第9週目 土曜日 メディアで活躍する女性 日髙のり子
9人目のメディアで活躍する女性は声優、女優、ラジオパーソナリティ、ナレーター、歌手(元アイドル)の日髙のり子(ひだか のりこ)さんです。
日髙 のり子さんは1962年5月31日東京都千代田区九段にお生まれです。
日本武道館の近くで、洋服の仕立屋「テーラー伊東」を営む両親の元で、伊東範子さんとして三姉弟の長女として生を受けられました。
(下に弟が2人いるそうです)。
お父さんが空手道場の師範だったためか、日高も子供の頃に空手をやっていた事があったと述べており、2人の弟ともよく取っ組み合いの喧嘩をしていた事から、周囲の大人たちからは「まるで男の子みたい」と評されていたそうです。
ですので演じた役柄の中で一番日高の地に近いのは『らんま1/2』のヒロインである天道あかねだと日髙さんは語っておられます。
千代田区立富士見小学校、千代田区立九段中学校、頌栄女子学院高校を出身され短大を中退されています。
子供の頃から将来は女優志望で、子役として活動。高校時代にはいとう のりこ名義でアニメ『ふたごのモンチッチ』の主題歌「ふた子のモンチッチのうた」を歌い、キャンペーンのお姉さんとして着ぐるみとともに全国を回ったこともあるそうです。
「ふた子のモンチッチのうた」を発売したレコード会社の担当がアイドルセクションへ異動し、その担当からアイドルとしてのデビューを誘われたそうです。
当初は女優を目指していることを理由に一度断わったのだそうですが、先にアイドルでデビューして名前を知ってもらった方がいいのではと言われ、自身でも納得してアイドルデビューを決意されました。
1979年2月から1980年1月まで放送された『バトルフィーバーJ』に、本名の伊東範子名義で中原ケイコ役で出演されます。
1980年に「初恋サンシャイン」でアイドルデビュー。1日だけ「藍陽子」の芸名だったが、本名の「のりこ」は残したいということで、現在の芸名に変更となられました。
芸名は本来異体字を用いて日髙のり子としているが、アイドル時代のごく初期を除いて「日高」と表記されることが多かったそうです。
しかし10年ほど前に字画の関係から声優の金丸淳一氏に勧められて、本来の異体字で表記するようになったそうです。
その後香川の「仁尾太陽博」のキャンペーンガールを務められます。NHK『レッツゴーヤング』において「サンデーズ」のメンバーになり、ある程度名は売れたものの、その後アイドルとしては失速して行き、苦労続きの日々をおくられています。
1984年頃、芸能界で未だ一皮剥けない状況に業を煮やした両親から就職を奨められるようになる。そんな中、当時担当していたラジオ番組で、リスナーの投書に「声に特徴があるので声優に向いているのでは」と書かれたことで声優を意識するようになり、後にテレビアニメ『超時空騎団サザンクロス』(ムジカ・ノヴァ役)で声優デビューを果たされます。
1985年からは『タッチ』でヒロイン・浅倉南役を担当し、声優としての知名度を上げられます。
タッチで成功された背景には以下の逸話があるそうです。
『タッチ』での演技指導
前述の『超時空騎団サザンクロス』のオーディションと、当時レギュラーだったラジオ番組と時間が重なったため、当時の岡本マネージャーがラジオ持参でオーディション会場に駆け付け、声優デビューを果たした。しかし演技経験が少ないまま声優の世界に飛び込んだため、暫くはその演技力を酷評される時期が続いたが、スタッフが気遣ってそのことをほとんど本人に告げなかったため、自分が下手だという認識はあまりなかったという。ただ、当時から先輩の島本須美にオーディションの最終選考で敗れる事がしばしばで、後には島本に対して「いつも自分の前を行っていた」・「オーディションで会うと諦めていた」・「敵わないと思った」などの発言を残している。
