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第参話 信玄堤 【独裁者・武田信玄(無料歴史小説) 第壱章 独裁者への階段】

武田晴信の側近の一人に、高坂昌信こうさかまさのぶという男がいた。

武田家中かちゅうでも特に有能な家臣として有名であり……
後に信濃国しなののくに海津城かいずじょう[現在の長野市]を預かって越後国えちごのくに[現在の新潟県]の軍神ぐんしん上杉謙信うえすぎけんしんから善光寺平ぜんこうじだいら[現在の長野盆地]を守り切った名将だ。

晴信と昌信で最初に取り掛かったのが、甲斐国かいのくに[現在の山梨県]の人々を苦しめていた『洪水』の対策であった。
「昌信よ。
民は何百年も洪水と戦ってきた。
高くて頑丈な堤防を築いても、数十年に一度の大雨が降ると必ず決壊してしまう……
これをひたすら繰り返していたのじゃ」

「民は、もう諦めているようですな。
現実から目をらし、こんな的外まとはずれなことを申していました。
『自然は神である。
人が神に対して無力なように、人は自然の猛威もういに対して無力なのだ。
自然という神をあがめよ』
などと」

「は?
自然は神だと?
洪水と戦うのを諦めた挙句あげく、頭まで馬鹿になったか」

「崇める者にも、崇めない者にも、ときに自然は容赦なく襲い掛かって来ますからな。
そんな『意思』のない存在が、どうして神であると考えるのか……」

「もし自然が神であるのならば……
神は、意思のある人より『おとった』存在になってしまうぞ?」

「確かに」
「民は、おのれの頭で『筋道すじみち』を立てて考えることすらおこたっているのか?」

「自然は不可思議で恐ろしい面もありますが、神秘的で素晴らしい面もあります。
神のような存在だと思い込んでしまうのかもしれません」

短絡的たんらくてきな思考だな。
ひたすら同じいとなみを繰り返す意思のない存在を神だと思い込むよりも……
『自然を造られし御方こそが神である』
こう考える方が、はるかに筋道が通っているではないか」

「つまり……
自然を造りし御方を崇めるべきであり、造られたモノを崇めるのは筋違いだと?

「当たり前じゃ」
「そもそも……
『自然という神を崇めよ』
こう申す者たちが、自然という神をまことに崇めているかは大いに疑問ですな。
洪水のないこと、豊作などの自然の恵み、銭[お金]の稼ぎなどを願うばかりです」

「結局のところ。
人がおのれの利益のために、都合の良い、存在もしない神を生み出したのよ。
そんなモノをあがたてまつって何の意味がある?
馬鹿馬鹿しいにも程があるぞ!」

「民が無意識に守っている『風習ふうしゅう[しきたりのこと]』も同じ……
それで利益を得る者たちの既得権益きとくけんえきのために存在しています」

まことにお目出度めでたい話だがな……
民は皆、利用され、あやつられ、だまされ、あざむかれていることに気付いてさえいない。
まるで誰かの奴隷になったかのように無意味な時間と無駄な銭[お金]をささげながら、そのくせおのれが『自由』に選んでいるなどと思い込んでいる」

