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ボーディセーナはインドに帰らなかった

 その少年は、夢の中にいた。
 東の空が、黄金色に輝いている。
 夕焼けのようであり、朝焼けのようであった。
 太陽かと思って見ていると、それは黄金の大車輪だった。
 その下で、金色の巨人が、座っているのが見えた。東の国だ。
 沢山の人たちが集まって、作業をしている。とても楽しそうだ。
 少年はそちらに向かって、歩き出した。そうだ。東の国に行こう!
 
 昔からフットワークの軽さが身上だった。
 よく人に頼まれて、遠くまで行った。お使いだ。便利だったので、大人たちは少年によく手紙を持たせて送り出した。子供の足で、帰って来れないぐらい遠くに、行ってしまう事もよくあった。
 夕暮れ時、母親が近所の人に声をかけて、遠方まで少年を探しに行った。
 だが見つかった時、少年はいつだって、東の方角を見ていた。
 「……どうしてあなたは、いつもそんな遠くまで行ってしまうの?」
 「だって、東の国に行けるかもしれないじゃないか!」
 母親は嘆息した。少年はバラモンの生まれだ。将来は決まっている。
 「……そんな東の方ばかり見ていても、海が見えるだけですよ」
 「海を越えた先に、黄金に輝く国があるんだ!東の国だ!」
 母親はなぜ我が子が、東の国に行きたがるのか分からなかった。
 
 少年は再び夢を見た。
 濃霧の中、重たい足音がする。
 不意にパオーンと象の鳴き声がした。
 その時、世にも不思議な香りが立ち込める。
 菩薩が白象に乗り、帯剣していた。男装の麗人?
 「あなたは誰ですか?」
 少年は尋ねると、白象の上の菩薩は答えた。
 「……私は文殊菩薩、智慧を司る者」
 少年は智慧という言葉に反応した。見上げる。
 「……少年よ。私を探しなさい。私を求めなさい」
 花びらの風が吹き、文殊菩薩と白象は姿を消していた。
 
 ボーディセーナは704年、南インドのマドゥライで生まれた。姓はパラタヴァラジャンと伝わる。母語はタミル語で、バラモン階級の生まれだ。だが文殊菩薩に憧れて、仏教僧になった。その後も文殊菩薩の足跡を求めて、インド各地を歩いた。
 ある時、人から文殊菩薩は、唐にいると聞いた。華北の聖地、五台山だ。パルティア出身の翻訳僧で、元王子の安世高が、洛陽で活躍しているとも聞いた。ボーディセーナは単身、ヒンドゥークシュ山脈を越えて、西域を経て、入唐した。
 五台山に行った。だが文殊菩薩は日本に行ったと聞かされた。なお希望を捨てないボーディセーナは、日本の情報を求めて長安に向かった。そこで、運命の第10次遣唐使のメンバーと会った。副使中臣名代だ。唐僧道璿(どうせん)、ベトナム僧仏哲など、異国の僧を集めている。
 「……ぜひ天竺僧として、本朝まで来て頂けないか?」
 だが日本まで行ったら、流石に故郷のインドには帰れない。無理だ。
 「喜んで!」
 ボーディセーナは即答だった。文殊菩薩に会えるなら、どこにでも行く。
 こうして735年、第10次遣唐使の帰りの船で、日本に向かった。だがこの遣唐使にはとんでもない魔が潜んでいた。光ある処に闇もまたある。
 世界は劇場だ。
 
 その天竺僧は夜、遣唐使の船底で、恐るべき病魔と対峙していた。病人が出たと言うので、診てくれと頼まれたが、すでに全身にブツブツが出来ていた。高熱を出してうなされている。患部に光を当てると、エクソシスト映画の患者みたいに暴れた。
 「……ボーディセーナよ。異国の僧どもよ。東の国に行かせない!」
 あばたの醜い女が立っていた。半透明だ。赤い服を着ている。影が深い。
 「お前は一体何者だ?病魔の類か?」
 「……我が名はソウ、姓はエンドウ。あばたで取り殺す者」
 「ふざけているのか?お前は疫病の悪魔だな!」
 それは疱瘡神と呼ばれる疫病の本体で、その霊的存在の核心だった。
 「……我が死に至る病、とくと受けよ。神仏など信仰させぬ!」
 赤黒い波動が放たれた。とても熱くて痛い。肌がチリチリと焼けそうだ。
 ボーディセーナは霊道が開けてから、様々な悪霊・悪魔を見てきたが、このような存在は見た事がない。宇宙的存在か?一瞬、バラモンのマントラで戦うか、仏教の法力で戦うか迷った。ボーディセーナは二刀流だった。だが心胸の裡から声が聞こえた。
 「文殊の理剣で戦いなさい!」
 霊的な秘剣が天から投げ渡された。ボーディセーナは一閃した。
 一瞬、人類がこの感染症を撲滅する未来を予見した。
 「我は滅びん!このあばた、忘れるな。転生せし我が名はエムポックス!」
 あばた顔の醜い女は、恐ろしい地獄の高笑いと共に、消え去った。
 だがそれからが、苦悩の始まりだった。
 第10次遣唐使は天然痘のキャリアだった。
 
