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タッタッタの国

わたしの子どもは0歳のときからぬいぐるみが好きである。
しょっちゅうぬいぐるみ達と「タッタッタッタ……」とおしゃべりをしていた。
わたしが人間の言葉で話しかけても微笑むだけなのに、ぬいぐるみになりきって「タッタッタ?」と話しかけると、「タッタッタ!」と会話が弾んだ。
それが楽しくて、絵本はまじめに読み聞かせせずに、ぬいぐるみといっしょに子どもの好きなページを眺めながら、タッタッタの国の言葉で話した。
0歳児とぬいぐるみだけがいる世界へ遊びに行っている気分だった。

そんなふうに、ろくに読み聞かせをせずにいたのに、子どもは少しずつ言葉が話せるようになってきた。
「パパ」「ママ」、鳥を見ると「カーカー」、電車を見ると「カンカンカン(踏切の音)」などなど。
いた、いる、あった、は「いたいたいた!」。わたしは生きものが好きなので、散歩中によそ見をして「ハクセキレイいた」「ツマグロヒョウモンのオスいた」と言ったり、指をさす子どもに「何かいた?」と聞いたりしてるから、「いた」は早く覚えたのかもしれない。

そんな我が子は、もうすぐ2歳になる。なのにまだ歩くのがうまくない。
個人差はあるものの、だいたい1歳ぐらいで歩けるようになるらしい。
みんな必ず受ける1歳半健診では、歩行できるかどうかが大きなチェックポイントとなる。
なので、1歳半のころは、健診や病院によく通っていた。
わたしは、子どもが歩けないことに対して、「病気が隠れていたらどうしよう」といった心配はしていたが、「他の子と比べて遅い」という点ではまったく気にしていなかった。
できることはすごい、できないところはかわいい、と思う親バカなのだ。それに、わたし自身も他人と比べてできないことや遅いことがめっちゃあるけど、自分のことは好きである。

1歳半健診では「つかまらずに立てますか?」など色々と質問され、何度も「できません」と答えた。
「できません」と言いながら、思い出したことがある。
もう10年以上前になるだろうか。好きな異性に告白したときのことだ。
わたしの告白を聞き、相手は何かごにょごにょ話したあと、「〇〇さん(私)のことはなんか傷つけたくないんだよなぁ」と言った。それに対して「傷ついてもいいですけど」と返した。
若かったので、好きな人のことで傷つくのは構わないと思っていたのだ。

しかし、1歳半健診にて「好きな人のことで傷つくのもけっこうキツイ」と思い直すこととなった。
「できません」と言うたびに、子どもといっしょに過ごすときのあたたかい気持ちが、ガリガリとヤスリで削られていくように感じた。
できないことは気にしてないのに、「できません」と口に出して言うたびになぜか傷つく。「こんなにかわいいんだからできなくてもいいじゃん?」と思っていた。

その後、大きい病院で検査をしてもらい、異常は見つからず、「そのうち歩けるようになるでしょう」と言われた。病院に通いつつ半年ほど様子を見続けた今、少しずつ歩けるようになってきた。
子どもの成長は本当にスモールステップだ。
立ちたがる→中腰で1秒立つ→1秒立つ→2〜3秒立つ→1歩踏み出す→2歩踏み出す、といった具合に。
きっと、これらをまとめて「いつのまにか」と言うのだろう。

歩くことと引き換えに、子どもはぬいぐるみ達と「タッタッタ」で話すことはなくなっていった。
タッタッタの国がなくなってしばらくしてから、ふと思い出して、ぬいぐるみを持って「タッタッタ?」と子どもに話しかけてみた。
子どもは近くにあった別のぬいぐるみを掴み、お日さまみたいな笑顔で「いたいたいた!」と言った。

「タッタッタ」って、「いたいたいた」って言ってたの?

このときわたしは、成長が「何かと引き換え」ということはないのだと思えた。
子どもは「タッタッタ」とは言わなくなったけれど、タッタッタの国はなくなってなかった。この先もなくなることはなく、子どもの心の奥底にしまわれるような気がした。

子どもが「いたいたいた!」と言うときは必ずうれしそうだ。
パパいた! ママいた! イエティ(お気に入りのぬいぐるみ)いた! というふうに。
「いたいたいた!」と言われるたび、わたしは子どもの中にあるタッタッタの国と、そこで過ごした日々に思いを馳せる。


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