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空間、音のパーソナルスペースと感覚過敏の話~ヨガ哲学的な解釈

久しぶりに目次付きの長い文を書いてみた。
読みづらいので3回くらいに分けても良いかなと思ったが、たまには思いっきり長いものもありかなと。

HSP傾向のある方や、内向的な方、感覚過敏のある方、エンパス体質の中には、パーソナルスペースを確保できないと苦しくなることで悩んでいる方もおられるのではないだろうか。

私は毎日悩んでいる。

悩んでいる、というか意識せざるを得ない。とても疲れてしまうから。

パーソナルスペースには空間的なもの(視覚)ももちろんあるが、他の五感への刺激によるものも含まれているなと思い、代表として音(聴覚)に関して、また感覚過敏やパーソナルスペースに関してヨガの哲学でどう捉えているかをこの機会にまとめてみることにした。



空間のパーソナルスペース

「動」のぶつかりが怖い

毎日の仕事で業務そのもの以上に、電車に乗ることや駅の人混みの中を歩くことに疲れてしまう。

映画館や劇場のように、他人と距離が近くても静止していればまだ良いものの、複数の人たちが動き続けている駅の人混みなどでは、360度全方角に注意を向け続けながら自分も歩かなくてはならないため、情報過多になってしまい脳が疲れるのだと思う。

気をつけていないと、強い勢いで接触してくる人や、目の前に急に飛び込んでくる人がいる。

それがどうした、と思う方もおられるだろうが、急にパーソナルスペースを侵されることは恐怖でしかない。

意見の対立のような精神的なものであれ、接触のような物理的なものであれ、「ぶつかる」ことが苦手で逃げ続けてきた。

そのせいで問題をよりこじらせたり長期化させたりしたことも思い当たるが、とにかく「ぶつかる」ことは最大限避けたい。

そのようなわけでただ道を歩いていても、向こうから通行人が来ると端によけたり、立ち止まって道を譲ることにしている。

それでも道で人とすれ違う時は一瞬パーソナルスペースを侵されるため、いつも緊張がはしる。

特に相手がよけない時、高速で歩いてくる時は嫌だなと思う。

すれ違いざまに「ぶつかる」のが怖いからだ。

子どもの頃から「どいて」と言えない。

他人が自分の進路を塞いでいる時に、その人に動いてもらうことが苦手で自分が迂回してしまう。

これも「ぶつかる」ことの回避であるが、自分のパーソナルスペースを侵害されるのが嫌なのと同様に他人のパーソナルスペースに入り込むのも苦手なのである。


「静」の空間で隣に来る人たち~「トナラ―」について

「動」と「動」の物理的な接触以外にも、カフェやレストランなどで休憩する時に、隣の席と距離が近い店や、グループ客が多く、1人でいる客が少ない店は苦手なので避けている。

だが、せっかく少し単価の高めな席のゆったりしたお店に行っても、他にたくさん空いている席があるのにわざわざ隣に来る他の客がいたりする。

俗に言う「トナラー」という人たちだろうか。

トナラーは、すぐに人の隣の位置に来るような人のこと。電車バス駐車場映画館サウナトイレなどでトナラーが見られる。トナラーは、他の場所が多く空いているにもかかわらず、すでに誰かがいる場所の隣にわざわざ位置取る。
トナラーとなる要因は様々であり、セクハラをするような者や、心理的な問題でこのようになっている者などがいる。人間というのは自分のテリトリーであると思うパーソナルスペースという空間があり、トナラーが隣にいる場合パーソナルスペースが侵されて不快に感じることになる。トナラーはパーソナルスペースに無頓着なため、空いている空間であっても他の人の隣になるということを気にしていない。

