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ユリウス・カエサルと女たち

 Neapolis(ネアーポリス)、ナポリ近くのvilla(ウィラ)、別荘から見える地中海は碧かった。セルウィリアという女性がいた。カエサルの愛人にして、カエサルの暗殺者マルクス・ユニウス・ブルトゥスの母親だ。愛したカエサルは、息子の手で帰らぬ人となり、その息子も死んだ。
 
 紀元前42年10月3日、フィリッピの戦いだ。アントニウスとオクタウィアヌスに討たれて死んだ。そのアントニウスも紀元前31年9月2日、アクティウムの海戦の後、死んだ。
 
 セルウィリアは、カエサルの愛人だったクレオパトラの死も知った。毒蛇に乳房を噛ませたと言う。遺児となったカエサリオンは、オクタウィアヌスが処刑した。もう誰も残っていない。
 
 カエサルは死後、元老院の決議で、神となり、神君カエサルとなった。だがセルウィリアの手元には、カエサルからの恋文が沢山残されていた。どれも夢のような計画で溢れている。だが探せばローマ中に、神様となった男から、ラブレターをもらった女は沢山いるだろう。


Amor Flos
愛の花


 
 だからセルウィリアは、優しい微笑みをもって、この手紙たちを開く。もうあの日は遠い。


Ex villa Neapolis
ナポリの別荘から




 

Aquila
銀鷲旗

 紀元前46年8月、Caput Mundi(カプト ムンディ)、世界の首都で凱旋式があった。ローマ内戦が終わった。カエサルはQuadriga(クワドリガ)、四頭馬車に乗り、立って歓呼に応える。

「Veni, Vidi, Vici」
(ウィーニ、ウィーディ、ウィーキー)
(来た、見た、勝った)


Triumphus
凱旋式

 カエサルがオリエントからローマに送った、戦勝報告にあった有名な文言だ。第十軍団の兵士たちがこの文言のプラカードを上げて、気勢を上げている。だがその次に、ギリシャ喜劇のγελάς(ゲラース=笑い)、ゲラゲラのお面を被った道化者たちが現われた。

 「Veni, Vidi, Feci」
 (ウィーニ、ウィーディ、フェーキー)
 (来た、見た、やった)
 
 第十軍団の道化者たちがそう叫ぶと、ローマ中が大爆笑の渦に包まれた。
 
 「Uxorem tuam cela! Uxorem tuam cela!」
 (ウクソレム トゥアム チェラ!ウクソレム トゥアム チェラ!)
 (女房を隠せ!女房を隠せ!)
 
 第十軍団の道化者たちが冷やかし、栄えある凱旋将軍を指差す。

 「Cela uxorem ab illo calvo!」
 (チェラ ウクソレム アビ イッロ カルボ !)
 (あのハゲから女房を隠せ!)
 
 大神ユピテルが気を利かせて、一際強くカエサルの頭頂部を輝かせた。
 
 「Est refulgens!」
  (エスト レフルジェンス!)
  (眩しい!=彼は輝かしいという意味にもなる)

 道化者たちがバタバタと倒れると、エジプトの女王が笑った。クレオパトラだ。カエサルの愛人だ。エジプト風の衣装を着ているが、ギリシャ人だ。ラテン語・エジプト語を話す。アレクサンドロスのディアドコイ王朝の一つ、プトレマイオス・エジプト、最後の女王だ。

Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ
クレオパトラ7世フィロパトル

 21歳の彼女はある夜、全裸で織物に包まれて、自分をカエサルにプレゼントした。男を誘惑する事について、彼女の右に出る者はいない。今はその蜜月の時だ。二人は世界最高の恋人だ。

 カエサルは微笑みながら、手を振っている。全く気にしていない。民衆は自由だ。第十軍団の兵士たちも自由だ。女たちも自由だ。平和が帰ってきた。さぁ、不倫するぞ?今夜は誰だ?

 戦争とは人殺しである。だが単なる人殺しでもない。目的がある。しかしそれが正義であるかどうかは、結果が出てみないと分からない。歴史家が判定する事でもない。人類の良心の根源たる神仏だけが判定できる。現代の人々は愚かにも国際法や投票箱に身を委ねているが……。


Imperium Romanum
ローマ帝国

 なぜローマが共和制をやめて、帝政に入ったのかと言えば、選挙が機能しなくなったからである。大都市ローマとその近郊までしか選挙が実施できず、人口の増大が選挙をより困難にした。この時代、皇帝はまだ出現していないが、終身独裁官という概念は存在し得た。

 カエサルはDictator perpetuo(ディクタトール ペルペテュオ)となり、Prīnceps(プリーンケプス)、第一人者になった。まだ皇帝、Imperator(インペラトール)ではないが、実質は近い。インペラトールとはimperium(インペリウム=軍指揮権)を持つ人だからだ。


Romanus Nummus Aureus
ローマ金貨

 ローマのimperium(インペリウム=帝国)は、19世紀の帝国主義とは異なる。敗者を同化して、共に未来に向かって歩む事を指す。敗戦国の指導層に、元老院の議席さえ与えた。



