【共感覚的読書メモ】不安のありか

今回の記事は、本から音を聞く私の、共感覚的な表現で感想を書くので、この記事に目を止めてくださった読者の方には、あまり意味が通じないだろうし、役にも立たないと思うので、最初に謝っておく。ごめんなさい🙏

というか、私が、他人さまの役に立てるような文献レビューを書くことは今後もないだろう。文献レビューほど難しい作業はないと思っている。ある本を読んで何を思ったか、は単なる感想文だし、本に何が書かれていたかを要約した文章は、ゼミのレジュメに添付する資料のひとつに過ぎず、レポートですらない。「文献レビュー」とは、読んだ人が、対象の本をまだ一文字も読んでもいないにも関わらず、その本の内容や重要性が理解でき、自分も読んでみたいと思えるような文章だ。価値ある文献レビューを書けるほど、私は頭も良くないし知識も足りていない。

大学院生のとき、文献レビューに関して、指導教官から「手に取った石が、何色で、どんな形で、どのくらいの重みで、どこに転がっていた石なのか、ほかの石との違いは何で、何故その石がまじまじと鑑賞するに値するのか、が、分かるように書くのが、文献レビュー。他人が書いた本を、作者自身も気づいてないような視点からも説明ができ、作者からさえも感心されるようであればなお良い。その上で、文献レビューを踏み台にして、さらに自分の論を発展させるように」と指導を受けたが、何年経っても、私は、文献レビューを書くのに四苦八苦した。

だから、これから書くのは、(文献レビューを書きたいくらいの良書だけど、今の私には到底書けないので)「共感覚的感想文」の立ち位置から、自己洞察につながる箇所のみメモとして記録する記事だ。

『不安のありか』(平島奈津子、日本評論社、2019)を読んでいる。

読んでいる途中で、作者の精神科医の先生が、私の精神分析家の先生と似た立場で臨床に当たられていることを知り、「なるほど、先生の本と音の速さが似ているのは、そういう背景があったのか」と納得ができた。

村上春樹の本と似た音の速さ(というより遅さ)だ。さざなみの立たない静かな湖のように、でもたしかに川の流れのように、本の曲が進んでいく。歩みはこんなにゆっくりでもいいんだ、とほっとする。幼少期の私が、自分自身から聞いていた音は、このように、静かでゆっくりであったと思う。でも、小学校に入学してから私を取り巻いた音はもっと速かった。あまりに速過ぎた。今の私は、もう学校教育に属していないから、このくらいゆっくりの音で生きることを、自分に許容したい、と思う。

不安、恐怖、怒り、心細さ、など、繊細な心の動きが言語化されていて、人から聞こえる「揺らぐ音」に語彙が与えられたように感じた。トラウマの心的防衛機能についての本を読んだときも感じたことだけど、ひとの心を丁寧に紐解いていくと、一見して理解不能な身体症状も、実は理にかなった、物理の法則にのっとったような、整合性を持っていることが、理解できるものだなあ、と感動した。この本を半分ほど読んで、浜辺で波打ち際を見つめているようだと思った。押しては引き、ひいては押し、を繰り返し、波は行ったり来たりする。荒ぶる波、岩に砕け散るような波、津波のように何もかもを飲み込むような波もあれば、静かでさざ波のような波もある。人から聞こえる「揺らぎの音」は、絶えず揺れ動いて、あまりに強く激しい音(怒りや悲しみ)に関して私は圧倒されて疲れてしまうのだけど、その音に、頭で理解可能な説明が与えられたように感じて、助かった、と思った。知識を得ることで、私は、人から聞こえる音に圧倒される場面を減らすことができそうな気がする。

正確な情報は不安を軽減させる作用がある(p.29)
ユーモアはストレスに対する強力な武器になる(p.23)

の二文が、自己理解に役立った。

私にとって知識は防具だ。交代人格のひとりに、「冷静で分析的、なにが起きているか教えて、私を落ち着かせてくれるひと」が居たが、彼女は常に、本を読んでいた。本を読み、知識を蓄え、自分自身の置かれた場所を観察、記録し、分析し、ほかの交代人格たちに説明してくれる存在だった。彼女が彼女のみで出てくることはなかった。いつも、一歩後ろで、私自身を観察し、記録し、伝えてくれるひとだった。

彼女はなにも言わず、統合されゆく姿さえ見せず、溶けていったけれど、もちろん、彼女も、私自身だったのだ。

それで、どうしてこうも知識を必要とするのか。それも、できるだけ信頼のおける正確な情報を必要とするのか、吟味するのか、知識を持つことで自分を安心させようとするのか、その理由が分かった。

私は、不安だったのだ。

私の心は、とても繊細で、傷つきやすい。悲しんだひとを目前にすると、自分まで悲しくなってしまう上に、なんで自分が悲しいか、理解ができなかった。自分と他人との境界線の無さ、自我脆弱性に気がついた今だから分かるのだけど、「どこまでが自分で、どこからが他人か、見分けがつかない」状態なのだ。

小学校からの帰り道、自分が何故悲しいのか、怒っているのか、悔しいのか、分からなかった。とぼとぼ歩きながら、なんでだなんでだ、と考えていた。なにかそれっぽい理由をなんとか探しては、きっとこのせいだ、と結論づけて、よかったよかった、と胸を撫で下ろしていたけれど、あのときの感情は、だれか、私以外の感情を共鳴させていたのだろう。

人の感情は揺らぐし、小学校にはたくさんの人がいる。その音を拾い上げ、たくさん異なる音を反響させていたら、私自身は不安定にならざるを得なかっただろう。

不安だった。

自分自身が、何に、不安だったのかを知ろうとすることは、トラウマケアに役立ちそうだ。

ユーモアの救済性。これに関しては、いつか別の記事を設けた方が良さそうだけど、大学院で長らく「笑い」をテーマに研究を進めていたのは、まさに、「笑い」「ユーモア」が持つ、救済力に自分自身が支えられてきたからだし、「笑い」が人間存在に与える深みを少しでも言語化してみたい、という思いが強かったからだろう、と納得がいった。






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