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第十話 人々の崇敬の対象を討つ狡猾な手段 【独裁者・武田信玄(無料歴史小説) 第壱章 独裁者への階段】
武田晴信は、妹婿を殺すと決めていた。
妹婿の諏訪頼重が治める諏訪郡[現在の諏訪市、岡谷市、茅野市など]が、信濃国の入口に当たるからだ。
諏訪郡を通らずして信濃国の侵略などできない。
諏訪家は代々に亘って信濃国に住んでおり、故郷への深い愛着がある。
いくら義理の兄が率いる軍勢であるとはいえ……
故郷への侵略行為を黙って見過ごすことなど有り得ない。
武器商人の質問に対し、晴信はこう答えていた。
「諏訪家が、故郷への侵略行為を見過すはずがあるまい。
妨害するに決まっている」
最後にこう断言した。
「心配無用じゃ。
妹婿にして、当主である頼重には……
死んでもらうのだからな」
と。
◇
その前に。
晴信は、最初から妹婿を殺すと決めていたわけではなかった。
治水工事のお金が尽きたとき、妹婿に『援助』を求めたことは想像に難くない。
同盟相手で義理の弟ならば当然だろう。
義兄の要請を受けた頼重は、こう考えていた。
「銭[お金]が尽きてしまった原因……
それは、晴信自身にあったのではないか?
もっと『丁寧』に根気強く民に説明すれば、民が余計な保障まで求めることはなかったはず。
もっと『丁寧』に根気強く一族や家臣に説明すれば、彼らも協力したはず。
そもそも。
効果があるか分からない事業よりも、まずは身近な一族や家臣の利益のために銭を費やすべきであろう」
と。
「利益をもたらさない大名に、一族や家臣たちは従わない」
これは戦国乱世の『常識』である。
晴信は……
さぞかし非常識で、協調性のない人間だと思われていたに違いない。
◇
武田家と諏訪家の同盟は完全に破綻した。
頼重が全く援助せず、両者の関係が冷え切ったのもある。
それよりも……
晴信の侵略計画が漏れたことが決め手となった。
「工事に費やした銭[お金]を返すために、この国を侵略する必要があるだと?
奴は気でも狂ったのか?
なぜ甲斐国の民のために、我ら信濃国の民が犠牲にならねばならんのじゃ。
あんな非常識な奴と手を組んでいられるかっ!」
「頼重は、わしと縁を切る気なのか。
ならば良い。
『他人』ならば騙し討ちにしても問題はなかろう」
晴信は、義弟への謀略を巡らせ始めた。
◇
諏訪郡にある諏訪大社。
長い歴史を誇り、日本中の人々から崇敬の対象となってきた諏訪神社の総本山である。
ここで諏訪家は、神主の次の地位に当たる大祝という要職に就いていた。
「諏訪家を討つことは、あの諏訪大社を討つことと何ら違いがない!
特に崇敬の念が深い諏訪の民は……
わしに轟々たる非難を浴びせるだろう」
晴信が一番気にしていたのは、これである。
悩んだ末に、晴信は『狡猾』な手段を思い付く。
諏訪家と同族の、伊那谷[現在の伊那市、駒ケ根市など]を治める高遠家を利用することだ。
両者は身内にも関わらず非常に険悪な間柄であった。
高遠家に対してこのような手紙を送る。
「神聖なる諏訪大社の大祝という地位は、諏訪家よりも高遠家の方が相応しいのでは?
もし立ち上がられるのなら……
我らは全面的な協力を約束する」
と。
返事はすぐに来た。
「我が高遠家は、ずっと諏訪家の風下に甘んじてきた。
この屈辱を晴らす機会を設けて頂けるとは……
真に有り難い」
両者は密約を結んだ。
◇
それから間もなく。
諏訪家に、高遠軍が出陣したとの報せが入った。
高遠城[現在の高遠町]を出て『北』から諏訪家の本拠地・上原城[現在の諏訪市]へ向かって進軍中とのことであった。
「高遠め!
格下の分際で我らに弓を引くとは生意気な!
どちらが上なのか戦場ではっきりさせてやる」
晴信の妹婿・頼重は直ちに高遠軍の倍の人数を集め、迎撃のために北へと出陣した。
そして。
諏訪軍と高遠軍が接触する、まさにその瞬間!
驚愕の知らせが飛び込んで来る。
「頼重様!
一大事にございます!」
「何事ぞ?」
「た、武田軍が……
『南』から疾風の如き早さで上原城に迫っていると」
「何っ!?
武田軍が?」
突然の武田軍来襲に、頼重の思考は停止した。
「おのれ晴信!
わしを挟み撃ちの『罠』に嵌めるとは卑怯な!」
「頼重様。
目の前には高遠軍がおります。
引き返せば、追撃して来るに違いありません。
いかがなさいますか?」
「いかがなさいますか、と聞かれても……
分からんわ。
とにかく軍議の支度じゃ!」
こうして。
頼重は貴重な時間を『浪費』した。
軍議で一族や家臣たちと相談している間に、本拠地の上原城が武田軍に占拠されてしまったのだ!
