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04_完璧な日_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解釈

J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

Q.04 A Perfect Day の意味とは?
 
サリンジャー作品のいたるところに、シェイクスピア作品からの影響がみられることは、『キャッチャー』読解でも見てきたとおり(最後にリンクをはります)。また、「バナナフィッシュ」を構想する際、シェイクスピアの『マクベス』を参照している可能性が高いことは、下記で述べた通り。

 『マクベス』において、はじめて魔女と会うシーンで、主人公マクベスは「ひどいのか良いのか、こんな一日は初めてだ So foul and fair a day I have not seen.」(18)とつぶやく。
 これは推測の域を出ないのだけれど、私は「バナナフィッシュにうってつけの日 A Perfect Day for Bananafish」というタイトルは、『マクベス』の「So foul and fair a day」から取られたものかもしれないと考えている。たとえそうではなかったとしても、両方の作品で、それぞれのセリフ/タイトルが表現しようとしていることはほとんど同じ意味として解釈できるように思う。

 『マクベス』で対比されている〈foul〉と〈fair〉は、魔女たちが呪文のように唱える有名なセリフ「きれいは汚い、汚いはきれい Fair is foul, and foul is fair.」(10)にも対応し、同作における二項対立を象徴する言葉として繰り返される。王権を手に入れたマクベスが、「きれいに装って皆を欺くのだ fairest show」(46)といいながら王として君臨するとき、彼の心の中は、悪魔に取りつかれ、醜い欲望にまみれて殺人を犯し〈foul 汚れて腐った〉(75)状態にある。
 『マクベス』の〈fair 美しさ〉と〈foul 汚れ〉は、サリンジャー研究の第一人者ウォーレン・フレンチが指摘した、サリンジャー作品における〈素敵な nice〉と〈インチキな phony〉の対比にも似ている。
 二項対立に揺らぐ心が、精神を荒廃させる原因として現れることは『キャッチャー』読解で述べた通り(下記参照)。

 また、若者にありがちな過剰な自信・自己愛の肥大と、自信の喪失・自己嫌悪による、気分の急上昇と急降下が、致死的に危険なものであること、シーモア・グラスという名前に内包された鏡を見るという行為には、そんな若者の精神的な揺らぎが象徴されていることは、下記でみた通りだ。

 『お気に召すまま』で、男装したロザリンドはオーランドーに、以前、恋のカウンセリングをしたことがあると、以下のような作り話をする。

その男には、僕を相手の女、つまり恋人に見立ててもらい、毎日僕を口説かせた。それに対して僕は、何しろ根が気まぐれだから、悲しんだり、なよなよしたり、お天気屋になったり、うっとりした目で愛想よくしたり、お高くとまったり、移り気になったり、馬鹿なふりをしたり、軽薄になったり、不実になったり、泣き顔になったり、笑顔になったりして見せた。(中略)いま好きになったかと思うともう嫌いになる、いまちやほやしたかと思うともう顔も見たくないとくる、相手にすがって泣いたかと思うともう唾を吐きかける。そうやって、僕を口説いた男を一時的な恋の狂気から不治の本物の狂気に追い込んだんです

(114)

 『ハムレット』において、半ば演技の、半ば本気の狂気状態にあるハムレットが恋人オフィーリアに、愛しているといった次の瞬間にお前など愛したことがないという場面も有名だ。ハムレットの狂気に振り回され、父を失ったオフィーリアも、狂気にとりつかれていく。
 『キャッチャー』で、ホールデンがサリーの悪趣味を内心批判しつつ求婚する場面がこれに重ねられることは、『キャッチャー』読解でみた通り(下記参照)。

 シェイクスピアの『オセロー』でも、「俺は妻が貞節だと思い、そうではないと思う、/お前(イアゴー)が正しいと思い、そうではないと思う」(137)という心の揺らぎがオセローの精神を蝕み、引き裂いていく。
 恋人や伴侶から愛されていると信じては裏切られる、期待しては落胆する、気分の激しい浮き沈みが精神を荒廃させ、狂気に陥らせるというのが、シェイクスピアが一貫して描き続けていること。
 未熟な若者=ユングのいう永遠の少年であるハムレットやオセローは、愛と憎しみに翻弄され、心を引き裂かれて、正気を失い、狂気に乗っ取られ、支離滅裂な言動を繰り返し、周囲にいる人々を巻き込みながら、悲劇的な結末へ向かっていく。
 『お気に召すまま』でも触れられるナルキッソス神話をはじめ、世に数多あるドッペルゲンガーの物語では、この愛憎の揺らぎが自分自身に対して行われる。実像と鏡像の間で繰り広げられる好き・嫌いのキャッチボールは、狂気を通り越して、存在の根底を揺るがす危機をもたらす。シーモア・グラスという名の主人公が初めて登場する「バナナフィッシュ」の最初の着想も、ここにあるのではないだろうか。

 マクベス冒頭の「ひどいのか良いのか、こんな一日は初めてだ So foul and fair a day」は、マクベスの心が二つの価値観に引き裂かれつつあることを示す言葉であり、それは彼が狂気に陥りつつあることを意味する。
 「きれいは汚い、汚いはきれい Fair is foul, and foul is fair.」というように、見た目と内実はときに正反対であり、価値観は一瞬で反転する。愛と憎しみ、美しさと汚れ、善と悪などの二項対立に心が引き裂かれている未熟な若者は、気分が急上昇した分だけ、後で急降下する、期待が膨らんだ分だけ、落胆してしぼむ度合いも大きくなる。きれいに見えるものの内実が汚れていることを予感して極度に恐れる。二つに引き裂かれた心には、きれいと汚い、善と悪、光と影、逆方向へ価値観反転の可能性が、常に内包されて見えている。
 「バナナフィッシュ」にとって〈完璧な日 A Perfect Day〉という言葉は、それ自体、両義的な解釈が可能だ(生きるのに完璧な日なのか、死ぬのに完璧な日なのか、など)が、仮に完璧を良い意味でとらえるのなら、そこには〈最悪の日 Worst Day〉とか〈ひどい日 An Awful Day〉のような反転した意味も含まれている、と読むことも可能かもしれない。(もちろん、バナナフィッシュとは何か、の解釈が鍵であり、これについては後述)
 実像=正気と鏡像=狂気に分裂し、自己愛と自己嫌悪の、気分の急上昇と急降下に揺さぶられ、砂浜を洗う波のように、寄せては返す愛と憎しみ、美しさと汚れ、期待と不安に揺らぎ、その揺れが飽和点に達したとき、狂気に乗っ取られた男は銃の引き金を引く。気分が最高潮に高まる日は、最低まで落ち込む日でもある、それも致死的なほどに。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。


J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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