ふがいない僕は空を見た①恋は性欲、では、愛はどこから来るのか?
ふがいない僕は空を見た 著 窪美澄
完読後、かなり体力を使った気持ちになった一冊。
壮大なエネルギーを要するのはなぜか。
まず、短編集であるにもかかわらず、一編に起こる出来事が非常に目まぐるしい。そしてもう一つ、性描写のリアルさ。(高校生の分際で!やになっちゃうねー)
私は、多少過激な性描写に免疫はあるのだが(そもそも恋愛小説に性描写はつきものだという考え)この作品はかなり刺激が強い。ワードも直接的だし、かなりリアルに書き込まれている。正直、読み終えてから食事をする、となると厳しいものがあるくらい。
ここまでリアルにする必要ある?と思ったが、ここまでリアルにするのに、理由があるとするならば、
恋愛に性欲が付きまとう事実を、証明するため
なのかもしれない。
『ミクマリ』の主人公、男子高校生の斉藤くんは、歳上の主婦、里美のマンションに週に何度か足を運び、セックスをしている。デートをしたり、手を繋ぐこともなく、ただ、身体を重なるだけの関係。
しかし、里美は斉藤くんの元を離れる。このときに、斉藤くんは、里美への想いを、性欲だけでなく、恋愛も含んでいたことに気がつく。
《ドロドロのマグマ》とは、性欲が100%ではなく、久しぶりに里美に会えた喜びや、里美を愛しく想う気持ちがある。
健全な恋は、まず、相手への恋愛感情の芽生えから、触りたい、触ってほしい、という性欲に発展するのだと思う。特に高校生なんて、まず、かっこいい!背高い!足速い!(これは小学生かな?)から入るものだろうし。
しかし、斉藤くんと里美は、性欲から関係を築いた。これが、間違いとも言えないのだ。
だって、性がなければ、恋は生まれなかったのだから。
銀杏BOYZの名曲、『恋は永遠』という曲の歌い出しは、《恋は永遠、愛はひとつ》であるが、その歌詞を引用すると、《恋は性欲、愛も性欲》。
異論はあるはず。ピュアな恋しか認めない人々は憤りを感じるだろう。
敢えて、言わせてもらうと、恋に性欲はつきものだ。
以前、別のnoteにも投稿したように、好きな人には触れていたいのだ。触れたから好き、も人間の感情として、あり得ることである。
恋と性。割り切ることは、難しいのだ。
美しい恋物語は、世に推奨され、受け継がれていく。
しかし、性欲という《やっかいなもの》と付き合う覚悟を書き切った、本作品は、斉藤くんのように、性と恋に悩む人間の救いの手になるだろう。
壮大なエネルギーの塊である本作品を一気に読み終えたのは、引き込まれる描写だけでなく、作品のコンセプト『性と恋』に興味があったからである。
『ミクマリ』は、性欲→恋愛の流れを見事に描いているが、別の一編では、その逆を表現している。
個人的には、そちらの方に、非常に共感できた。
次回、そちらも取り上げたい。
と言いたいところだが、里美サイドの短編もあるので、そっちを分析していこうか。