#3 読書で世界一周 |戦争は女の顔をしていない 〜ベラルーシ編〜
「読書で世界一周」は、様々な国の文学作品を読み繋いでいくことで、世界一周を成し遂げようという試みである。
3カ国目である今回は、ベラルーシ。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの『戦争は女の顔をしていない』を取り上げる。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ|戦争は女の顔をしていない
著者のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんは、ウクライナに生まれ、ベラルーシで育った。大学卒業後はジャーナリストとして活動し、時に国家や政治と対立しながら、偏見に満ちた戦争の見方を問い直す執筆活動を続けている。その功績が認められ、2015年にはノーベル文学賞を受賞している。
『戦争は女の顔をしていない』は、彼女の第一作だ。第二次世界大戦に従軍した女性たちのもとを著者自ら訪れ、彼女たちの声をそのまま書き留めた記録文学である。
本作にはストーリーやプロットはなく、女性たちへのインタビューの記録が、等しく並べられている。時折著者の言葉による解説や分析が挟まり、読者の道案内のような役割を果たしている。
スヴェトラーナさんは戦後間もない1948年生まれ。戦争の傷跡が色濃く残る子供時代を過ごした。彼女は戦争を嫌っていた。
学校の図書館にある本の半数が、戦争に関する本だった。そしてそれらの本は押しなべて、男性の戦争観によって書かれていた。
戦争史や戦争文学、戦争に関する記録には、「男性神話」とも言えるジェンダーの偏りがある。英雄的な功績、身体的・精神的強靭さの信奉、国家に身を捧げる自己犠牲の精神、大いなる勝利の物語。そこには、女性の視点、女性の声は基本的に存在しない。女性が体験し、心に刻みつけられた戦争の記憶は、長らく抑圧・排除され、表に出ることを許されなかった。
スヴェトラーナさんが本書に記すのは、女性たちの戦争の物語だ。女性たちが見聞きし、身をもって体験した戦争。長い間彼女たちの中に押しとどめられ、掻き乱され、そしてついに、外の世界へと飛び出した悲痛の叫びだ。
連なる女性たちの声
私が最も驚いたのは、戦士としての誇りを持つ女性が、本書に非常に多く登場することだ。狙撃兵、通信士、高射砲兵、飛行士、パルチザン—―彼女たちは国のために自ら志願し、積極的に戦争に参加した。渋る上官に対し、自らを前線に送り込むよう懇願した。
戦争に対するイメージが覆された。このようなギャップを感じている時点で、私自身、これまで男性中心の戦争観に囚われていたということが明らかだ。
10代の若いうちに、戦争に直面した女性たち。当時の政府の教育方針や、プロパガンダの影響も大いにあっただろう。彼女たちは、自分が死ぬところなど想像すらしていなかった。若さゆえの無鉄砲さと楽観。自分たちの可能性を疑うことなく、戦争の渦中へと自ら入っていく。
本作にあるのは、声の連なりだ。
次々に流れていく、記憶のフィルムテープ。その中で徐々に形作られていく、「本当の」戦争の姿。
本作に登場する女性たちの立場は様々だ。前線で血みどろの戦いを目の当たりにした者、看護士として多くの悲惨な死に立ち会った者、地下活動家として爆撃の雨を潜り抜けた者—―。
そして、戦争を振り返ったとき、それをどのように受け止めるのかも、人によって全く異なる。思い出すのも苦しく、なかったこととして記憶に蓋をする者。勲章を大切に保管し、当時の功績を誇る者。戦禍の中で経験した恋愛を思い起こし、ロマンティックな感情を抱く者—―そのどれもが、紛れもなく、「本当の」戦争の姿だ。そこには、正義か悪かの尺度など存在しない。
声が連なるごとに、私の心がガリガリと引っ掻かれ、次第に何かが剥がれ落ちていくのを感じた。心が剥き出しになり、外気に晒される恐怖を感じた。彼女たちが抱く戦争への恐怖に、直結する恐怖のようだった。
全く異なる立場の女性たち、ひとりひとりの声。インタビュー内容は個人的体験の連なりだが、読み進めていくうちに個々の点としての体験談が線となり、ぼんやりとした像を結び始める。それがどんな物語なのか、はっきりとは掴めないが、何かが見えてくる感覚だけある。
物語の像ははっきりと掴めないが、それでも、女性たちひとりひとりが戦った勇姿が、戦争に打ち勝った強い心が、本書に存在していることは確かだ。兵士も看護士も料理係も、どんな戦争体験をした人も、それぞれに戦争と戦い、そしてそれぞれに勝利したのだ。戦局上大きな功績を残したかどうか、そんなことは関係ない。
そして、とあるパルチザンの女性が語った言葉が、強く印象に残っている。
「戦争を聞く」ことの難しさ
ここでは、インタビュアー、聞き手としてのスヴェトラーナさんに注目したい。
これまで抑圧されてきた女性たちの、心の奥底に眠る真実の声を引き出す。これは、どれほど難しい作業だろう。著者は、聞き役に徹することを基本姿勢とする。踏み込みすぎず、かといって距離を置きすぎず、常に自身の立ち位置に迷いながらも、様々な高齢女性から話を聞く。
女性たちの声を記録すると言っても、女性たちが話したことを、すべてそのまま記述すればよいというものでもない。聞き手である著者は、女性たちの口から発せられる事実と脚色を、聞き分ける必要がある。
時代の経過とともに形成されてきた、男性中心の戦争観。女性たちは、知らず知らずのうちにその戦争観に影響され、結果として真実が語られないこともある。インタビューに同席する夫や家族のことを慮り、建前しか語られない場合もある。
心に重い蓋がされ、真心からの、打ち解けた話ができない。過度に理想的な、明らかなフィクションが語られる——戦争の聞き取りは、一筋縄ではいかない。
そういうとき、著者はその物語をそのまま受け止めるべきか、それともその奥にある真実の声を引き出すべきか。正解はないが、それでも著者は決断しなければならない。著者が介入して引き出した言葉は、本当にその人自身の言葉と言えるのか。それはもはや、著者による創作と呼べるものになってしまうのではないか。
戦争文学、記録文学の難しさが、ここにある。彼女が本作を執筆するにあたって貫いた姿勢が、果たして正しいものだったのか、その答えは誰にも分からない。戦争体験を語った当事者ですら、自身の言葉が正しいのか、判別がつかないことだってあるのだ。
きっと、この作品を読み、女性たちの声を受け取った読者が、それぞれで噛み砕き、考え、納得するしかないのだと思う。著者が果たした功績は、女性たちの声を多くの読者へと運び、考える機会を提供してくれたことだ。戦争に関する新しい議論を、世界に訴えかけたことだ。著者は、その重みを理解し、本作を執筆する過程で以下のように感じたという。
戦争は、絶対によくない。一度生じた亀裂を修復するのは困難で、非常に長い年月がかかるし、決して消せない禍根が残る。
ロシアとウクライナ。彼らのわだかまりが解ける日が、一日でも早く訪れることを願う。『戦争は女の顔をしていない』を通じて、戦争の渦中にいるロシアの方とウクライナの方の、ひとりひとりの個人的な体験、生活を想う。彼らの声が、抑圧されることなく外に届くような世界であるように、私たちは本書から学ばなければならない。
「読書で世界一周」、3カ国目のベラルーシを踏破。次の国へ向かおう。4カ国目は、ポーランドだ。
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