ウィキペディアから抜粋

電車でもそのような人が結構多い。

空いているのに、わざわざ座っている私の前に立つ人とか、謎。

私になにも危害を加えようと思っていないことは分かる。
セクハラでないことも分かる。

無意識、無自覚に人がいるかどうか気にしないで席を選んでいるのだろう。

「トナラー」には、中高年の男性が多いが、20代くらいの若い女性にも結構いる。

窮屈に感じて残念だと思ってしまうが、このタイプの人たちの心理に興味もある。

人が真横にいても気にしない、パーソナルスペースを意識しないメンタルの強さからはなにか学べることがあるかもしれない。


「物」の距離

都会によくある光景だが、ビルとビルの隙間がほぼなく、スペースが少ない場所が苦手だ。

空が狭い。

歩いていても圧迫感があり、早く帰りたくなる。

そのため、職場や趣味の場があり、ほとんどの友人たちは都内にいるのに、私は少し郊外の空間にゆとりのある地域で暮らしている。

もちろん生活費が安いことも理由だが、収入が10倍になっても都内に住まないかもしれない。

むしろ、今よりもっと人口密度の低い場所に引っ越したいくらいだ。

現実的に考えると難しいが、ポツンと一軒家のような場所に憧れる。


古い建物で時々見るような、膝が壁やドアに当たる狭いお手洗いも苦手だ。

壁やドアに身体が物理的に接触するのがメンタル的にキツい。

少し閉所恐怖症なのかもしれない。


飛ぶ虫が苦手なのも同じ理由かもしれない。

蛾とか蝶とか蝉とかトンボとか無理。

突然自分のパーソナルスペースに異物が侵入するという恐怖に耐えられないのだろう。


音のパーソナルスペース


「最大の贅沢」である静寂を壊す、声の大きい人


音に関してもパーソナルスペースというものがあると思う。

私は基本的に他人の出す音がすべて苦手だ。

自分の耳や聴覚という個人的な空間に、異物が侵入するのが苦しい。

聞こえてくる聴覚的刺激に情報過多になり脳が疲れるし、耳がキーンと痛む。

静寂は最大の贅沢だと思っている。

だから自宅でゆっくりする時間が不可欠なのであるが、社会生活を送るにはそのようなことを言っていられない。

耳に響かない程度の小さな音や、遠くから聞こえる音は我慢できるが、急に大きな音を出されたり、長時間それが続くと非常に辛い。

また、人の話し声も近いとかなり不快だ。

低いトーンで落ち着いて話しているなら気にならないが、必要以上に大きな声を出してキンキン話す人、話し相手が目の前にいるのに必要以上に声を張って話す人が苦手だ。

ただ、この人たちからも「トナラー」と同様、学ぶことが多いかもしれない。

私と違ってコミュニケーションに自信があるのかなと思う。

同じ空間にいる全員が自分の話を喜んで聞く、と思えるほどの自己肯定感があるのかなとも思う。

自己顕示欲が強いのかもしれないし、単に耳が遠い場合もあるかもしれない。

いずれにせよ、せっかく入ったカフェなどで隣にこのタイプの人たちが来ると、やろうと思っていた作業や考え事ができないし、電車でも昼寝や勉強ができない。

だから休憩の場は慎重に選ぶ。

私が仕事の合間によく行く飲食店たちは静かな1人客か、落ち着いて話す人が多い場所ばかりだ。


「カクテルパーティー効果」なし

また、複数の会話が同時に平行して聞こえる空間も苦手だ。

私はカクテルパーティー効果を持たないタイプらしい。

カクテルパーティー効果(カクテルパーティーこうか、英語: cocktail-party effect[1])とは、音声の選択的聴取 (selective listening to speech)[2]のことで、選択的注意 (selective attention) の代表例である。

カクテルパーティーのように、たくさんの人がそれぞれに雑談しているなかでも、自分が興味のある人の会話、自分の名前などは、自然と聞き取ることができる。このように、人間は処理して必要な情報だけを再構築していると考えられる。この機能は音源の位置、音源毎に異なる声の基本周波数の差があることによって達成されると考えられる。つまり、このような音源位置の差や基本周波数の差をなくした状態で、複数の人の音声を呈示すると、聞き取りは非常に難しくなる。