Φάρσαλος
Pharsalus
ファルサロス

 同時代に英雄が二人出る事がある。いや、英雄と道化が出る事がある。
ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年、ローマで生まれた。貴族だ。英雄だ。カエサルという家名は、カルタゴの言葉で象を意味する。霊的に言えば、神獣を表す白象だろう。

 カエサルは、ライバルであるポンペイウスの妻を寝取った。怒ったポンペイウスは妻と離婚したが、カエサルは、自分の娘ユリアを出して、ポンペイウスと結婚させる。無論、政略結婚だが、何とこの夫婦はとても上手く行った。ユリアが生きていた間は、三者の仲は良かった。
 
 ライバルの妻を不倫して寝取り、そのライバルに自分の娘を嫁がせて、夫婦円満に持って行く手腕は並ではない。人類史上、空前絶後ではないか?人倫の風上にも置けない反英雄である。善悪の彼岸を行く?最終的には、ファルサロスの戦いの後、ポンペイウスは死んでいる。
 
 ポンペイウス・マグヌスは稀代の道化である。カエサルに妻を寝取られて、カエサルの娘ユリアに骨抜きにされて、ファルサロスの戦いでカエサルに敗れて、全てを失った男である。恥辱に塗れている。だがローマ史で唯一、マグヌス、大王とまで呼ばれた男である。
 
 前半生の功績だけ考えると、正真正銘の英雄である。だが後半生はカエサルに振り回された。
 
 ユリウス・カエサルとは一体何者だったのだろうか?ローマ中の人妻を寝取り、ローマ中の旦那から憎しみを一身に背負った男?いや、だがカエサルは女たちの大切な息子も預かって、戦場に連れて行った。立身出世だ。女たちからは恨まれていない。手紙魔だったからだ。

Romana Domina
ローマの女性


 
 なぜローマ中の女たちは、挙ってカエサルに身を捧げたのか?そんなにこの禿げた男が魅力的だったのか?どっから見ても、中年太りした禿げたおっさんである。だがその醜い身体には、神が宿っていた。神性だ。人の魂とは思えない輝きがあった。その光は眼差しを宿した。
 
 恐ろしく明るい眼をした男だった。あまりに魂が輝き過ぎて、眼差しから光が溢れている。
 
 そして矢の如き、言霊を次々と射る。ルビコン川を越える時、慣用句の意味さえ劇的に変えた。
 
 「Ἀνερρίφθω κύβος!」
 (アネッリプトー キュボス)
 (賽は投げられた)
 (本来はもうどうにでもなれ!くらいの捨て台詞)

 刺さるのはいつだって人の心だ。だからモテた。男にも、女にも。ローマ中の女が、カエサル推しになった。アイドルの誕生だ。禿げた中年のオヤジだったが、稀代の伊達男だった。

 だが政治的に偉大な構想も描き、ローマの共和政を終わらせ、帝政の道を拓いた。だからルビコン川を越え、ポンペイウスと対決し、ローマ内戦に踏み切った。アメリカ南北戦争と同じだ。
 
 

Legio X Equestris
第十軍団


 


 紀元前48年8月9日、ファルサロスの戦い、Η Μάχη των Φαρσάλων、(へー マケー トーン ファルサローン)があった。ユリウス・カエサルとポンペイウスの最終決戦だ。

Η Μάχη των Φαρσάλων Α
ファルサロスの戦い 1


 カエサル軍、歩兵22,000、騎兵1,000。ポンペイウス軍、歩兵51,200、騎兵7,000。圧倒的に不利だ。特に騎兵の数が違い過ぎる。包囲殲滅戦ができないし、逆に包囲殲滅戦される。

Η Μάχη των Φαρσάλων Β
ファルサロスの戦い 2


 だからカエサルはその場で策を立てた。左翼は川で塞いで、騎兵を走らせないようにして、騎兵戦は全て右翼に集約させ、秘密兵器を投入する。秘密兵器と言っても、2,000人の重装歩兵だ。ベテランである第三列トリアーリから選りすぐりを抽出する。彼らは騎兵の防壁だ。

Η Μάχη των Φαρσάλων Γ
ファルサロスの戦い 3


 カエサルは、歩兵を包囲殲滅するのではなく、騎兵を包囲殲滅する事を考えた。そうすれば、こちらは敗けない。どうせローマ軍同士の内戦である。同朋はあまり殺したくない。

Η Μάχη των Φαρσάλων  Δ
ファルサロスの戦い 4


 ポンペイウス軍の騎兵隊を指揮するのは、ガリア戦争でカエサルの副将だったラビエヌスだ。お互い手の内は知り尽くしている。だがカエサルは、ラビエヌスが知らない事ができる。

Η Μάχη των Φαρσάλων  Ε
ファルサロスの戦い 5


 
 結果は、大量の捕虜と大量の逃亡者で終わった。逃げたポンペイウスは、アレキサンドリアで殺された。実はカエサルは、遺言書で自分の遺産相続人に、ポンペイウスを指名していた。先に亡くなった娘ユリアの夫でもあったからだ。カエサルにとっては娘婿という事にもなる。
 