諏訪軍の兵たちの士気は落ち、軍の体を成さなくなった。
晴信はすかさず勧告を出す。
「降伏なされよ。
頼重殿を始め、一族や家臣たちの命は必ず守ると約束しよう。
拒否すれば武田軍は直ちに攻撃を開始するぞ」
と。
頼重は、身近な一族や家臣たちを守るために降伏したが……
これもまた『罠』であった。
二重の罠に、まんまと嵌まってしまった。
◇
晴信の弟・信繁は……
この流れを全て予測していたらしい。
「頼重殿は、何事も判断が『遅い』と聞きましたが。
兄上はご存知で?」
「うむ」
「ならば……
それを『利用』して、頼重殿を罠に嵌めれば良いかと」
「利用?
どう利用するのじゃ?」
「北から来る高遠軍と接触した瞬間に、南から武田軍が疾風の如く迫っていることを知れば……
たちまち思考停止に陥るのでは?
協調性を重んじる性格が災いし、一族や家臣たちと相談して貴重な時間を浪費するはず」
「なるほど!
その間にさっさと上原城を占拠すれば良いのか」
「本拠地を奪われた兵の士気は落ち、軍の体を成さなくなるでしょう。
そこで兄上が降伏勧告を出せば……」
「頼重は、一族や家臣たちを守るために降伏せざるを得ないと!
弟よ。
見事な作戦ぞ!
ただ、一つ聞いてみたいことがあるのだが?」
「何なりと」
「もし。
そなたが頼重であれば、どうする?」
「それがしが諏訪軍を率いていたら……
どうするかを聞きたいと?」
「うむ」
「目の前の高遠軍を放置し、疾風の如く引き返して武田軍を叩きます」
「ば、馬鹿な!
目の前の高遠軍を『放置』するだと?」
「はい」
「引き返すために背を向けた途端、背後から追撃されて壊滅するではないか」
「『常識』という壁に囚われてはなりません。
高遠軍の追撃は、絶対にないのですから」
「追撃は、絶対にない!?
それは真か?」
「理由は2つ。
1つ目は……
目の前の敵を放置するなど、非常識極まりない行為でしょう?
だからこそ高遠軍は混乱し警戒するのです。
『これは、罠ではないか?』
と」
「罠でないことが分かるまで迂闊に動けないと?」
「はい」
「それで、2つ目は?」
「高遠家と諏訪家が『身内』であることです」
「ん?
ああ、そういうことか!
苛烈な追撃で敵を皆殺しにするような残酷な行為は、あくまで他人だから出来るのであって……
身内にはそこまでできないのか」
「はい。
身内の『情』が災いして、苛烈な追撃などできません」
「目の前の高遠軍を放置しても問題ないことは分かったが……
疾風の如く引き返したところで、武田軍を叩くことが出来るのか?」
「これも簡単なこと。
武田軍は、諏訪軍が引き返して来るなど夢にも思っていないではありませんか。
凄まじい早さで向かってくる諏訪軍を見て驚愕し、浮足立つこと間違いなし」
「その『好機』を逃さず、全軍で火の玉となって突撃するのか!
弟よ。
そなたの慧眼は見事と申す他ないぞ……」
「兄上。
協調性にこだわり、常識に縛られる者は、戦という緊急時に何の役にも立ちません」
信繁の想定通りに事は進んだ。
◇
諏訪頼重の運命は予め決まっていた。
晴信が、妹婿を殺すと決めていたからだ。
甲斐国へ護送されて難癖を付けられ、その日のうちに処刑された。
1歳にも満たない息子が諏訪家の当主として上原城に残された。
一方の高遠軍にとって……
武田軍が上原城を占拠し続けたのは驚きでしかない。
「話が違う!」
何度も抗議したが、晴信はあれこれ理由を付けて明け渡さない。
「諏訪郡の民は、高遠家の支配を望んでいない」
こう難癖まで付け始めた。
「おのれ晴信!
我らを騙したのか!
目にものを見せてやるぞ!」
怒りのままに上原城に攻め上がったが、武田軍は伏兵を置いて待ち構えていた。
予期せぬ場所からの奇襲に惨敗に終わる。
晴信の方が、役者が一枚も二枚も上ということだろうか。
こうして諏訪郡を我が物とした晴信。
兵糧や武器弾薬などを蓄える大規模な兵站基地を築く。
武田軍は、補給の心配なく信濃国を侵略することが可能になった。
【次話予告 第十一話 真田登場】
ある者が極秘に武田晴信を訪ねて来ます。
名前を真田幸隆と言い、あの真田幸村の祖父に当たる人物です。
晴信に惹かれた幸隆は、武田家に仕えたいと申し出るのです。