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『小さなことに左右されない、「本当の自信」を手に入れる9のステップ』〜メモと気付き②〜


前回の記事を書いて以来、今までどんな「BE」だったかな?と、ふとした時に考えるようになった。

人間って不思議なもので、「受験に合格した」とか「いじめられた」とか、大きな出来事に対して意味付け(ラベリング)をし、そこから自分の価値を決めてしまいがちということに気付いた。

たとえば「受験に合格した自分はすごい」とか「いつもいじめられっ子な自分はダメなんだ」といったように。

勇気を出して、思い出したくない記憶を辿っていくと、実はいつもそこに「がんばっている自分」がいたことに気付いた

夢を持って努力して留学したのに、追いかけていた夢が本当に自分が求めてものでなかったと気付いたときの衝撃。「こんなに頑張ったのに」とか「応援してもらったのに結果に結びつけられず、恥ずかしいし悔しい」と。でも本当は、結果よりも「その時どんな姿勢でいたか」の方が大事なのかもしれない

たとえば、どれだけ社会的に価値のあることを成し遂げても、ある人にとっては簡単なことで、適当に出来てしまうことかもしれない。あるいは、たまたま運が良くて出来てしまったことかもしれない。

しかし、たとえ一生懸命頑張ったのに失敗してしまっても、その人の物事に対する誠実さは、真実である。どういう経緯で得たか分からない結果よりも、「どんな姿勢でいたか」ということ以上に確実なことはないな〜と思った。

小学校や中学校のとき、運動会のクラス対抗競技で負けてしまったときも、先生は「頑張ったことがすごいこと」と言ってくれていたけど、そういうことなんだと思う。その時はただ悔しくて、「どんな姿勢でいたかが大事」なんて思いもしなかった。

いつからだろう、私たちがいつまでも変えられない過去の結果に執着し、そこに辿り着くまでの準備や姿勢のことを忘れてしまったのは。

自信は「マインドフルネス」から

自信とは、その場その場で吸い込む空気のようなもの。「空気がおいしい」と感じるのは、まさにリアルタイムなものですね。自信も、いったんつければ大丈夫なものではなく、リアルタイムで感じていくものです。

水島先生の言う「リアルタイム」さとは、瞑想や呼吸に関してよく耳にするようになった「マインドフルネス」と大きな関係があるかもしれない。

マインドフルネスとは、過去や未来のことに煩わされず、「いま、ここ」を味わうこと。

たとえば、呼吸なら「今、息が鼻を通って肺を満たした。そしてお腹から口を通って息が抜けていく」という一つ一つの工程を味わうこと。

瞑想で言うと、心に浮かんでくることを追いかけず、「あ、今〇〇のことが思い浮かんだ」とか「鳥の鳴き声が聞こえる」とか、一瞬一瞬の心や体の変化を感じること。

確かに、過去のことに執着してくよくよと悩んだり、未来のことに対し不安を抱く状態は、「自分に対してよい感じ」を感じている状態ではないだろう。

「BEの自信」とは、何をしようと、自分についてよい感じ方をすること。・・・これは、自分に対して「よい評価」をすることでありません。

「マインドフルネスを大切にしなければならない」と、評価や義務が入ってくると、また「マインドフルになれなかった自分はダメ」とか「マインドフルである自分はなんて素晴らしいんだろう!」という評価が入ってくると、また成果に縛られてしまうことになる

「過去に執着している自分はダメだ」とか「未来のことに不安を感じている、いけない」と自分に厳しくなるのではなく、

「過去に執着したいことがあるんだね」とか「将来が不安なんだね」と、そんな自分をも受け入れてあげることが大事なのかもしれない

そうすることによって、「どんな自分をも受け入れられる自分に対して、良い感じをする」というリアルタイムの自信につながっていくのではないだろうか。

「自信のなさ」と「衝撃を受けた」を区別する

前回の記事でも挙げたが、「自信がある」「自信がない」という言葉の使い方が多岐にわたりすぎていて、自己肯定感とか自尊心といった、「自分をまるっと受け止めること」とそれ以外が区別しづらい。

人がよく自信をなくすきっかけとして、水島先生は「心が衝撃を受けたとき」を挙げている。

しかし、普段の自分が感じている「自信のなさ」と衝撃を受けたときに感じる強烈な「自信のなさ」とは、明らかに別の性質なものです。

「あー、これはあるある」と納得してしまったのは、人と比べたときの感じる、強烈な劣等感。「この人は自分と歳も変わらないのに、こんなにみんなから認められていて成功して・・・」と比べるときの惨めさと言ったら。

「どうして自分はこうなんだろう」と自己嫌悪を感じてしまうとき。それは、実は「なりすましの『自信のなさ』」らしい。

後者は単なる「衝撃を受けたときの一連の反応」に過ぎず、もともと感じている「自信のなさ」とは無関係で、やがてはおさまっていくものなのです。

「衝撃」から身を守る

その「衝撃疲れ」で身近なのがSNS疲れかもしれない。SNS上のリア充な投稿は、自分が元気なときは純粋に共感できるが、心が疲れていると羨ましく思ったり、そういう「成功」を収めていない自分に対して焦ったり感じたりする。

私も、仕事を辞めて2年間ぐらい、SNSを見ては「自分に足りないもの」を感じて焦って辛かった。なので、それまで10年近く毎日のように使っていたフェイスブックを辞めた。

日常に溶け込みすぎていて、そんなことできる?と思ったけど、1ヶ月後には慣れてきて、自分の生活がとてもシンプルになった。それまでは、写真を撮っては「あれを投稿しよう」「これを投稿しよう」と、日々自分をよく見せるための投稿に勤しんでいたが(笑)、それが無くなると本当にスッキリ。

そして、「ただの集まり」には参加しなくなった。特に大勢の集まりだと、そんなに親しくない人と話すこともある。自分の状態に自信が持てないとき、わざわざ近況なんてアップデートしたくない。

しかし、そうやって自分が衝撃を受ける機会を減らすことも大事だと、水島先生は言う。そして、そんな自分に対してダメ出ししなくてもいい、とも。

「行かない」という「形」に対して後ろめたく思うのではなく、「自分を大切にしたいという心の『あり方』を保ったことで、自分を衝撃から守れた」と、よい感じ方をすればよいだけのことなのです。

誰かと比べて「なりすましの『自信』」を失ったとき、まずは「あ〜、今自分は衝撃を受けたんだな」と観察してみる。

そして、衝撃を受けたときは「『今はこれでよい』と『今』に集中することが必要なのです。」とのこと。ここでもマインドフルネス。

「今はこれでよい」も、なんだか哲学的だなと思ってしまった。

こんな今の状態も何か大きな流れの一つ。きっとすべて上手くいく。

もしかすると自信とは、自分よりももっと大きな存在や流れに身を任せることなのかもしれない。自分をまるっと受け入れること、そしてそんな自分が存在しているというこの世界を信頼すること。

自分というちっぽけな存在を信じられないときは、そっちを信じてみてもいいかもしれない。

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