5歳娘、「みんな一緒」に染まる
答えは出ていないのだけど。
「相手もOK、自分もOK」という考え方、って大事だよね、
とつくづく思う。
頭では分かっているのに、他人はもちろん自分自身をもジャッジして、
正解を求めてしまう。正解なんてどこにもないのに。
さて、いま私は娘のことで頭を悩ませています。
娘は5歳年長、3月までアメリカのローカルPreschoolに通い、
Kindergarten*に半年在籍したところで日本に帰国した。
そして、この4月からいわゆる日本のふつうの幼稚園に通っている。
まだ2か月弱だけど、
娘はすっかり幼稚園の「みんな一緒」文化の洗礼を受けている。
おそらくまわりの子どもたちと、いろんなことが違うんだろう。
そしてそれを細かく指摘されるんだろう。
これまで我が道をゆくだった娘の言動が変わり。
「みんなと一緒じゃないから」
「みんなに『●●ちゃんだけ違う』って言われるから」
「みんなから遅れたくないから」
「同じじゃない」ってことをすごく気にし始めた。
当然「日本の幼稚園」とひとことでくくれるわけもなく、
園によって教育方針もぜんっぜん違うだろうし、
保育園ママに聞いたらどうやら保育園はまたさらに事情が違い、
もっと自由な雰囲気の様子。
他とは比べようがないので、あくまでも娘の幼稚園の、
さらには娘の所属するクラスの場合、という前提で書くしかない。
そして日本の幼稚園を批判しているわけではもちろんない。
先生たちは信じられないくらい頑張ってくれてるし、
というか、大変すぎて疲弊しているのがすでに分かる。
園も親も子どもも肩の力を抜こう。
幼稚園は、新学期から行かせたかったので、まだアメリカにいる間に、
同じ地域からきた駐在ファミリーからもらった情報だけで、
見学もすることなく決めた。
合わなかったら変えればいいや(アメリカでは何度か変えた)くらいに、
気軽に考えていたが、まさかの幼稚園の指定グッズ購入で
想像以上にお金がかかったこともあり、
いやまだ2か月だ、そんなすぐは変えられない。というのが実情である。
GW後、幼稚園行きたくないと言い出し、
でた!これが登園渋りってやつか!ついにーーー!
と思っていたが、これが想像以上にキツイ。
毎朝、行きたくないと泣く我が子を見るのは辛い。
行きたくないのなら行かなくていいよ、と言いたいが、
行かなかった場合のしんどさ(自分の)を考えると、
どうにかしていってほしいと思ってしまう。
そしてまだ5歳の子どもが、泣いて悩んで、でも気持ちを切り替えて、
立ち上がり、幼稚園行く!と言うのだ。
玄関を出たら、私の先をどんどん歩いて、幼稚園バスに乗って手を振るのだ。
なんと…子どもってすごいな。
と、確かにすごいのだけど、
それって、本当に娘は気持ちを切り替えて、
前に進んですごいね、という話なんだろうか。
確かにすごいよね。
でも「行く」と伝えたとき、私がどこかほっとした顔をしたり、
行くと決めたことを喜んだり、褒めたり、、、してないとはいえない。
そんな母を見て、喜んでほしくて、そう決断しているのだとしたら?
わたしや夫という親の存在、
家という場所、
彼女にとって安心安全の場所になっているだろうか。
と、ふと心配になる。
娘は娘の人生、私は介入できないし、
彼女が自分で切り開いていくしかない。
でも家族との空間は、彼女が最も安心できる場所であってほしい。
そして学校へ行くと母は喜んでくれる、と思っているだとしたら、
いま娘にとって学校は「みんな一緒」の場所。
そうじゃなくて、それも大事だけど、
でも”わたし”がどうしたいか、
まわりが何をいおうとも、わたしはわたしでいいんだ、
と信じられる力をつけてほしい。
そんなメッセージを伝えたいけど、きっとまだ伝わってない。。
それは私がきっとぶれてるから。
……そんな話を友人とライチタイムにZOOMで話していたら、
その友人が「バウンダリー(自分と他者とを区別する境界線)」の話をしてくれた。
その話はまたあした。
子育てとは親育て、ほんとそのとおりでございますね。
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