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言語化する力が思考力を鍛える

言語化することは、言葉を生業にしている人のみならず、誰にとっても大切なことだ。自分の考えや感情を言葉に変換できる力は、考える力も養ってくれる。それだけでなく、自分がどんな意味で、どんな感情で"言葉"を発するかは、思考力に繋がる自分の視野や考え方まで影響を与える。

ものの考え方では、ネガティブが悪くてポジティブが良いといわれる。これは、思考力の広さと深さに関わってくるからだ。

ネガティブな思考は生きるうえで大切なもの

本来ネガティブな思考は、自分という生命体を守るためには必要な本能の一つ。防衛本能とも呼ばれ、危険回避能力に繋がるものだ。

危険があってもポジティブな考え方しか持ち合わせていなければ、命を落とすことだってある。だから、ネガティブ思考はポジティブ思考と同じくらい大切なもので、大切にしておいていいものなんだ。

でも、ネガティブ思考が度を過ぎてしまうと、自分だけでなく周囲にも影響を及ぼしてしまう。それはパワーの質量だとか、ウィルスのように感染するからなんてだけでなく、防衛も行き過ぎれば過剰防衛となるように、自分や周囲を傷つけてしまうからだ。

だから、ネガティブ思考は良くないと片付けられてしまいやすい。それだけならまだしも、「ネガティブ思考はダメ。ポジティブ思考でなければ」なんて短絡的な価値観を生み出すことにもなってしまっている。

大切なのは、バランス。ネガティブ思考があってもいいけれど、ポジティブな思考も身につけて、フラットな状態こそがバランスの良い状態。このフラットな状態を維持したり、近づけるよう努めたりすることが大切だ。

言葉が人格をつくり、人格が言葉をつくる

ネガティブ思考は大切だといっても、ネガティブワードばかり吐いてしまうのは考えもの。口にした言葉は耳から脳に伝わって、無意識の領域に到達して潜在意識に刻み込まれる。

口にしなくても、ネガティブワードを繰り返し頭の中で言葉にするだけでも無意識の領域には届いてしまう。だから、口に出すかどうかで判断するのではなく、ネガティブな言葉を使っているかどうかで判断する。使う頻度が高い言葉ほど、自分をつくるのに一番影響を及ぼしていると考えていい。

「人の脳は否定語を理解できない」

この言葉を聞いたことがある人は多いかもしれない。これには、ちょっと言葉が足りていない。否定語は理解できるが、二重否定が理解できないのだ。

考えてみて欲しい。「○○ができない」と繰り返し言っている人は、たいていの割合でその○○はできていない。実際にできなかったという出発点があったとしても、繰り返し頭の中で唱えれば、それが自分への暗示になってしまう。

暗示は、自分への呪いの言葉になり、精神の深い部分──潜在意識へとしみ込んでいく。繰り返し「○○できない」と考えているうちに、脳が「そうか、自分は○○できないのか」と認識してしまい、能力の伸びしろが失われてしまう。

二重否定を使った場合も「○○できない」と誤って潜在意識に書き込まれてしまうため、本来は1のチカラで10できる能力もパフォーマンスが落ちて、10もできなくなる。

ネガティブワードを使うと、自分の能力が本来よりも低くなってしまうというわけだ。さらには、ネガティブ思考を加速させる。ネガティブ思考を持つと、あらゆる場面で否定することを優先してしまうようになる。

その結果、心と頭が凝り固まった、視野の狭い融通が利かない頑固人間になってしまいかねない。だから、どんな言葉を発するかは、自分をどんな人間にしていきたいのか、どんな人間で在りたいのかを問うことにも繋がってくる。

負の感情にこそ言語化する力が必要

著書でもほぼ一貫して、私は「言語化の重要性」について記している。自分の内なる声(感情・欲求)を表す唯一の方法は、言葉での表現しかないからだ。誰かに自分の気持ちをわかってもらいたいと思ったら、言葉にするしかない。それは他人相手だけでなく、自分に対しても同じことだ。

「むかつく」「イライラする」「気に食わない」こうした負の感情を持つことは誰でもある。けれど、たいていは自分のその感情に真っ向から向き合わずに、負の感情を感じた相手に向けて、どうにかしようとする。これは、怒りを感じることを悪いといっているのではない。