『よろしくメカドック』の現場で「今度、こういうオーディションがあるから受けてね」と言われて受けた作品が『タッチ』だった。オーディションを経てメインスタッフの「下手だけどこの子に賭けてみよう」という育成目的も込めた意図でヒロイン・浅倉南役に抜擢される。監督の杉井ギサブローによると「声質が南ちゃんのイメージに近かったこと。声優としてのキャリアが少なく、喋り方が声優っぽくなかったこと」を理由に挙げている。
アフレコ現場では、共演していた林家こぶ平(現・林家正蔵)と共に上杉達也役の三ツ矢雄二を始めとする先輩声優や、音響監督の藤山房伸から毎回厳しい演技指導を受け、時にプレッシャーを感じることもあった。当初はキャリアが少ないということで我慢していたが、拙い演技が続くのを見かねた三ツ矢から「下手くそ! もっと僕のことを好きになってよ!」と叱責されたことや、他の出演者の台詞はスムーズに進行する中、日高の出番が来るだけでフィルムが止まり、音響監督などの首脳陣が話し込む様子を見てたことで、自分の演技の拙さが原因で周囲にどれだけ迷惑をかけているか実感するようになった。
しかし、この厳しい環境により日高の演技力は短期間で目に見えて向上し、以後息の長い活動を見せる事となった。その後も三ツ矢とは共同事務所を設立したり、テレビ番組で共演したりするなど、現在まで友好的な関係が続いている。また、「現場で叩き上げられて成長した代表例」・「努力で這い上がった苦労人」と取り上げられることもあり、日高本人も当時の『タッチ』関係者に自著で感謝の念を示している(ただし、後に『らんま1/2』で三ツ矢と共演した時に、音響監督から「日高さんは三ツ矢さんが近くにいるだけで緊張するんだね」と言われたとのこと)。後に山口勝平の新人時代の演技指導にも活かされ、今も山口は日高に頭が上がらないとのこと。
1987年3月に『タッチ』の放送が終了したことについて、「タッチが終わってすごく不安だったんです。でも、翌年の1988年に“トップをねらえ!”でオタクの方達から評価を頂きまして、さらに映画“となりのトトロ”のサツキ役をもらって、一般の方にも喜んでいただいて。なんとオタクの方達と一般人の両方から同時に称賛を受けるという快挙を達成しまして(笑)これで、なんとか声優でやっていけるかも?と思いました」と語っている。
その後『トップをねらえ!』・『らんま1/2』・『となりのトトロ』(草壁サツキ)など知名度の高い作品に多く出演されます。
また、1989年の『ピーターパンの冒険』では、レギュラーキャラクターでは初となる少年役を担当されます。
その経緯には以下のような逸話があるそうです。
声優としてある程度有名になった時、事務所のマネージャー達に「『タッチ』はヒットしたが、あれだけ大きな役でヒットしてしまうと次が大変だね」と言われる。若くて上手な後輩がデビューしてくる状況に日高は、声優の仕事を続けるためにはヒロイン以外の役もできるようにならなくてはならないと思うようになる。
ある日、天道あかねとして出演していた『らんま1/2』の現場で、チョイ役(モブ)の少年に、誰かが声を入れなければならない状況になった。このような場合、その場にいる女性声優が担当することになっていたが、その時は日高しかいなかった。しかし、録音監督の斯波重治は、「やっぱり来週録るからいいや」と、少年役の収録を見送った。日高は「斯波さんは私に少年役は無理だと思ったんでしょうね」とその時を振り返り、自身でも少年役をやったことがなかったため「やらせてください!」と立候補することもできず、モヤモヤとした感情を抱いていた。
そのような状況で、どうしたらよいのか考えた結果、これまでの代表作に女の子役が多かった自分がガラッとイメージを変えるには男の子役にチャレンジすることだと思い立ち、当時はヒロインのウェンディ役としてオファーを受けていた『ピーターパンの冒険』で、ピーターパン役を希望する。しかし、音響監督に面と向かって「(ピーターパン役のオーディションを)受けさせてください」と言う勇気がなかったため、音響監督の山田悦司とすれ違いざまに小さい声で「ピーターパンもやってみたいな」と囁いたところ、「何、やってみたいの?」とあっさり返され、すぐ声を録ることになり、結局ピーターパン役に決まった。
