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畑村洋太郎『図解雑学 失敗学』から得た知見

『失敗学』という学問をつくり出した著者による図解本。校閲者にとって「失敗」とはもちろん「見落とす」こと。見落としを減らす(ゼロにはなりえないので)にはどうしたらよいのか。それを知りたくて読んだ。

行動に失敗して失うものよりも大事なものがある

(無知からくる)失敗を防ぐには勉強するしかありません。
 しかし、無知を恐れるあまり、行動をすることなくいたずらに調査や勉強ばかりに精力を注ぐと、行動により失うものよりも、さらに大事なやる気と時間を失うことになります。

新しい定式を生み出すには、まず行動してチャレンジすることから始めるしかありません。新たなことに積極的にチャレンジするとき、そこには必ず失敗がついてまわりますが、そうした失敗の積み重ねの上にしか新しい定式は作れません。 

本書26ページ、100ページより

 著者によると、失敗の原因は10に分けられるという。そのうち「無知」とは、当事者が不勉強であることにより引き起こされた失敗である。無知による失敗を防ぐには勉強しかないという著者だが、それでも、無知であっても行動しなければ、何よりも大事なやる気と時間が失われるとある。これは重要ポイントだ。「やったことがない」、つまり無知なことであっても、声をかけていただければやってみる。自分の場合はそういうことだと解釈した。
 というのは、最近、未経験の校閲ジャンルでオファーがあった。「やったことがないからわからない。見落としが出るかも」と不安ではあったが、チャレンジしたいと強く思ったので引き受けた。
 案の定、初校でいくつか見落としてしまった。当該ジャンル特有の観点から見なければいけなかったのに、それが抜けていたと後からわかった。「こうすればうまくいく」の定式がなかったからの見落としだった。
 だがこれは、チャレンジしたからこそのミスだった。やらなければわからなかった。これを自分の糧とし、これからはどういう場面でその観点が必要なのかを見極め、そういう姿勢で見るようにしようと心に刻んだ。これが、著者のいう「定式」であろう。

失敗情報は単純化するな

 失敗情報には、伝達がされていくとき、その経過や原因が極めて単純な形でしか伝わらないという性質があります。
 その失敗を正確な記録として残されればよいのですが、うわさ話の情報は伝わっていくうちに、失敗の経過や原因が一つか二つのフレーズに単純化されてしまいます。
 一つか二つのフレーズに単純化された失敗情報は、そこから知識として得るものが限られてしまいます。

本書47ページより

 たとえば、医療事故の際に患者に間違った薬を投与したときなど、一人の看護師の投薬ミスが原因であるとしか伝わっていかない。実際には医薬品の管理や無理な夜勤シフト、チェック機能がないといった問題が背後にあるのに、そこは、(一般大衆には)何の情報も入ってこない。
 これを、組織手はなく個人のミス(見落とし)と考えてみよう。自分の見落としはなぜ起きたのか。先ほどの「新ジャンルでの見落とし」は、ミスとしては単純な「見落とし」ただけのものだ。しかし、その裏には、登場人物の個人情報をメモしていなかった、伏線の回収をたどっていなかった、どことどこの情報がが整合していなければならないかがわかっていなかったなど、「しなければいけない作業をしていなかった、そもそもわかっていなかった」ポイントがいくつもあることが判明した。
 同じミスを繰り返さないために、これを事例として記録をつけておき、その記録を自分のデータベースとして構築していこうと決めた。

他人の失敗体験を吸収するには

失敗をしたときに、「痛み」「悔しさ」が自分自身のなかに生まれたならば、失敗体験はその人のなかに根付いたということです。決してマイナスではありません。それは、失敗をしたときに、その人のなかに新たな知識を受け入れる素地ができたということです。
 正しく新たな知識を受け入れる素地ができた人は、自分の失敗体験だけでなく、他人の失敗体験も吸収でき、さらに学習した知識などを次々と吸収し普遍的知識として蓄積していき、そのなかで最終的には現象の真の(科学的)理解へと至るのです。
 その人の頭のなかには現象のモデルができあがっていて、条件変化などによる現象の変化がわかっているからこそ、予期せぬ事態に対しても正しく対応できることになります。
 逆に、なにも失敗を体験せず、なにもきちんと考えなかった人が、突発的に起きた事態にきちんと対処できるなんてことはありえないということです。

本書64ページより

 わたしは何度も「ひとの失敗から学ばせてもらって自分の学びとする」と言ってきたが、そのためには素地が必要であることが本書でわかった。まず自分で失敗して「痛み」「悔しさ」を自分のものとして経験することで、自分の失敗体験が根づく。それが他人の失敗体験を吸収する素地になっているということだったのだ。
 今回は新しいジャンルでの失敗だった。チャレンジした結果、失敗した。著者の言葉で言うなら「行動して体感」した。ものすごく悔しかった。これで、正しく新たな知識を受け入れる素地ができたと言えるだろうか。そうだったらよいと思う。


今日の久松   
ペパーミントの精油を嗅ぎながらコーヒー(ドトールのマイルドブレンド)を飲むのがお気に入り

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