 カエサルは、ポンペイウスが大好きだった。
 嘘ではない。本気で号泣している。


Cassius
カッシウス


 
 戦闘前カエサルは、愛人セルウィリアの息子ブルトゥスを絶対殺さないように厳命していた。愛人の頼みだ。戦闘後、ポンペイウス軍に身を投じていたブルトゥスは無事保護された。



Ver Tempestas
春の嵐


 前日の夜、ローマは激しい嵐に見舞われ、カエサルの妻カルプルニアが悪夢にうなされた。
 「ねぇ、あなた、今日は外に出るのは止めましょうよ」
 カエサル最愛の妻カルプルニアは涙ながらに訴えた。
 関係者は協議して一計を案じた。
 「Idus Martiae (イードゥース・マルティアエ=3月15日)に注意せよ」
 腸卜官ウェストリキウス・スプリンナは、カエサルにそう忠告した。だが紀元前44年3月15日、カエサルはポンペイウス劇場に行き、帰り道でスプリンナと会い、こう会話した。
 「……結局、何事もなかったではないか?」
 「まだIdus Martiaeは終わっていない」
 いつになくカラスの群れが多く、見えざる者の視線をカエサルは感じた。暗殺者たちが現われた。ポンペイウス像が見下ろす致命の瞬間、カエサルはギリシャ語で暗殺者を軽蔑した。
 
 「καὶ σὺ τέκνον;」
 (カイ シュ テクノン)
 (息子よ、お前もか?)

 カエサルの愛人セルウィリアの息子、マルクス・ユニウス・ブルトゥスだ。彼の父親はポンペイウスに殺された。後見人カエサルは親しみを込めて、τέκνον(息子)と呼んでいたが、ブルトゥスにとって母親の愛人である。父親代わりに育てられ、恩もあったが、怨恨もあった。

 だから小カトーの娘を嫁にもらった。カエサル憎しで凝り固まった男の娘だ。反カエサルの嫁とカエサル推しの姑の仲は最悪だった。ブルトゥスの親族は愛憎の縮図だった。だからカエサルを殺したが、致命の瞬間、カエサルは明らかに、軽蔑の眼差しをこちらに向けていた。

 カエサル個人との因縁も然る事乍ら、第7代ローマ王タルクィニウス・スペルブスを追放し、初代コンスルに就任したルキウス・ユニウス・ブルトゥスの末裔を自称した。共和主義者だ。

 ブルトゥスという語は、ブルトゥムに由来し、HACHETTE(アシェット)社のLATIN FRANÇAIS辞典ではbete(ベート)とある。獣、つまり馬鹿者という意味だ。ポパイのブルートも同じ流れだが、わざとローマ王に侮られるために、ブルトゥス(馬鹿者)扱いされた。

 このブルトゥス(馬鹿者)が、終身独裁官カエサルを暗殺した。紀元前44年3月15日の夕方だ。以来西洋では、Idus Martiaeは仏滅のような扱いを受ける不吉な日となった。ポンペイウス像の前で、斃れていたカエサルの身体には、23の刺傷があったと言う。護衛はいなかった。
 
 カエサルが己に課した唯一の原則は、自分の考えに忠実である事、ただそれだけだ。それだけに、他者にも同じ事を求めた。だから元老院議員にも、カエサルの身体に危害を加えない事を誓約させた。古代ローマ社会の誓約とは、ステータスが高い者ほど、順守が求められる。
 
 誓約を破る者など考えられない。
 いたとしたら、それはまさにブルトゥス(馬鹿者)だ。

 なおウィリアム・シェイクスピアの『ジュリウス・シーザー』では、ブルトゥスだけが、カエサルに対する憎悪ではなく、共和政に対する愛から、犯行に及んだ真の男と評される。

 「Sic semper tyrannis!」
 (シック センペール テュラニス!)
   (専制者は斯くの如く!)
 
 ブルトゥスがカエサルを刺した時、叫んだ言葉と伝えられる。アメリカのリンカーン大統領が暗殺された時も、同じ台詞が叫ばれた。世界は劇場だ。

 なおシェイクスピアの『ジュリウス・シーザー』では、καὶ σὺ τέκνον;はこうなっている。前半はラテン語、後半は英語だ。
 
 「Et tu, Brute? Then fall, Caesar!」
 (エト テュ ブルート ゼン フォール シーザー)
 (ブルータス、お前もか?もはやここまで!シーザー!)

Caesaris Mortem
カエサルの死


 クレオパトラがローマで、カエサルの死を知った時、すでに二人の間には一人息子のカエサリオンがいた。続きは、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』に委ねる。
 
 カエサルの死は、ローマ中の女たちを泣かせた。無論、古参の兵士たちもだ。セルウィリアの涙も、クレオパトラの涙も、カルプルニアの涙も、ユリアの涙も、全て地中海に溶けて消えた。今から2,000年以上昔の話である。これがユリウス・カエサルと女たちだ。


Quo fata trahunt retrahuntque sequamur.   Vergilius
運命が我らをどこに連れて行き、どこへ引き返そうと、我らは従おう。ウェルギリウス


 
            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺065

ギリシャ・ローマ編 政治家編 1/5

ポータル 大和の心、沖縄特攻


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