「まさしく……」
「そんな暇があるなら、もっとおのれの頭を使え!
どうやって洪水の被害を最小限にするか、これに時間と銭[お金]を費やすべきであろうが

「それが最も大事なことですな」

 ◇

「今までと同じく……
単に堤防を築くだけではいかんのじゃ。
数十年に一度の大雨で必ず決壊してしまうのだからな」

「晴信様。
それがし……
民の話を聞いていて、もう一つ疑問に感じたことがあります」

「何を疑問に?」
洪水の原因を、徹底的に調べていないのではないかと

「確かにその通りじゃ。
いつ洪水が起こり、どこが決壊し、どこが水に浸かったかなどの『現象』の話ばかりだな」

「原因を徹底的に調べたという話が全くありません。
大雨だから洪水になる、その程度です」

「うむ」
「晴信様。
今度ですが……
洪水の原因を徹底的に調べるという視点で、被害の大きかった場所を中心に回るのはいかがでしょう?」

「それは良い!
そうしよう」

 ◇

晴信と昌信が向かったのは……
甲斐国を北から南へ流れる釜無川かまなしがわである。

南アルプスを源流とし、現在の長野県、山梨県を経て静岡県に至っている。
山梨県では釜無川という名前だが、静岡県に至ると富士川ふじかわという名前に変わる。

東海道新幹線に乗っていると……
富士川を渡る橋から見える富士山が絶景なのをご存知の方は多いだろう。
その渡っている川の上流こそが、釜無川だ。

「昌信よ。
単純な話として……
洪水となる原因は、川を流れる水の量が多過ぎるからであろう?」

「そうですな。
水の量が多過ぎた結果として、川から水があふれて洪水になる……」

「では、なぜ水の量が多くなるのか?」
「それも単純な話ですが……
数十年に一度の大雨が降ったから、でしょうか」

「歩いてみて気付いたのだが。
大雨だけが『原因』ではなさそうだぞ」

「他にも原因があると?」
この釜無川には、いくつもの川が合流してくるではないか

「あ、確かに!」

 ◇

晴信は、合流してくる川の中で一つの川に注目した。

「昌信よ。
この川だが……
名前を知っているか?」

御勅使川みだいがわですな」
「その名前、『妙』だと思わんか?」

「妙……?」
「『勅使ちょくし』という言葉が含まれているではないか」

「確かに妙ですな。
勅使とは、京の都におわすみかど[天皇のこと]から遣わされた使者のことを指す言葉です。
釜無川に合流する川の一つに、なぜこの名前が……?」

「このあたりに住む民に聞いてみよう」
「はっ」

晴信の着眼で貴重な手掛かりを得ることができた。
御勅使川みだいがわの名は、確かに勅使ちょくしに由来していた。

数百年前のこと……
この川は大雨で洪水を起こし、凄まじい被害を出したようだ。
あまりの被害の大きさに京の都にいる天皇すら驚いたという。

「それほどの洪水を起こすとは、一体どんな川なのか?
見て調べて参れ」
天皇がこう命じるほどのあばがわという意味で、この名前が付けられたのだ。

「晴信様。
帝が使者を遣わすほどの暴れ川が釜無川へ合流することが、洪水の一番の原因になるのでしょうか?

「その通りじゃ!
大雨が降ると、御勅使川みだいがわの水が一気に釜無川かまなしがわへと襲い掛かる。
ただ大雨によって釜無川自身も増水していよう?
当然ながら釜無川は、御勅使川の水を受け入れることはできない……」

「すると御勅使川の水は、釜無川を乗り越えて反対側に一気に流れることになります。
まさに鉄砲水てっぽうみずでしょう。
大量の水がまるで津波のように、さらに鉄砲のような凄まじい早さで襲って来るのです。
人の作った堤防など一気に粉砕されます」

「うむ。
ならば……
『人』の作ったモノに頼ることを止めようではないか」

「え?
それはどういう意味で……?」

自然を造りし御方に頼れば良い
わしは今、それを探している」

しばらくすると……
晴信は、あるものを見付けて叫ぶ。

「昌信、見付けたぞ!
あれじゃ!
あれこそが、堤防じゃ!」

「おお!
このがけのことでしたか。
何と、見事に高くて頑丈がんじょうな壁!
人に斯様かようなものは作れません。
自然を造りし御方こそがせるわざですぞ!
晴信様!」

2人はまるで、子供のようなはしゃぎようであった。

 ◇

晴信が見付けた、高くて頑丈な壁。

これは竜王りゅうおう高岩たかいわと呼ぶ。
20~30メートルの高さがある天然の岩盤がんばんでできた崖のことである。
岩盤である以上、人が作った堤防よりはるかに頑丈なのは間違いない。

「晴信様。
御勅使川みだいがわの水を、この崖にぶつけるのでございますな?」

「そうじゃ。
御勅使川の流れそのものを変え、この崖にぶつけるのじゃ

「よく見たところ……
この崖は硬い岩石がんせきでできているようです。
御勅使川の鉄砲水も、この崖を打ち砕くことなどできますまい」

「うむ。
これで、洪水の被害を最小限にできるぞ!」

「晴信様……
見事な観察眼にございます!
それがし、改めて殿に感服致かんぷくいたしました」

「昌信よ。
喜ぶには、まだ早い。
御勅使川の流れそのものを変えるとなると、莫大な銭[お金]がかかるはず。
それにこの崖は広さが足りんようじゃ。
下流側は、堤防を築いて足りない部分を補う必要があるだろう」

「御勅使川の鉄砲水が『直接』当たらない場所ならば……
人の作った堤防でも十分に持ちこたえられましょう。
やはり、問題は銭[お金]かもしれません」

「急ぎ帰って、この工事にかかる費用を計算しようではないか」
「かしこまりました」

かくして……
川の流れそのものを変えるという、前代未聞ぜんだいみもんの治水工事が決まったのである。

 ◇

数十年後。

治水工事が完了すると……
甲斐国の民は、工事を主導した者を『名君』とたたえた。

数百年の時が過ぎた現代においても……
地元の人々は敬意を込めて『信玄堤しんげんづつみ』と呼んでいる。

ただし。
工事には莫大なお金がかかったはずだ。
川の流れそのものを変える工事なのだから。

【次話予告 第四話 湧き上がる憎悪】
川の流れそのものを変える工事には、莫大なお金が掛かります。
最初に費用を計算したときは何とかなるはずでしたが……
いざ工事を始めてみると、とんでもないお金が工事とは別に必要となってしまったのです。

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