、茶色は赤毛のフィービーともとれる。この場面で、ホールデンはすでに家出を思いとどまっている。そして、学校へはもう行かないと頑なに言い張って、自分の心の中に閉じこもるフィービーに、外にでてきて話をしようと再三声をかけている。これは、フィービーが回転木馬で、茶色の木馬を選んで乗ることとも響きあう。あるいは、「大工よ」の冒頭で語られる「栗毛の牝馬」にもつながっているかもしれない。
また、「アンクル」や「ドーミエ」のモチーフになっている、エロイーズとアベラールの恋物語の主人公、アベラールは〈馬〉から〈落下〉して〈首〉の骨を折ったが生きのびる(ホールデンが寮を飛び出す際に「どっかの馬鹿が階段じゅうにピーナッツの殻をばらまいていたせいで、あやうく首の骨を折っちまうところだったよ」(92)ということに結びつく)。さらに、この尼と修道士の恋物語は、聖と俗の統合の象徴(英雄の首と聖俗一致については「バナナフィッシュ」読解にて)でもあり、アベラールは神話の英雄的エピソードを体現する存在。だからこそ、サリンジャーは再三この恋人たちを作品に描きこんでいるのだろう。
シェイクスピアの『リチャード二世』では、王位を奪われ、牢の中で死を目前にしたリチャード二世のもとに、かつての馬丁が現れ、リチャード二世が乗っていた葦毛の馬が、今は新たな王ボリングブルックを乗せて誇らしげにしていたことを告げる。リチャード二世は、「首をへし折ろうとしなかったのか?」と馬の裏切りを悲しむ。(『リチャード二世』松岡和子訳、ちくま文庫_201)ここでは、王位=リチャード二世にとっての人生を失うことが、馬を失うことと重ねられているし、それは、馬から落下して首の骨を折ることに例えられる。
これが、「テディ」で語られる「人生とは到来ものの馬だ」(271)という表現やトロイの戦士のイメージへと結びついていく。円環は、回る人次第で(フラニー曰く)おぞましいものにも、黄金に輝くものにもなりうるだろう。
Q.26-2 フィービーが「触らないで」というのはなぜか?
DBの短編「秘密の金魚」で、小さな子どもが、誰にも見せようとしない〈金魚〉は、聖杯の〈金〉に変容する可能性を秘めながら、いまは未熟な若者の象徴〈赤〉を纏う迷える魂〈魚〉(6)で、「バナナフィッシュ」にも通じるイメージ(色の意味については「バナナフィッシュ」読解にて)。冒頭にこの一節を入れることで、サリンジャーは、目には見えない隠された世界へ目を向けるよう読者を促す。
前半で、ホールデンが帽子の庇を目の下まで下ろし、「目が見えなくなっちまったよお」「お母さん、手を貸してください」(40_傍点原文)という場面。後半で、真っ暗闇の中、フィービーがホールデンの手を探して、「ねえ、どこにあるの?」(304)という場面や、暗闇の中で二人が衝突すること(302)に、目には見えない世界に目をひらけというメッセージを読み取ることもできるだろう。
エリオットの『荒地』にも登場する神話の人物ティーレシアスが盲目になる代わりに未来を見透かす能力(テディや「ハプワース」のシーモアが持つ能力と同類のもの)を得たように、此岸を見る目をとじると、彼岸世界にあるものが見えてくる、という思想がサリンジャー作品にもある。
此岸の向こう側に、一瞬が永遠になるような彼岸世界を想像すること。実際にあるかどうかはわからないにしても、太古から人々はそういう世界を思い描き、神話として語り継ぐことを必要としてきたらしいし、そのことには意味があるはずだと考えてみること。ユング派が神話を分析することで解き明かそうとした精神の動きのようなものを、サリンジャーは当時のニューヨークを舞台にした小説に仕立てて提示しようと企てている。
神話に倣うサリンジャー作品では、現実・此岸で起こる出来事よりも、冥界・彼岸・目には見えない世界で起こる出来事の方に重きが置かれる。あるいは、英雄が旅をしている状況では、光のなかよりも、暗闇の中で起こる出来事の方が真実になる。
竹内氏は、博物館で警備員が「坊やたち、(展示物を)さわるんじゃないよ」(204)と注意することや、フィービーがホールデンの手から何度もすり抜け続け、「気やすくさわらないでほしんだけど」(355)ということに〈接触の禁止〉を読み取り、「序章」で語られる『弓と禅』の弓道で「狙わずに的を射る」という極意と絡めて(C)分析している。
これらも、此岸・現実世界の触覚・肉体を使って触れたり、落下しそうな誰かをキャッチしたり、的を射たりすることよりも、暗闇の中で、実際には触れることなく精神的にキャッチし、的を射ることに意味を見出すような思想として読めるだろう。
現実世界で、安易にフィービーに触れても、それでキャッチできたことにはならない。彼岸世界に目をひらき、目には見えない深い場所で、心の奥底から相手を思いやったうえで手を伸ばしたとき、その手は落下しつつある誰かの心をキャッチできるし、弓は的に当たるのではないだろうか。
フィービーを連れて家出するわけにはいかないと考えたホールデンは、フィービーが学校へ行くなら自分も自宅へ戻るという(352)。けれど、フィービーはホールデンが軽々しく翻した言葉を信じることができず、ホールデンの手をすり抜け続ける。女神はそうして、英雄の言葉の真意はどこにあるのか、真心がこもったものなのか、と繰り返し問い、試す。それが彼岸の領域を通過して、心の奥深くから出てきた言葉なら、手を触れるのとは別の方法で、私を捕まえられるでしょう、と女神は英雄に誘いかける。ホールデンはそれを理解して、今にも落下しそうなフィービーを捕まえるのとは別の方法で、真心を伝えようとする。
もう一度メリーゴーランドに乗りに行く妹に、ホールデンは「僕は見ているよ。ここでただ見ていたいんだ」という。それは、「序章」の、シーモアはかつて「聖書の中で一番気に入っている言葉は、「見守れ!(watch!)」だと言ったことがある」(194)という一文にも結びつく。女神フィービーはその真意をくみとって、「あなたのことをもうべつに怒ってないんだよ」(358)と答えるのだろう。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。