ピアノを弾くだけのニーチェに淡々と思いを馳せる
木田元先生のお名前を初めて知ったのは、大学でドゥルーズの『経験論と主体性』を読んでいたときだった。この本は大事なことが書いてある気がする、でも何を言っているんだか読めば読むほど分からん、彼はいったい何を考えていたんだろう……とぐるぐる回りながら、へたくそなレジュメを毎月つくっていた。分からないながらもドゥルーズ思想は研究に居すわりつづけたので、したがって参考文献一覧から訳者名も消えることがなかった。そんな経緯があり、直接の著書を読んだことがないにもかかわらず、木田先生のお名前はなんだか見慣れた文字列となっていた。
大学を離れ、しばらくそのお名前を見ることもなくなっていた先日、古本市の背表紙の山の中でよく知ったその文字列を見つけた。こんな本があったのか!と初めて知り、今日の私はきっとこれを買いに来たんだろうな、とまよわず購入をきめた本である。(古本というには新し過ぎる気もするけれど)古本市はこれだからやめられない。
この本を短く表そうと試みるとすると、それは「淡々と思いを馳せる本」だと思う。木田先生のエッセイは、感情的な波が少なく、淡々と描かれている。もっとも波が少ないといっても、それこそ事実のみが”淡々と”述べられている、というわけではない。”淡々と”という形容詞には、「あっさりしているさま」というのの他に、「水が静かに揺れ動くさま」という意味があるらしい。この本はあっさりもしているけれど、そういうよりは水が静かに揺れ動くというのがぴったりはまるように思える。自分の身におこった出来事やニュース、そして取り組んだ哲学者や歴史上の出来事について、新たに知ったり驚いたり改めて感服したりしながら、その出来事についてできるだけ近づこうと知を積み上げ、その上で思いをめぐらせる。まるで、それが波及していくのを大きな水源で受け止めるがごとく、その動きは静かだけれどたしかに揺れている、といった感じである。対象は、哲学が関わるテーマのものもあるけれどそれ以外にも、日々のニュースや家族の話、愛読していたというミステリ小説、寅さんやらビーフンやらの話から、戦前・戦後の体験談までとかなり多彩だ。
「哲学の醍醐味が味わえる二十冊」では、軽妙な語り口で著者が選んだ哲学書が紹介される。
教養というものは、たぶん楽しみながら身につくようなものなのであろう。苦心惨憺して教養を身につけるというのもあまり気の進まない話である。だが、楽しみながらというのはどういうことか。
木田元『ピアノを弾くニーチェ』(2009)、p.201。
こう問題提起したのち、選んだ二十冊について、その本をどのように読んだか・どのように楽しんだかを説明していく。本を語り始める際、まずはその本が書かれた時代、著者、環境についてできるだけ正確に説明する。そして内容を概覧したうえで、著者はいったい何が本当に言いたかったのか?などについて思いを馳せる。この答えの出ていない問題を探検しているところがとても楽しそうで、エッセイの前半に教養をつけるなんて話をしていたことなどすっかり飛んでしまう。難解な理論を打ち立てた人たちの紹介として過度に客観視するでもなく、すごくわかることを書いている強い人たちの紹介として共感の渦に飲まれるでもない。ただ淡々と思いを馳せていて、そしてそれが、楽しみながらとはこういうことなのであろう、と思わせるように表現されている。
本の題名にもなっている「ピアノを弾くニーチェ」は2ページにも満たない小さなエッセイだが、さらにこの姿勢がよくあらわれている。十九世紀の大思想家であるニーチェの命日に、彼が企てた思想史上の大転換とその大きな影響について思い、そしてその晩年の精神錯乱に侵されていった時代のエピソードを思う。
発病後、母親とイエナで暮していたころのこととして、こんな話が伝えられている。母親が知人の家を訪ねようとすると、まるで子どものようにニーチェが後を追ってくるので、彼女は彼をその家のピアノの前に坐らせ、いくつかの和音を弾いて聴かせる。すると彼は、何時間でもそれを即興で変奏し続ける。(中略)この話を読むたびに私は、いつも胸のつまる思いがする。
木田元『ピアノを弾くニーチェ』(2009)、p.130。
ニーチェは当時の哲学の常識からすると急進的な、それでいて強靭な思想を展開した思想家だ。加えて豊かな感性を持ち合わせており、それによってより多彩な思索を行ったと同時に、それによって振り回され苦しめられたような面もあるのではないかと思う。これは文章からの憶測でしかないが、どんなエピソードにおいても語り口がどこか飄々としている木田先生は、ニーチェとはかなり異なるタイプの人間にみえる。生きる時代も国も全く違い、人間としての感性もかなり違う相手。その相手が遺した思想体系を見て、相手がどのような思索を巡らせてきたのか知りたいと願う。なるべく対象に近づこうとロジカルに下地を積み上げるが、それでも届かない領域がある。木田先生はそこで、わからない領域の理解に無理やり手を伸ばすのではなく、淡々と思いを馳せている、のではないだろうか。その結果が「胸のつまる思い」であり、そこには人と人との間の決して超えられない壁と、それでも壁を越境しようとする哲学者の静かな挑戦が感じられるような気がする。
SNS全盛のいま私は、例外なくその恩恵を享受してそれらをやっている。かわりに、スキとかキライとか、goodとかbadとか、二元論的な感情ふりわけとその感情の波のアピール、そして、「わかる!」ことに慣れきってしまっているような気がする。好意を表明したり、よいと思ったものを共有したりする共感のハードルが低くなるのはうれしいことだ。しかしその代償として、感情をうごかしてくるものに対する判断がいささか短絡的になってしまい、私はそれに翻弄されしまっているようにも思う。翻弄されるとしんどいことはわかっているがなかなかやめられないので、『ピアノを弾くニーチェ』における姿勢から感じるところが多かった。対象にできるだけ近づけるように、感情に頼らない理解の下地を積み上げ、そのうえで近づききれない領域に淡々と思いを馳せること。そうすることで、たとえ感情の波が大きくうねっていても、周囲から影響を受けることを諦めないで、自分としてなんとか立って生きていけそうな気がする。