二択は二択に非ず
なんとなく思いついたことをつらつらと書き残そうと思い、今日のなんとなく思いつた言葉は『二択は二択に非ず』です。
AとBのどちらかを選ばなければならないとき、それを二択という。しかしながら二択というのは単純に見えて、人によってはいろいろな思考方法で選択をするし、単に二択と言ってもそのありようは様々だというお話。
生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ「To be, or not to be: that is the question.」
まずは最も有名で且つ、もっとも難解な二択の話。ご存じの通りこれはシェークスピアの『ハムレット』の一節。
こちらの記事は実に明快だ。
つまりこの二択は葛藤を表す言葉であって、二択ではなく、決意を表すと言い換えてもいいかもしれない。つまり復習を誓うために使われた二択表現だ。
大きなつづらと小さなつづら、どちらをお土産に持って帰るか。
これは舌切り雀のオチということになるか。しかしそう単純な二択でもない。なぜならこの二択は二回、別々の人物によってなされるからだ。一回目はやさしいおじいさん、二回目は欲張りなおばあさんだと、誰もが思うだろうし、欲張ってはいけないという戒めの二択というのが通説かと思う。
しかし、これはそれほど単純な物語でもないし、二択でもないのだと僕は思う。
ハムレットと同じくこれにも文脈があり、登場人物の背景がある。この物語のきっかけは、スズメがおばあさんの洗濯のりを食べてしまったことから始まる。さらに言えば、この老夫婦には子供がなく、しばかりに行ったおじいさんがスズメを拾ってきて子供のようにかわいがるという行為に対して、おばあさんが快く思っていなかったという前段があります。
その意味ではおばあさんをないがしろにしてスズメをかわいがったおじいさんの行動が引き起こした結末が、邪魔なおばあさんを消し去るという物語ということになり、考えようによっては不自由な選択、或いは意図的に仕組まれた選択だった可能性があります。
そしてもっと大事な視点がこの物語には必要でそもそもなんでスズメなのかということです。
スズメというのは農家にとっては害獣です。そんなスズメにご飯を食べさせてかわいがる行為というのは、漁師である浦島太郎がカメを助けるのと同じくらいに人間社会への裏切りです。
つまりこの二つの物語は現世に生きる希望をなくした人が別の世界に思いをはせたことへの戒めの物語とも言えます。魚やカメをかわいそうだと思う浦島太郎は漁師には向いていないし、子供ができなかったおじいさんにはおばあさんと仲良くする理由がなくなってしまっていたのかもしれません。そのつもりはなかったとしても子供を授からなかったことへの当てつけだとおばあさんが誤解しても責めることはできないのではないでしょうか。
カチカチ山ではタヌキに同情したおばあさんが痛い目にあいます。当時の暮らしを考えれば畑を荒らす獣に同情をすることは社会的には逸脱した行為だったと言えるでしょう。
さて、舌切り雀の話に戻りますが、おじいさんに可愛がられているスズメはおばあさんが大切にしていた洗濯のりを食べてしまい、それをおばあさんに問いただされると、「隣の猫が食べた」としらを切ります。
昔からうそつきは閻魔様に舌を抜かれると戒められていました。それは人間社会の法です。つまりおばあさんは法にのっとりスズメの舌を切りました。それは残虐であるようで、人間社会の掟なのです。
ところがそんなスズメをかわいそうだとおじいさんは山に探しに行き、馬を洗った汁を飲み、牛を洗った汁を飲み、とうとうスズメのお宿にたどり着きます。
もうお分かりだと思いますが、おじいさんは人ならやらないことをやることで獣の世界にたどり着くわけです。
さて、ここでの二択、大きなつづらと小さなつづら。正解は小さなつづらでした。でも果たして本当はどうだったのでしょうか?