『ピーターパン』第1話のアフレコでは力みすぎて声を潰してしまい、その後OAされたものを見ながら「ここをこうすればいいかな」と少しずつ感じを掴んでいった。この声を潰した演技に対し、『ピーターパン』の予告編を観た山口勝平からは、「今度の世界名作劇場の主役は声が汚いですね!」と、共演している『らんま1/2』の現場で冗談を言われた逸話もある。
また、初の少年役ということでプレッシャーを感じて苦しんでいたが、ウェンディ役の松井菜桜子や共演していた島本須美に助けてもらって演じることが出来た。フック船長役の大塚周夫とは、日高と2人で演じるシーンがかなりあり、大ベテランの大塚が相手役であるため、「精一杯の演技で返したい」という思いで、ずっと緊張感を持って演じていた。また、『らんま1/2』録音監督の斯波からは、「良かった!アニメ自体も良かったけど、あなたも良かった!」と誉めて貰えた。
2つ目の本格的な少年役『ふしぎの海のナディア』のジャンは、ピーターパンのはつらつとした芝居と違い、抑える場面や日常的な会話の演技を求められ、「男の子の声になっているだろうか?」との不安があったそうです。また、発明家という設定から脚本のセリフに難しい漢字が多く、漢字が苦手な日高はその面でも苦労があったと語られています。同作のナディア役で共演した鷹森淑乃さんとは現在も親交があり、家が近所ということもあって、一緒にランチを食べては教育問題を語り合う仲だそうです。なお、劇中でのナディアの性格については「自分がジャンの立場だったら“お前なんか勝手にしろ!”と思うシーンが沢山あった」と述べておられます。
さらに劇場版では、17歳に成長した青年のジャンを演じることになり、やりがい・苦労ともに大きかったそうです。ジャン役以降は男性役での出演が増えるようになり、より演技の幅を広げられました。
その後『ドッジ弾平』で主役の一撃弾平を演じ、弾平の相棒である小仏珍念を担当した野沢雅子との共演を通して、少年役を演じる上での心構えや少年の色々な感情の演じ方を学んだと述べておられます。
1991年、山寺宏一氏・関俊彦氏とともに芝居『@@ザ・スタースパングルド・ガール::』を公演。その後、山寺・関とユニット・バナナフリッターズを結成し、ラジオやCDリリース、舞台などで、1995年まで活動されました(2016年に再起動しているようです)。
1992年5月の末(30歳になる前)に、ラジオ番組「日高のり子のはいぱぁナイト」の仕事で知り合った2歳年下のディレクターと結婚されました。
2006年3月に81プロデュースを退社、その後、夫の個人事務所「BIG MOUNT」の所属扱いで活動されていましたが、2009年1月19日に新事務所「コンビネーション」を、タッチで共演以来の旧友である三ツ矢雄二氏と共に設立されました。
2015年、山崎和佳奈さんと松井菜桜子さんとアイドルユニット「backdrops(バックドロップス)」を結成し、『Don't fly!』でデビューされます。
2017年1月9日、テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第21位に選ばれます。
2017年10月20日、愛知県のLOVEあいちサポーターズ あいち緑と仲良し大使に任命されます。
2018年8月6日、近藤夏子(シンガーソングライター)、ギターウルフのセイジと共に、島根県ふるさと親善大使「遣島使」に就任されています。
日髙さんの作品は数えきれないほどあるのですが、最近の様々なお仕事の紹介としていくつかアマゾンで買えるものをここに紹介します。
めぐめぐがすごいと思う日髙のり子さんのこと
1アイドルから声優になられる時、一人のリスナーの方の意見を
聞いて思い切って声優に挑戦されたこと。
2声優になられてからも、自分の幅を広げるため、絶えず新しい挑戦を続けられたこと。
3そして現在も様々なメディアで活動されていること。
もしサポート頂けたらとても嬉しいです。頂いた貴重なお代は本代にいたします。どうぞよろしくお願いいたします!