 遣唐使は光と闇がある。第12次では、鑑真と九尾の狐が来日した。大陸で暴れた大妖狐だ。日本でも暴れた。第10次は、ボーディセーナと疱瘡神だ。日本社会を壊滅一歩手前まで追い込んだ。日本史は霊的観点から、もう一回、洗い直した方がいい。
 光側の人物の名は残っている。だが闇側の存在は殆ど知られていない。九尾の狐も疱瘡神も、科学万能の世の中で、迷信と斬って捨てるのは簡単だが、そのサイエンスだって、今はおごり高ぶって、天動説になっている。霊は存在する。悪魔も存在する。
 
 737年、第10次遣唐使の一行は、平城京で、行基たちに出迎えられた。
 ボーディセーナと行基は、出会って早々に、お互いがっちりと握手した。
まるで兄弟のように、言葉を交わす二人を見て、周囲の人々は奇異に思った。お互い異国の言葉を話しているのに、完璧に通じていた。意味不明な状況だった。実は二人とも、かなり高度な霊能者だったから、心話・テレパシーができた。
 ――その昔、霊鷲山で、釈迦牟尼が法華経を説いた時、
 行基は天竺僧を見ていた。
 ――御前で、我らが誓った一貫した真実は今も朽ちていない。
 ボーディセーナは行基を見て、ただ頷いていた。
 ――私はあなたと再び会いました。ここは再誕の地、東の国です。
 今度は天竺僧が行基を見た。
 ――あの時、カピラヴァストゥで私たちが誓った誓いは今実を結んだ。
 釈迦族が集う王城が見えた。在りし日の誓願が今蘇る。
 ――今日私は再び文殊菩薩の顔を見ることができたのだ!
 ボーディセーナは行基の中に、文殊菩薩の姿を見ていた。
 
 大仏を造立している間、その天竺僧は、奈良の大安寺に居を構えた。
 この寺は数多くの留学僧、翻訳僧を輩出した事で知られる。空海もいた。
 ボーディセーナはサンスクリット語の仏典を持ち込んで、日本で最初に講義した。
 南インド出身のボーディセーナは、バラモン出身だったので、サンスクリット語が読めた。ネィティブと言ってもいいだろう。本場インドの梵語・梵字だ。
 サンスクリット語は、インド・ヨーロピアン言語の古典語である。古典ギリシャ語、ラテン語と並ぶ。18世紀、ジェズイットのフランス人クルドゥが、サンスクリット語は古典ギリシャ語やラテン語と単に似ているだけではないと、最初に気が付いた。
 英語は、インド・ヨーロピアン言語の代表選手だが、高速進化を遂げて、ITの人工言語の扉を開いた極めて特異な自然言語だが、8世紀では、英語はまだ誕生していない。古ノルド語、低地ドイツ語などとあまり差がない、古英語の時代だ。
 だが日本は、8世紀に、西欧に先駆けて、サンスクリット語を学び、梵字という形でドキュメントを残している。全部、天竺僧ボーディセーナの功績だ。
 ポルトガル語とか、スペイン語より先に日本は、インド・ヨーロピアン言語の古典語を知っていた。戦国時代にやっとラテン語が、ジェズイットの宣教師たちによって日本に入ってきた。英語とかフランス語は、もっと後の時代、幕末くらいに日本に入ってきた。
 だが日本人は長い間、関連性が分からなくて、梵字は梵字と思っていた。インドの言葉だと思っていても、サンスクリット語とイコールだと思っていなかった。近代のどこかの時点で、誰かが気が付いたと思うが、誰が再発見したのか分からない。
 この梵字のアルファベットから、日本語のいろは歌が作られたという説がある。最初期に、密教系の僧侶の間で、いろは歌が使われていた形跡があるので、空海がいろは歌を作ったという伝説まで生まれた。実際の処は分からない。不明だ。

 752年4月9日、大仏の開眼式が執り行われた。大仏の開眼式では、左目から描き、次に右目に筆を入れる。この方式はダルマさんの眼の入れ方として、日本文化に定着した。開眼師はボーディセーナなので、この天竺僧が始めた習慣かも知れない。
 ――大願成就は為されましたぞ。必ずや本仏下生となりましょう。
 聖武上皇から任命されていたが、行基が先年亡くなったため、託された形だった。
 鑑真は753年に来日しているので、行基には会えていないし、大仏の開眼式にも立ち会っていない。だがボーディセーナとは会っている。二人は意気投合した。
 760年2月25日、大安寺にて、天竺僧ボーディセーナは亡くなった。56歳だ。最期の日、ずっと西方を向いて、手を合わせたまま、息を引き取ったと言う。
 
 その少年は、マドゥライの裏路地を駆けていた。傍らには、白象に乗った文殊菩薩が、微笑みながらついてくる。懐かしい南インドの街並みだ。帰ってきた!帰ってきた!お母さん!在りし日の母は、いつものように、夕飯の支度をしていた。
 そろそろ、遠方から帰ってくる少年を待っていた。東の国から帰って来る。いつも海を越えて、東の国に行きたがっていたが、実際どうだったのか?少年は帰宅して、母の腕の中に飛び込むと、文殊菩薩を紹介した。
 それが、ボーディセーナはインドに帰らなかっただ。
 
            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺058

奈良の大仏 1/3

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