頑張っても報われない人に
その気持ち凄く分かります!
「一生懸命に頑張っているのに。」
「自分の中では本気で取り組んだのに。」
「本当はやらなくても良かったけど、みんなが困ると思って、やったのに。」
このような言葉を心の中でどれだけ叫んだことでしょう。僕の中では精一杯でした。なのに、誰も僕を認めてくれはしませんでした。結果も出したこともありましたよ。それなのに。。。
本当は、達成感と充実感で満たされたかったのに、凄く裏切られた気持ちでいっぱいでした。
当時の僕は、人に認められたいという思いでいっぱいでした。
まさに、執着という感情は、この時の僕を占めていた感情でした。
誰かに認めてもらうこと。それが、僕の目的になってしまったのです。
子供の頃から、厳しい母のもと育てられました。いつも、母の気持ちに答えたいと頑張っていたものの、思うように出来ませんでした。だから、いつも叱られてばかりだったのです。
4つ下の弟は、その点、とても優秀でした。母の言うことをきちんと聞いては、おりこうさんと褒められていました。しかし、僕は、同じようには出来ませんでした。「どうして、出来ないの?」「お兄ちゃんなのに!」「どうして、何度も言わせるの!」「そんなに言うことが聞けないのなら、出ていきなさい!」ふざけている訳でもないのに悔しさでいっぱいでした。もしかすると、僕は拾われた子供かもしれない。そのように疑うくらい、僕だけ認めて貰えなかったのです。褒められなかったのです。だから、よくお風呂でひとり悔し涙を流したものでした。
だからかもしれません。大人になったら、みんなから認められるような人間になりたかったからです。最初は良かったんです。それが、原動力となりました。一生懸命になれたのです。必死になれたのです。
だけど、どんなに頑張ってもなかなか、周りは認めてくれませんでした。他の人も必死に頑張っていたからです。周りと比べてみたら、僕よりも出来る人もざらにいれば、ぼくよりも必死になって頑張っている人もざらにいたのですから。
認められないことに、焦りを感じたり、憤りを感じたり、妬みに思ったり。そうやって、僕は、ネガティブな感情ばかり抱き、嫌な人間になりました。
そもそも、自分は認めていますか?
きっと僕は、認められるとか認められないとかばかり気にするあまりに、心の蓋を閉じてしまったのだと思います。
その当時のことを冷静に振り返ってみたら、全ての人から認められなかった訳ではなかったのです。僕のことを気にかけてくれる人も、僕の頑張りを認めてくれる人もいたことに、後の祭りですが、気づくことが出来ました。
自分の気持ちをちゃんと解放できていれば、そのことに気がつくことができたはずです。そういったことで、僕のことを認めてくれている人と、より関係を深めていれば、僕は救われていたのかもしれません。
より、認められたい。いや、たくさんの人から認められたい。認められなければならない。と、いう気持ちが、そうした、大切な部分を見失うくらいにまで、盲目にさせたのです。
どうして、そうなってしまったのか。それは、僕自身が自分を認められていなかったからだったのです。幼き頃の、母からの否定によって、僕は僕自身を否定し、認めてはいませんでした。
だからといって、決して、母のせいではありません。母の気持ちと僕の気持ちのズレから生まれたものでしかありませんでした。僕の後悔は、自分を認める努力を怠ったこと。すぐに周りと比べて、自分の頑張りを否定してきたこと。自分に「がんばったね。」と言えなかったことです。
今では、自分が頑張ったこと、必死にやったことは、例え結果が出なくても、ちゃんと、認めて褒めるように決めています。だって、頑張ったんだから。時には、ご褒美を用意したり、声にだして、「頑張ったね。」と自分に伝えるように努めています。
そんな風に、自分を認める努力をしていると、世界が少しずつ変わっていったのです。僕の周りにいる人達も、認めてくれていると感じることが出来るになったのです。それは、僕が僕を認めようとしたから、僕自身は認められてもいいと、自分を受け入れることが出来て、許すことが出来たのだと思います。
この世界が思いのほか優しさに溢れているものだということに気が付くことが出来たのです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー