畑村洋太郎『図解雑学 失敗学』から得た知見
『失敗学』という学問をつくり出した著者による図解本。校閲者にとって「失敗」とはもちろん「見落とす」こと。見落としを減らす(ゼロにはなりえないので)にはどうしたらよいのか。それを知りたくて読んだ。
行動に失敗して失うものよりも大事なものがある
著者によると、失敗の原因は10に分けられるという。そのうち「無知」とは、当事者が不勉強であることにより引き起こされた失敗である。無知による失敗を防ぐには勉強しかないという著者だが、それでも、無知であっても行動しなければ、何よりも大事なやる気と時間が失われるとある。これは重要ポイントだ。「やったことがない」、つまり無知なことであっても、声をかけていただければやってみる。自分の場合はそういうことだと解釈した。
というのは、最近、未経験の校閲ジャンルでオファーがあった。「やったことがないからわからない。見落としが出るかも」と不安ではあったが、チャレンジしたいと強く思ったので引き受けた。
案の定、初校でいくつか見落としてしまった。当該ジャンル特有の観点から見なければいけなかったのに、それが抜けていたと後からわかった。「こうすればうまくいく」の定式がなかったからの見落としだった。
だがこれは、チャレンジしたからこそのミスだった。やらなければわからなかった。これを自分の糧とし、これからはどういう場面でその観点が必要なのかを見極め、そういう姿勢で見るようにしようと心に刻んだ。これが、著者のいう「定式」であろう。
失敗情報は単純化するな
たとえば、医療事故の際に患者に間違った薬を投与したときなど、一人の看護師の投薬ミスが原因であるとしか伝わっていかない。実際には医薬品の管理や無理な夜勤シフト、チェック機能がないといった問題が背後にあるのに、そこは、(一般大衆には)何の情報も入ってこない。
これを、組織手はなく個人のミス(見落とし)と考えてみよう。自分の見落としはなぜ起きたのか。先ほどの「新ジャンルでの見落とし」は、ミスとしては単純な「見落とし」ただけのものだ。しかし、その裏には、登場人物の個人情報をメモしていなかった、伏線の回収をたどっていなかった、どことどこの情報がが整合していなければならないかがわかっていなかったなど、「しなければいけない作業をしていなかった、そもそもわかっていなかった」ポイントがいくつもあることが判明した。
同じミスを繰り返さないために、これを事例として記録をつけておき、その記録を自分のデータベースとして構築していこうと決めた。
他人の失敗体験を吸収するには
わたしは何度も「ひとの失敗から学ばせてもらって自分の学びとする」と言ってきたが、そのためには素地が必要であることが本書でわかった。まず自分で失敗して「痛み」「悔しさ」を自分のものとして経験することで、自分の失敗体験が根づく。それが他人の失敗体験を吸収する素地になっているということだったのだ。
今回は新しいジャンルでの失敗だった。チャレンジした結果、失敗した。著者の言葉で言うなら「行動して体感」した。ものすごく悔しかった。これで、正しく新たな知識を受け入れる素地ができたと言えるだろうか。そうだったらよいと思う。
今日の久松
ペパーミントの精油を嗅ぎながらコーヒー(ドトールのマイルドブレンド)を飲むのがお気に入り