人は変わるもの~本当の自分を探し求めて
本当の自分とはなにか、幼いころからずっと考え続けてきた。
ヨガ哲学を学ぶ目的の1つが、そのテーマについて考えるためである。
現在は知識として、長年1人で考えてきたそのテーマの「結論」や「答え」を知っているが、その「模範解答」に辿り着くまでの「途中式」はまだ完全には書けない。
人生で探求したいテーマの1つがこの「途中式」である。ゆっくり一歩一歩深めていき、自分なりの「式」を見つけていきたい。
そのためにも毎日の生活を大切に重ねていきたい。
時に人は、自分や他人のイメージに関して、固定された考え方をすることがある。
映画やマンガの「キャラ」のように単純化して。
○○系みたいなラベルを貼ることにより、分類することもある。
未知な人物を理解するための情報の一部としては、それは確かに有効である。
私も、HSPやINFJ、kapha体質だの水瓶座だの、血液型はB型だの、五行だと木の体質だの、色々な表現を自身に使い、相手に私という人間の人物像や体質、性質をイメージしやすくしている。
特性を単純化して理解を促すことは、入り口としては適切だと思う。
だが、それに囚われすぎて、その性質との矛盾や変化に罪悪感を感じるのは話が別だ。
数年ぶりに会う人などに、「変わったね」と言われると、なんだか悪いことでもしたのかなと思う。
特に振る舞いにおいて、一貫性があることは良いこともあるが、それは同時に成長や学びの欠落も意味することがある。
ある知り合いは、前回会った数年前の固定されたイメージでのみ、私を認識していた。
その人の人生に色々な出来事があり、その人自身が変化したのと同様、私の人生にも色々な出来事があり、私も変化した、ということを受け入れられなかったようだ。
その人が「期待していた私の姿」が消えていたことに、その知り合いは怒りさえ示す雰囲気を出していた。
私はその違和感をすぐに察知して、場の空気を清浄するため、数年前寄りの自分に言動を微調整してしまった。それが正しいとは思わないが。
(↑INFJっぽい)
変化することへの罪悪感は、もともと母親から与えられたものなのかもしれない。
自我がまだ育つ前の子どもの頃は、母親の選んだ服を着て、母親に影響された考え方で動き、母親の望む振る舞いをした。
成長すると共に、自分の選んだ服を着て、自分の考え方で動き、自分の望む振る舞いをすると、
毎日のように「なんでそうなっちゃったの?」「どこで道を間違えたの?」「どうしてそっちの道に行ってしまったの?」などと言われるようになった。
別に私はそんなに奇抜な服を着ていたわけでも、人を殺したわけでもない。
ただ、母親のイメージしていた幼少期の私とは違うというだけである。
成長することが悪いことのように感じた。
生きていれば色々なことがある。
本を読んだり他人の考えに触れるとそこから新しい世界が広がる。
周りの環境が変わることもある。
経験した出来事によって学びを得て、それが日々の行動に影響をもたらすこともある。
それによって人間が変わらないままでいることは可能であるだろうか。
歳を取ると容姿が変わる。
シワやシミができたり、太ったり痩せたりする。
身体的な変化と同様に、心にも変化が起きるのは自然なこと。
それは、他人が批判することではない。
身体や心は本当の自分ではない。
唯一変わらないのはその人の本質的な魂だけである。
そしてそれは、宇宙の根本原理と同じものであり、なにかを足しても引いてもやはり、完全な状態なのである。
それに「完全ではない」という思い込みで制限をかけて生きていくことは、なんと勿体ないことなのではないだろうか。
身体が魂の入れ物(容器)にすぎないのと同様、私たちの考え方や心も本質的な魂から見たらただの表層なのである。
目の前ある一瞬一瞬は大切にしていきたいが、存在としては「この瞬間の姿」だけにとらわれず、本質を探していくことで真実(本当の自分)に目を向けていきたい。
写真は2018年に1人で訪れた、カリブ海、プエルトリコの海で見つけた遺跡