笑えるニーチェ(後編)【ニーチェ超解説】
笑えるニーチェは泣けるニーチェだ!
とにかく気持ちを揺り動かされ、
体験することが、
ニーチェを理解する近道では
ないでしょうか。
メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。
さて、前回に続き、
ニーチェの著作『この人を見よ』の
個人的に笑える部分を引用し
コメントしていきます!
(前編はこちら)
↓ ↓ ↓
この著作を書いた後、
ニーチェは突然狂気に陥り、
10年ほどの後に死去します。
ですから、この著作は
ニーチェの最終回なわけですよ。
ニーチェの最後の言葉群を
噛み締めてください。
↓ ↓ ↓
そのうちいつか、私の生き方や私の教え方を実践し、教育するような公共機関を設けることが必要になるであろう。
(p.73)
ビッグマウスが止まらない……!
しかもニーチェは
これに続けてこう書いてます。
「そのときにはまた、『ツァラトゥストラ』の解釈のための特別講座が設けられることさえ起り得るかもしれない。」
あれ?
これ当たってるよ!
……かつてハインリヒ・フォン・シュタイン博士が私の『ツァラトゥストラ』を読んで、一語も分らなかった、と正直に苦情を漏らしたことがあるが、そのとき私は彼に、それでいいんですよ、あの中の六つの文章が分ったなら、ということは体験したなら、ということですが、そのときには「近代的」人間の到達できるよりも一段と高い人間の階梯へとわれわれを高めたことになるのですから、と語ったものだった。
(p.74)
ここ好きなんですよね……。
「それでいいんですよ」
って言った時に、
きっとニーチェはドヤ顔で。
それが浮かぶんですよ。
『ツァラトゥストラかく語りき』
でも書かれている通り、
ニーチェは自分が
なかなか理解されないことを
わかってはいるんですよね……。
孤独さとビッグマウス、
これは関係があるのでしょうか。
……ところで、打ち明けて言うが、彼ら外国の読者よりも私をいっそう喜ばせてくれるのは、私の本など読んだことがなく、私の名前も、哲学という言葉もついぞ耳にしたことがないような人々である。彼らは私が何処へ行こうと、たとえばこのトリノにおいても、私の姿を見掛けると、誰しもみな晴れやかで和やかな顔になるのである。
(p.78-79)
これどう受け取ればいいんだよ……。
笑いつつ、泣けてもきました。
この引用の続きが、
「これまで私が一番悪い気がしなかったことといえば、露店で葡萄(ぶどう)の呼び売りをしている老婆が、売りものの葡萄の中から私のために最も甘い房を集めてくれないうちは、安心した顔を見せなかったことだった」
これですよ……。
そして、
「哲学者たるものはざっとこれくらいにならなけりゃあ駄目である」
と続きます。
おい、泣かせるなよ……。
簡単に言うと、私の著作に慣れ親しむと、他の本はもう我慢できなくなるのだ。
(p.80)
前回、
目次からビッグマウスだと
言いましたけど、
内容もね、読んでるともう
こんな感じのビッグマウスが
散りばめられまくっていて
妙に気持ちよくなってくるんです。
ここでも、
クセになるでしょう?
ってことを
言ってきてるわけだしね……。
女という女はみな私を愛してくれる。――これもべつに今さらの話でもあるまい。
(p.86)
あっ、はい。
ノーコメントで(笑)
この本をもって私の道徳撲滅キャンペーンが開始される。
(p.123)
すげえパワーワード出てきたよ……。
「道徳撲滅キャンペーン」!
(これは
『曙光』という著作についての
ニーチェの解説部分です。)
――この日を境に、私の著作はどれもみな釣り針となった。ひょっとしたら私は誰にも負けないくらい釣りを心得ているのでは?……何も釣れなかった場合でも、私のせいではない。魚がいなかったまでなのだ。……
(p.155)
これも、
笑った後泣けるくだりですよね……。
ニーチェは、特に晩年の方は、
本を出しても
ほとんど売れてなかったんですよ。
なのにこんな物言いするのがね。
ビッグマウスで通している意味を
ずーっと考えてしまいます。
(これは
『善悪の彼岸』という
著作についての解説部分。)
私も昔は大砲の砲手を務めた身である以上、ヴァーグナー目がけてわが重砲の砲弾を浴びせかけることぐらいは造作もないことを、よもや疑う人はいないであろう。
(p.164)
こりゃ物騒だな……。
この本は自伝でもあるわけで。
自分の経歴と絡めて、
かつては同志のような存在だった
ヴァーグナーを攻撃するのも
何かしらの愛情なのだろうな。
……ごく最近には、歴史的な事柄における一つの白痴的判断、幸わい今は亡きシュヴァーベン出身の美学者フィッシャー氏の次のような一文が、ドイツの新聞によって、ドイツ人なら誰でも賛同しなければならない一つの「真理」であるとして喧伝されたことがある。フィッシャー氏のこの文章とはすなわち「ルネサンスと宗教改革、両者は相い俟ってはじめて一つの全体をなす。――すなわち美的再生と道徳的再生。」――こんな文章を目にすると、私の堪忍袋の緒もついに切れてしまう。
(p.167)
ニーチェ、キレた!!
「道徳撲滅キャンペーン」実施中
のニーチェ、
怒ってますよ。
一つ前の引用と合わせて、ここは、
『ヴァーグナーの場合』という著作を
紹介している部分なんですが、
こんな調子で話しつつニーチェは、
「ドイツ人は観念論者(イデアリスト)なのだ」
というこの言葉を
何度も差し挟んで皮肉っていて、
要は「天丼」ギャグを
行ってるんですね。
ここは楽しいくだりです。
さて、次が最後です。
私は決して大衆相手には語らない。……いつの日にか人から聖者と呼ばれることがあるのではないかと、私はひどく恐れている。
(p.177)
……ごめんなさい。
なってます……。
このくだりでニーチェは、
自分は「信者」なんてものは
欲しくないとも書いてて。
前編で書いたことを
あらためて書きますが、
だから、
ニーチェを
真面目に崇め奉っては
いかんのですよ。
「ニーチェは
すごい哲学者なんだ、
偉いんだー」
という感じで、
ニーチェの言葉を語りつつ
自分のことを何か
権威づけようとするものには
気をつけた方がいいです。
(あれ? だったら、
私のこのシリーズも
気をつけた方が、いい??)
ご注意を。
↑ ↑ ↑
前編と後編を通して、
ニーチェの語り口が
一体どういうものか
ご理解いただけたでしょうか。
明らかに
笑いを意識していますよね。
ここをおさえて
今までの【ニーチェ超解説】を
ご覧いただくと、
もしかしたら印象も
変わるかもしれません。
今回、
【ニーチェ超解説】の中でも
重要な解説ができて、
軽くひと仕事終えた気持ちです。
今後も、
【ニーチェ超解説】は、
不定期ですが
ニーチェを読む上でためになる
記事をあげていきます。
興味ある方は、
是非今後ともよろしくお願いします!
参考文献
フリードリヒ・ニーチェ『この人を見よ』西尾幹二(訳)、新潮社、1990年。
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