哲学ノート② レヴィナスと疲労
前回に引き続き、レヴィナス『実存から実存者へ』。
実存したくない、という思い。
別に何か問題を抱えているわけじゃない。身体は動くし健康だし、周りに不愉快な人間がいるわけでもないし、なんら生活に困っているわけじゃない。だけど、なにか面倒くさい。レヴィナスはこんな風に書いている。
あらゆることがどうでもよくなるが、とりわけ自分のことがどうでもよい、といった倦怠感がある。そのとき気だるさを抱かせるのは、自分の生活のあれこれの一形態──自分の環境が月並みで精細を欠くとか、まわりの人間が野卑で冷酷だとか──ではなく、その気だるさは実存そのものに向けられている。(※1)
「私」っていうのは、当たり前のようでいてすごく不思議な概念だ。自分の体を構成するものは日々ころころと変わっているし、考えていることだって次々に変化する。どこにも固定された「私」なんていない。そのコロコロ変わるものを、私たちはいつも「私」としてつなぎ合わせて引き受ける。そうしないと生きていけない。
でも、時々それができなくなる。完成品であるはずの「私」に、自分がついていけなくなる。さっきまでの自分と今の自分を同じ「私」としてつなぎとめて完成させる作業が面倒になって疲れてしまう。「私が私である」ことから逃れたくなる。
疲れるとは、存在するのに疲れることだ。(※2)
「私」と「私が存在していること」がズレている、この不一致が、疲れや怠惰になる。
それは「私」と「私の体」との不一致に似ている。
例えば「体は男性だけど心は女性」とか「気持ちは若いつもりなのに、体は年相応」「心は乙女なのに外見がいかつい」、そういう、外見と内面と一致していないこと。それと似ている。「私」が「私が存在している」という事実を拒否したいとき、一致していないとき、人は疲れ、何もしたくなくなる。疲労と、怠惰。
裏を返せば、疲れていないとき、私たちはいつも努力している。いつも自分と自分の存在を一致させて「私」を維持しようと頑張っている。それは、演奏されるメロディーみたいだ。音色が移り変わりながら、でもちゃんとひとつの曲になっている、あの音楽の営みは、存在することを維持する努力に似ている。
メロディーの瞬間瞬間は死ぬためのみにそこにある。調子外れの音は死ぬのを拒んでいる音だ。(※3)
本当は、音楽における音と同じように、私たちも一瞬一瞬死んでいる。だけどそれを繋ぎ合わせて、どうにか「私」という一曲を織り上げる。存在することは、それ自体が努力の営みだ。時には疲れるし、投げ出したくなったりする。
※1:エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳、ちくま学芸文庫、2019、45頁
※2、3:同上、66頁、61頁