人間の基本欲求でもある喜怒哀楽。怒りを感じることがあっていい。ただ、その怒りをどう表現し、どう相手に伝えるか。このプロセスには注意を払わないといけないし、その感情の起点が何かを知っておくことで感情の処理の仕方も変わってくる。

それもせずに感情のまま、怒りのエネルギーを相手にぶつければ、それは暴力と何ら変わらない。つまり、正しく処理しない怒りは、相手と自分を傷つける刃にもなる。

感情を言語化することは、自分の感情の整理にもなる。そうすれば、相手に理解を促すために何を言えばいいか、客観的な視点を失わずに論理的で建設的な対話もできるようになる。

それができなければ、怒りのエネルギーをぶつけ合うだけで、何も残らない。それならまだ良いほうで、失うことのほうが多いかもしれない。

「むかつく」「イライラする」「気に食わない」こんなふうに誰かや何か、あるいは自分に対して感じたなら、それをそのまま相手や自分に向けるのではなく、まずは
「なぜ自分はイライラしてるんだろう?」
「どうして自分はそう感じるんだろう?」

と深く掘り下げてみる。そして、それらの感情を引き起こしている真の原因に目を向ける。すると、無駄に傷つけ合うようなこともなくなる。

目を向けてみるといっても、そのプロセスは至って簡単だ。一つひとつ、具体的に自分に聞いていくだけだから。けれど、それがなかなか上手くできない人もいる。それは、まだ言葉を少し話せるようになったばかりの子ども(2歳くらい)を思い出してみるとわかりやすい。

小さな子どもに、一つひとつものを訊ねるように聞いても、返ってくるものが必ずしも聞き取れる言葉とは限らない。特に相手が泣きじゃくっている子どもなら、なおさらだ。それと同じで、自分の心の奥から聞こえてくる声は明確な言語や言葉で返ってくることは、まずない。

それを一つずつ掴み上げて、適切な言葉に直してやる必要がある。そのためには、語彙力も必要になる。見たくもないドロドロの汚い自分を見ることにもなる。言語化をする力とは、そういったドロドロの自分を表現する力でもあるし、そんな自分を認める力(自己肯定感)を養うことにも繋がっている。

このプロセスは、どんな場面でも使える。誰かから悪感情をぶつけられたときも、自分と相手それぞれに対して内観の目を向ける。感情を感情のままで受け止めると、反発心や対抗心が生まれもするけれど、感情を分解してみれば意外にも冷静になれるものだ。言語化する力には、こんな副次的な作用もあるのだ。

言語化する力があれば思考に幅と奥行きが生まれる

「むかつく」「すごい」「やばい」などの今や当たり前に使われているこれらの言葉には、いろんな意味合いが含まれている。言いやすいということもあって、頻繁に使われがちの言葉だが、これらの言葉を使わずに、そこに含まれた意味を別の言葉で表現できなくなっているのなら、自分の思考力を疑ったほうがいい。

こうした便利な言葉は、使い勝手がいいぶん、脊髄反射的に使用してしまいがちだ。その時々に感じた心の些細な変化はもちろんのこと、自分の感情を表現するための語彙力を失うことになりやすい。語彙力を失えば、当然言葉として表現する力が失われるから、言語化する力そのものも衰えてしまう。

人は「自分が話せる言葉の範囲でしか、ものを見て判断することができない」といわれている。言語化する力は、物事の抽象度を変えて表現する力でもある。抽象度とは、カメラレンズのピントのようなものだ。

抽象度を変えられるということは、思考にも奥行が出る。そして、焦点をどこに当てるかで、物事を見る視点も変わるから、思考にも幅が出る。

思考力があれば、穏やかに生きられるようになるし、自分や相手を受け止める力もつく。一朝一夕には身につかない力ではあるが、思考力は幸せの種を見つけるのにも重要な力になる。

思考力を鍛えて、個々の背景にまで目を向けられるようになれば、私たちの世界は今よりももっと優しい世界になることだろう。

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浜田みか【コピーライター/作家/編集者】
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