もしかしたらどっちも当たりだったかもしれません。
おじいさんが小さなつづらに入った宝物をゲットしますがおばあさんはそれならなんで大きなつづらにしなかったのだと、自分もスズメのお宿を目指します。
ここで問題の二択になります。もしもスズメがおばあさんへの復讐を最初から画策していたのだとしたら、どちらを選んでも中にはとんでもないものが入っていたのではないでしょうかね?
つまりこの大きなつづらと小さなつづらは欲の二択に非ず、生き方の二択だったのかもしれませんね。おじいさんは人であることを捨て、おばあさんは人であることを選んだ。
このように二択は二択に非ずということがあるのではないかと思うわけです。
洗濯は人を……もとい選択は人を迷わす~モンティ・ホール問題
そうえいば桃太郎もおじいさんがしばかりに、おばあさんは川へ洗濯にというお話でしたね。洗濯には事件がつきものかもしれません(笑)。
さておき、二択は二択に非ず、最後の問題はかの有名な『モンティ・ホール問題です。
この問題は最終的に二択になるのですが、三択だったものが二択に変更された場合、三択の時点で選んだ答え、または選ばなかった答えの確率は同じだろうかという問題です。(うまく説明できているか疑問)
これについてはこちらの記事が参考になりました。
wikipediaにあるようにこの問題は「一種の心理トリックになっており、確率論から導かれる結果を説明されても、なお納得しない者が少なくないことから、モンティ・ホール・ジレンマ、モンティ・ホール・パラドックスとも称される。「直感で正しいと思える解答と、論理的に正しい解答が異なる問題」の適例」とされている。
扉の二択に非ず、直感と論理の二択ということになるのだけれども、この問題の面白いところは多くの人が納得できないという点だ。これは脳が日ごろから五感でとらえている事象をつじつまを合わせて毎度毎度処理している(直感的処理)を論理的にそれは違うと指摘されると人は混乱してしまうという事象が露見する点にある。
人によっては論理的な結論を優先し得る。それは「これはこういうものだ」と理解が及ばずとも受け入れてしまえるタイプなのか、納得できるまで考えて思考を修正するタイプ、そして頑固に直感を頼りに否定するタイプとで人を分別することができるという点でも面白い問題だ。
これは分数の割り算に似ている。そういうものだと受け入れられれば割る側の分数をひっくり返してかけるだけの単純な計算になる。しかし論理的な納得を求めだすと簡単に脳がついて行けない。それまでりんごやみかんの自然数で四則演算をしていた思考をひとつ違う段階への飛躍を必要とする。
人の選択方法が示すもの
人は日常で様々な選択をかなりオートマティックにこなしています。今日の朝ご飯を昨日のうちに用意している人もいれば、その都度コンビニに買いに行く人もいる。いつも決まったものを選ぶ人もいれば、ローテーションやその日の気分で変える人もいる。
そんな選択の中でAとBが極端に差があるものの場合はかなりオートマティックに人は選択をする。それは値段、量、味、食べやすさなどが明確に違う場合である。
どっちも捨てがたいというとき、どのような基準で選択するのだろうか。或いはどっちも好き、どっちも嫌いのときに、どんな基準んでそれを選ぶのであろうか。
悪いものと悪いものを比べて、どちらがいいかという選択を強いられたとき、できるだけ一瞬んで終わるほうがいいと思うのか、できるだけ痛みや苦しみが少なく時間をかけてやるのがいいのか。
そこに論理的に挑むのか、直感的に挑むのか、選択とは様々なない目ggな存在する。
ここで僕が言いたいのは誰かの選択を簡単に非難することはできないということだ。そこには選択者の様々な状況や思考が存在する。それは外側からはわからないことが多い。
僕としてはすべての決断は尊重されるべきだと思うし、逆に言えば打算や欲による決断はそのときうまく行っても、いつまでもそれが続くとは限らないだろうと自分を戒める。
多くの人が日常なにげなくやっている選択という行為について、たまにはゆっくり考察してみるのもいいのではないだろうか。
最後にこの言葉を残したいと思います。