25_回転木馬に乗って_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』解釈
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q25-1 回転木馬に乗るフィービーが心にしみるのはなぜか?
英雄が閉じ込められた氷=レコードは、やがて割れる。落下と、象徴的・神話的な死の先にこそ再生と成長がある。次に落下する者=イニシエーションに向かう者として、フィービーの落下があえて見過ごされることは、前回(下記)で確認した。
キャンベルは、神話において、洪水がもたらす豊穣、究極の恵みが、尽きることのない食べ物、朽ちることのない体、不老不死の薬、永遠の命などで表されると述べたうえで、ある孤島で、王子と王女が横になった寝椅子が昼も夜も止まることなく回転し続け、その部屋には尽きることなく食べ物が現れ続ける、という物語を紹介している(G)。ここで、永遠性という究極の恵みは、回転し続けることに結びつく。
[15_落ちる落ちる落ちる](下記)で示した神話の円環構造は、日・年・一生など、さまざまなレベルに当てはめて考えることができる。
朝日が昇るのとともに目を覚まし、夜に眠ること。春に芽吹いた緑が秋に実り、冬に枯れて、次の季節に備えること。新しい命が生まれ、やがて土に還ること。
氷やレコードへの凍結は一時的なもの。回転し続けること=死と再生を繰り返すことにこそ、神話的における真の永遠はある。
シェイクスピアの『マクベス』では、魔女たちがマクベスの精神を分裂させ、狂気に陥れるべく黒魔術をかける様子が「釜の回りで歌うんだ。/妖精みたいに輪になって、/釜の中身に魔法をかけよう」(116)と記されるし、『夏の夜の夢』では、柱の周りを踊る祝祭・五月祭(19)について言及され、妖精たちの輪踊り(41・50)が象徴する恋の追いかけっこが繰り広げられる。
『マクベス』で輪になって踊る魔術は精神を分裂させる、遠心力のようなイメージの黒魔術。『夏の夜の夢』の妖精たちの輪踊りは、恋人たちを結び付ける向心力のような力を持つ白魔術。シェイクスピアが描く円環は、両義的な意味を持つ。ぐるぐると回転しながら、離れたり、別れたり。分裂と統合を繰り返す。
ひとつの〈聖杯〉を見つけて、ひとつの回転=ひとつの英雄の旅が終わると、また新たな〈聖杯〉を見つけるための、次の旅がはじまる。
本当の永遠、フィービーがつかもうとする〈金の輪=聖杯〉には、それこそ永遠に手が届かないとどこかで予感しながらなお、それに向かって手を伸ばし続けること。
サリンジャー研究者の竹内康浩氏は、『キャッチャー』において、作家であり、本来は物語の語り手であるはずのDBに向かって、ホールデンが自分の物語を語るという状況に、語り手と聞き手の逆転を見出し、ホールデンとDBの一体化を指摘している。さらに、DBがDie死とBirth再生の頭文字だという見立てを行っている(C)。これは、『キャッチャー』が精神の豊饒神話であり、英雄ホールデンの象徴的・精神的な死と再生の物語であることと合致する。
作中、いちども直接は姿を現さないDBは、作品の最初と最後、クリスマスから数か月後の〈語り手ホールデン〉がいる現在に登場して枠構造をつくり、メリーゴーランドが象徴する死と再生の円環構造、ホールデンからフィービーへ受け継がれていく英雄神話の永遠性を、その名で影から支えているようにも思えてくる。
Q.25-2 振出しに戻るとは?
シェイクスピアの『十二夜』では、陽気な「三馬鹿大将」が「catch」という滑稽な輪唱、尻取り歌を歌う(56)。
三人がキャッチボールをしながら円環を描き、一体化するモチーフは、『キャッチャー』の冒頭、三人がフットボールを投げ合うシーンで描かれているものと同じだ(下記参照)。
『十二夜』ではさらに、「hart」鹿狩りが、「heart」心を捕まえる恋のハンティングに置き換えられる(10)など、同音異義の言葉遊びや相手の言葉尻をつかんで、意味をずらしながら進められるセリフのキャッチボールが印象的に用いられている。それがそのまま、誰もが誰かに片思いをし、恋の円環がぐるぐると巡る尻取り歌のような物語内容の象徴にもなっている。誰もが誰かを「catch」したいと望みながら、かみ合わない恋の追いかけっこは、間の抜けたサー・アンドルーが、誰かが何かをいうたびに、「僕だって」(65)と添えて後に続こうとすることでさらに強調されていく。
『キャッチャー』もとになった初期短編「I’m Crazy」では、ヴァイオラという名前の幼い妹が登場するのだが、これはおそらく『十二夜』のヒロインの名前からとられたものではないかと思う。『キャッチャー』と『十二夜』の関連は下記にも記したのであわせてご覧いただきたい。
だから、サリンジャーが〈キャッチャー Catcher〉捕まえる人=聖杯というタイトルを思いついた背景には、『十二夜』の「catch」の尻取り歌のイメージも念頭にあった可能性が高いのではないだろうか。それぞれが目の前の人に恋焦がれて、必死に手を伸ばしながら、どうしても追いつけない滑稽な追いかけっこは、回転木馬に乗って金の輪をつかもうとしているフィービーに重なる。
『十二夜』では最後に、双子のヴァイオラとセバスチャンが再会し、誤解が解けてすべての恋が成就する。滑稽な追いかけっこは、ふとしたきっかけで裏返り、誰もが誰かのキャッチャー=聖杯になれるハッピーエンドが訪れる。
キャンベルは、死と再生が繰り返されることについて、「あらゆる神話の基本原則が、この終わりの中の始まりにある。創世神話には、被造物である形が常にその源である不滅のものへと引き戻される、滅びの感覚が浸透している」(G)と述べている。
そして、[15_落ちる落ちる落ちる](上記リンク)で示した英雄の旅の円環構造を、ジェームズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』(復刊ありがとう!)の言葉を使って〈モノミス monomyth〉の名称で説明している。
『フィネガンズ・ウェイク』は、〈the〉で終わり、冒頭の〈riverrun〉につながる円環構造を取った物語である。また、〈フィネガンFin+agani〉の名にも、終わりが次のはじまりであるという円環構造を示すという(Wikipedia)。『フィネガンズ・ウェイク』も神話に倣った作品なのだから当然なのだが、『キャッチャー』はじめ、サリンジャー作品と響きあうところが多く、比較して読むと面白い(いつかまとめたい)。
村上春樹氏は、『キャッチャー』の終わり方について「振出しに戻ったみたいなところがある。」(『翻訳夜話』_39)と看破されていて、ファンとしてはむろん、『回転木馬のデッドヒート』というタイトルの意味を考えずにはいられない。
『キャッチャー』とは回転木馬=レコードのようにぐるぐる回っている小説なのであり、最後は、物語を振出しに戻すため、永遠に続く円環を完成させるために、ホールデンはフィービーをキャッチしないのだ、という言い方も可能だ。
そして、『キャッチャー』と対になる短編集『ナイン・ストーリーズ』もまた、最初の「バナナフィッシュ」と最後の「テディ」で主人公が死んでしまう点が、円環構造のようにつながる一冊。『キャッチャー』と『ナイン・ストーリーズ』を、テニスボールを打ち合うように、あるいは鏡に映すように行き来しながら読むと、また新しい発見がたくさんあって楽しい。これについても改めてまとめます。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。