ウィキペディアから抜粋

複数に声が重なっていると、自分が聞くべき声が聞こえずに会話が出来ない。

これで仕事中とても困っている。
特に、オンラインでの会話で相手のいる場所が賑やかだとほぼ聞き取れなくなくなってしまうし非常に疲れる。

同僚たちに聞いてみてもみんな平気そうだから、本当に私がおかしいのだと思う。

おしゃれなレストランなどに行ってもこの現象に悩まされる。せっかく友達とゆっくり話せると思っても、周りの会話と友達の声が混ざってしまい、話が追えなくなる。

食事中に声を張り上げて会話するのもしんどい。

だから、なるべく可能な時は個室のあるお店にしてもらう。それか、あまり人のいない中途半端な時間を狙って行く。

人の声以外での雑音や特定の音が気になってしまう聴覚過敏の症状も、このカクテルパーティー効果が効かないことと関係があるかもしれない。

一般的には気にならない音が、私の耳には入って来るのだ。

「今、なんの時間?」というタイミングはトラウマを刺激する

また、同じ空間に複数の会話が重なっている状況は学生時代を思い出すから辛い。

授業と授業の先生が来るまでの間など、「今、なんの時間?」というタイミングが苦手だった。

わちゃわちゃと幾つかのグループが無秩序にそれぞれ話したり笑ったりしている。

友達が休んだ時など、教室で話す人がおらず、ぽつんとなるべく目立たないように座っていた記憶。

当時感じた疎外感を、みぞおちの痛みと共に今でも生々しく思い出してしまう。

誰にも迷惑をかけていないのに、机や椅子を蹴られたりする。

この空間に存在してごめんなさいという気持ち。

さっさとすべきことを終えて帰りたかった。

パーソナルスペースどころか、人権すら侵害されているように感じる状況だ。

余談であるが、今は通信制の高校など充実していてこのような時間を過ごさずに済む選択もあり、良い時代になったなと思う。


ヨガ哲学で感覚過敏を分析する

感覚制御の訓練

ヨガ哲学の1つである「八支則」の5段階目の項目に、感覚を制御する「プラティヤハーラ」というトレーニングがある。

聖典である「ヨーガ・スートラ」には、

心を超越することがヨーガの目的なのである。
ヨーギーの最初の仕事は「心を対象から引き離すこと」なのである。

「八段階のヨーガ」スワミ・チダーナンダ
から抜粋

とある。

言い換えると、自分自身の感覚器官が外側に向かないように内側に向けていくことであり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のような感覚から受ける外界の刺激に反応せず、心を動かさないようにする、という考え方だ。

五感の感覚と心の反応を分けて考え、いちいち反応せずありのままを感じることが出来れば穏やかでいられるということ。

また、ウパニシャッド哲学やインドの叙事詩の一部である「バガヴァッド・ギーター」の考え方にも似たようなものがあり、どちらも馬車を使ったたとえ話が有名である。

とても単純化すると、五感のように暴れ回るものが馬であり、それを操るのが御者であるように、自ら感覚器官を制御しましょうという話である。

エネルギーの侵食

上記にような考え方を頭では理解していても、どうしても感覚制御が難しく、HSPが改善しないし、空間や音のパーソナルスペースを侵害されることが苦手で日々辛い、ということをヨガや哲学の先生に相談してみたことがある。

複数の先生に違う時期に相談したのだが、本質的には同じ答えが返ってきた。

それは、エネルギーの流れを侵食されるのが苦手なのではないか、ということだ。
周りのエネルギーの影響を受けやすいタイプだから、無理に苦手を克服しようと努力する必要はなく、過敏なことは自分を守るための防御反応だから、感じた不快感を認め、否定しなくて良い。

というような内容だった。

確かにそうだ。
パーソナルスペースに物体や音が侵入してくる時は、その物体や音のエネルギーによって私のエネルギーが侵食されている。

大きな音や声、勢いのある動きをする物体が苦手なのは、その強いエネルギーに自分の弱いエネルギーが負けてしまう、あるいは吸い取られてしまうからかもしれない。

それにじっと耐える時間が長いから、外に出ている時はただの移動でも刺激が多く、ぐったり疲れるのだろうと納得した。

鍼の先生などにはいつも「気虚」だと言われる。気が虚している。
つまり、エネルギーがそもそも足りない。
あるいは、エネルギーを使いすぎなのかもしれない。

やはり、じっとしてエネルギーを蓄える「陰」の時間をちゃんと取っていこう。
罪悪感を感じずに1人になれる環境と空間を大切にしようと思う。

瞑想をしたり、呼吸に集中していると気にならない瞬間もあるので、まだまだ精進を続ける必要もあるなと思う。



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