meitian355

後日の加筆を前提に短い記事を連発します。

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最近の記事

西側諸国が東側諸国に比べて好ましい理由

まず断っておくべきだと思うが、世界の国々を整然と東西に分けることは出来ない。  西側諸国が東側諸国よりも好ましい国家体制である理由は、選挙による政権交代の余地が西側には残されているから、ではない。東西どちらの陣営も、特定の種類の人々によってのみ実質的な政治参画の余地が開かれているという点では同じであり、法的・形式的には有権者や主権者ということになっている人々の多くは実際には“臣民”である点は同じであり、そうした“臣民”に絶えずお世辞を垂れて止まないのもまた同じである。  

    • 言論の自由と政治について

      言論によって政治が動くのは結構なことであるが、感想によって政治が動くことは全く歓迎できない。 「言論」は「意見」としても良く、「感想」は「思いつき」あたりと互換だろう。要は十分な検討を経ない感想を意見と履き違えて堂々発言する人物は政治の場から追放すべきであり、有権者として認めるべきではない。

      • 「多様性」を議論する際に注意すべきこと

        ①属性の多様性と意見の多様性を峻別すること 前者を議論する際には、多数者と少数者につき同様の権利が保障されていることが望ましいが、意見の多様性については人権や理性という観点からは、望ましさを絞ることが望ましい。レイシストやセクシストには発言の場を与えないことが当然である。

        • 異世界転生モノの流行のもう一つの側面

          2024年11月の時点でこのジャンルを論じることが時代遅れだということは承知している。 ただ、それでも発見は発見であると思い記しておく。私の指摘する状況が解消されてしまったとは思えないし。 「もう一つの」というのは、異世界転生モノの前提であるテンプレの一部をなす「転生」が、男性主人公に二次元美少女に囲わせる為に、都合の良い能力と、その能力を軸にヒエラルキーが決定される世界へと移る、という解釈が主流であることを想定したためである。 私の考える「もう一つの側面」というのは、

          ヤンキーとトーンポリシング

           ヤンキーは例えオタクやインテリの使う隠語やスラングは分からずとも、会話相手の態度物腰でナメるナメられていることは理解できる。  同様に、社会科の授業を真面目に受けずに、その意義も理解しないような人々でも、「構図」や「勢力」、「利権」といった言葉には喰い付く。  例え「憲法」や「地方自治の本旨」といった言葉が理解出来ずとも。  従って、無知な労働者階級がこうした言葉を用いて政治的な発言、発信をしているように見えるからといって、議会制民主主義の将来に闇雲な希望を抱いてはなら

          ヤンキーとトーンポリシング

          「闇バイト」論のちょっとしたバズに思うこと、新自由主義時代の観点から

          若干旬の過ぎた話題のような気もするが、2020年代半ばを記憶するのに丁度良さそう。 いくつか確かめていない前提をもとに議論をする。取り分けこれに従事するほとんどの青年が「他の選択肢がある情況で」「闇バイトと知りつつ」「リスクを承知で」闇バイトをしているという3点の断定はとりわけ脆弱な前提であることは理解している。 バズツイ群の筋はデイヴィッド・グレーバーの著書で読んだ話を連想させた。具体的なタイトルは思い出せないが、比較的最近の記憶なのでおそらくは「万物の黎明」だろう。

          「闇バイト」論のちょっとしたバズに思うこと、新自由主義時代の観点から

          新自由主義的言説への社会科学的に正確な反論を考案する

          ここでの「新自由主義」の定義自体はあいにく社会科学的ではない。申し訳ないが、私自身、私自身が言おうとしていることの的確な表現が思いつかないので便宜上「新自由主義」を使うが、「自己責任論」や「努力主義」なんかでも良いかもしれない。まぁ、そのあたりのことである。 本格的な社会科学者ならば、この手の議論へのより正確で適切な反論は幾つも持っていることだろうが、ここでは街頭の対話で、素人相手に取りあえずそのバカバカしさをわかってもらう為に、ブレスト式に簡単な議論を列挙していこうという

          新自由主義的言説への社会科学的に正確な反論を考案する

          情報学/哲学の第二原則

          この記事の位置付けは第一原則を参照のこと。 第二原則は、「ある人間は、『すべての情報』を知ることはない」である。 文字通りの意味であり、どこまで詳細な説明が必要だろうか? 人間の人生は有限であり、また、永遠の命を手にしても、ある種の情報は永遠に失われる。西暦853年のマダガスカル島に棲息していたワオキツネザルの糞の質量を正確に知ることは永遠にないだろう。 言い換えれば、「人間が認知しているのは、常に限られた情報である」ということでもある。

          情報学/哲学の第二原則

          メディア研究者に見る行政主義的誤謬

          日本のメディア研究者のひとりに名の知られているA氏がいる。彼は取り分けCIAや読売新聞などの分野で知られているが、今日ではTwitterでその人種差別、女性差別、家父長的価値観を露わにして止まず、明らかに右派論客に囲い込まれた知的生活を送っている様を観測できる。 メディアを研究していながら、アルゴリズムによって囲い込まれた原因は、ひとつには年齢や世代という明らかな側面がある一方で、SNSには人為的な側面が見えないために、「中立」な立場から放たれた情報が提示されているように見

          メディア研究者に見る行政主義的誤謬

          オタク経済圏における行動経済学の人文学的な解釈

          オタク経済圏における消費者の行動は、社会学的もしくは文化人類学的な解釈によれば、宗教と何かしらの関連性・類似性を見出すことができるだろう。 著者が両領域において素人な為に表現が曖昧な上に特別芯を食っているわけでもなくて恐縮だが、何かしら意義を見出せそうな措定なので発表しておく。別に目新しいわけでもないが、異論の余地が全くない〜ほぼないの領域に位置していることが確認できれば満足である。 資本主義的生産様式、偶像崇拝、思考停止、信者とアンチの二極化・過激化の傾向、これらを材料

          オタク経済圏における行動経済学の人文学的な解釈

          情報学/哲学の第一原則

          私たちが認識する情報は、究極的には ①自分自身で経験したこと ②人づてに知ったこと の2つに分類できる。 ②は、 ②-1:人間を通じて ②-2:文字を通じて ②-3:電波を通じて を下位分類に想定できよう(2024年11月上旬時点)。 これ以上の詳細な分類は私のここでしたい議論とは関係ない。 なお、著者は情報学も情報哲学も文献に全く目を通していない。 車輪の再発明である公算は大きいが一応公開しておく。 ①と②でそれぞれ種類の異なる限界がある。 ①は生物学的限界である。

          情報学/哲学の第一原則