ふがいない僕は空を見た② 性欲という名の卵、恋という名の希望
前回の続きです。
斉藤くんは、性欲から恋を育てたが、別の一編の主人公、七菜は斉藤くんへ、恋心から性欲の芽生えを感じる。
これ、一般的だと思う。
好きな人には触れたくなる。ただ、この触れたい、という性欲は気が付いたら膨れ上がっていることへの葛藤は、正直苦しいのかも。片思いなら、特に。
斉藤くんは七菜への告白を受け入れ、付き合うことになるが、斉藤くんは里美という主婦と体の関係を持っている。2人のセックスの動画、写真がネットにばら撒かれ、七菜は友人からその情報を知ってしまう。
七菜は、斉藤くんとセックスがしたかった。
初めて誰かを好きになり、初めて告白し、初めて付き合った。今年、斉藤くんとセックスをして、素敵な夏にするのだ、と胸を高鳴らせていた。
片思いの何がしんどいって、相手の心が見えないことももちろんあるが、好きな人の肌の温もりを感じることができないことにあるのではないか。
七菜は斉藤くんに愛されないこと、家族とうまくいかないことにむしゃくしゃし、兄の知り合いとセックス(未遂)する。
斉藤くんに触れてほしいのに、寂しさを別の人にぶつけてしまう、というのも、恋と性の葛藤に悩む人のあるあるだと思う。(でも高校生でこんな経験はなかなかませてる。自分が高校生のとき本作品を読んだら気が滅入ること間違いない)
七菜の兄の知り合いが事後(未遂)に放った台詞。
ここ、この物語の軸です。
分ける必要は、ない!
よく割り切った関係、とか言う人いるけど、何をどう割り切るの?性欲と恋は割り切れるの?天才ですか?
と、論破したいところです。ただ、価値観の問題だから、深入りしない方がいいのも事実。
これが、20代後半とかになれば、性欲と恋の付き合い方はいくらかは楽になるのかも。
しかし、高校生なんて、多感な時期にこの経験は肉体的にも、精神的にも、重荷になるのだ。
なんやかんや、彼らはまだ繊細である。
別の一編で、以下のような台詞がある。
恐らく彼らは、(斉藤くんも、七菜も、里美も)バカな恋愛の最中なのだ。
別の作品になるが、《恋って、勘違いを信じるかどうかだよね》(引用 寝ても覚めても より)に、通ずるものがある。
バカでいい。変態でいい。
そんな恋をしたい。
ただ、『やっかいなもの』=性欲 と付き合うのは男も女もしんどい。
最終章に出てくる名台詞。
この世のあらゆる悩み(恋でも性でも、仕事でもなんでも)を抱えた人々の、救いの一言。
今、どうにかしなくてもよい。
特に、恋と性欲の悩みなんて。
いつか、で大丈夫。
寄り添い、そっと見守るような、温かい言葉だ。
七菜は、斉藤くんが写真や動画がネットやら学校やらにばら撒かれた後、一緒に登校したり、家に遊びに行ったり、七菜なりに支えた。
この献身的な姿は、性欲がゼロではない、と思う。
(七菜はいつか斉藤くんとセックスをして子どもをたくさん産むと意気込んでいる)
初めは恋だった。
今は恋だけではない。
しかし、恋がなければ、2人は《2人》というカテゴリーに含まれなかった。
七菜のひたむきな思いは、斉藤くんにきっと伝わる。
こんな恋心は、彼の希望になるだろう。