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ミシェル・フーコー(「狂気」と「権力」)


話題に事欠かない超有名人

 今回はミシェル・フーコー(1926〜1984)です。ミシェル・フーコーはフランスの哲学者、歴史家です。スキンヘッドとメガネという見た目が特徴的で、同性愛者としての自己に苦悩し、さらにHIV/AIDSの合併症で亡くなったというエピソードも印象的です。

 フーコーについては主題がたくさんあり、どれも興味深いですが、ここでは、「狂気」と「権力」について紹介したいと思います。

フーコーの「狂気論」

 まずは「狂気」です。これはとても強い言葉ですが、昔のそれはそこまで強烈な意味はなかったと言われています。フーコーは哲学者であり、かつ歴史学者という面を持っています。過去の膨大な資料に目を通して、そこから時代毎に特徴的な認識があることを発見し、それを「エピステーメー(知の枠組み)」と呼びました。

 我々はついつい、過去の人たちも、今の時代を生きる私たちと同じ様な思考をすると思いながら歴史のことを考えてしまいますが、人間が「考える枠組み」は時代によって異なるのです。例えば、昔の日本の武士は「切腹」をしましたよね。これは「命よりも大事なもの」があるという思いが無いと絶対にできません。今の時代は「命が一番大事」です。これだけでも大きな違いがあることがわかります。

 では、昔の「狂気」とはどういうことを言ったのでしょうか。昔の「狂気」は、今よりも身近な存在であったとされています。例えば、キリスト教の教祖であるイエスは当時「狂人」扱いされていたみたいですが、これは「狂っている」というよりは「神霊的」であるという方が近いですね。「超自然的な何かを感じる人」を、昔は「狂人」と呼んでいました。そして、「狂人」は、神や悪魔が信じられていた時代には、至極当然の存在だったのです。

 一方、現代の「狂人」はどうでしょうか。もし「狂っている人」が近くにいたら、「警察」に通報し、捕まえてもらって、「病院へ送る」ということになるでしょう。「狂っている」ということは「何をするかわからない」ということであり、それは「危険」であるという判断です。

狂気は隔離されるべき存在なのか

 フーコーはここを指摘します。つまり、昔はより身近な存在であった「狂人」が、「隔離され」て「治療を受ける」というように変容していった。これは「社会をより住みやすくするためだ」という主張もあるでしょうが、それに対しては「それはマジョリティが住みやすい場所のことだろう」という反論もできてしまいます。

フーコーの強烈な体験

 この狂気に関してフーコーは衝撃的な体験をしています。それは、フーコーが医者を目指し、ある病院で実務をしていたときの話です。フーコーはそこにいたロジェという患者と親しくなったそうです。ロジェは通常は「知的で卓越した若者」だったそうですが、一度荒れてしまうと、彼は自己破壊的な行動をしてしまい、いずれ自殺してしまうと医者たちは判断しました。その様な場合に、当時の精神科医に残された治療法は「前頭葉ロボトミー手術」だけだったそうです。これは、脳の前頭葉を物理的に切断するもので、それを行なわれた患者は、「以前とは別の人格」になるとか「廃人」になるとか言われていますが、いずれにしても現代では考えられないように非人道的な治療法でした。そして、フーコーはこの経験から精神科医を目指すことを断念したそうです。

 もちろん「暴れるような人とも仲良くしなさい」などと言うつもりはありません。でも、「多数派」では無い人を「狂人」とはしなくても、「ちょっと危ない人」として「排除」したくなるような心性が我々に内面化していないかという自己点検する視点は大切だと思います。

オタクは怖い?

 例えば、「少女アニメが好きで、チェックシャツを着てバンダナを巻いているリュックを背負った男性」を「アニメオタク」として、その彼を「小児性愛を持つ危険人物」と見なして避けるなんてことはないでしょうか。そのような設定の漫画ならたくさんあるような気がしますが、当然、これは単なる「偏見」であり、逆に清潔感のあるスーツ姿のイケメン男性が犯罪を犯すことだってあります。

 そして、これは「狂人」だけの話では無いのです。「多数派に馴染めない少数派」を排除してしまうような社会の傾向をフーコーは指摘しています。そしてその指摘を真っ直ぐに受け止めないといけないのが現代の学校なのです。

少数派を排除する学校

 現在、僕の勤める自治体では特別支援学級に在籍する児童がどんどん増え続けています。「LD」、「ADHD」、「ASD」、「HSP」などこれらの「障害」のカテゴリーは、ここ数年の間にどんどん増えてきており、今後もさらに増えていくことでしょう。この傾向は、学校教育がどんどん「秩序化」されていく中で、その「特殊な環境」に適応できない子どもたちを、「隔離」して「特別な支援」を受けさせる流れとも捉えることはできないでしょうか。

「障害」を生み出す教室?

 僕自身も特別支援学級担任を経験したことがあるからよくわかるのですが、これらの「障害」が「顕在化」するか「潜在化」するかというのは、実はかなりの程度「学習環境」に左右されるという側面もあるのです。

 例えば、「立ち歩きを一切許さず、45分間の着席を強制される学級」の場合、「ADHD」の子は「手がつけられない子」と判断されるでしょう。一方で、「教師の一斉指導を極力減らし、個人での学習やグループでの学習など、学習の多様性を認めている学級」の場合、先ほどの子の障害は「気にならない」のかもしれません。

HSPを知っていますか

 最近、注目されている「HSP」という言葉があります。これは「ハイリー・センシティブ・パーソン」の頭文字を取った言葉で、様々な刺激に対して敏感な特性を生まれつき持っている人のことを指します。僕が以前、受け持った不登校傾向の女の子は「担任の先生が全体指導の際に出した大きな声」がきっかけで、学級に通えなくなってしまいました。「そんな些細なことで・・・」という反応も、もしかしたらあるかもしれません。でも、僕はその女の子が学校に通える様に一年間様々なケアをしてきたので、とても「些細なこと」とは思えないのです。彼女が「大きな声は暴力であり、丁寧な指導を心がけている教師」の学級で過ごしていたら、と想像せずにはいられません。

 いずれも、昔の学校では「通常学級の中」で「もみくちゃ」になりながら育っていた子どもたちなのかもしれません。昔の学校には「特別支援教育」なんてありませんでした。そのような状況を「放置」と捉え、そうではなく「適切な支援」が受けられてよかったね、とする考え方もあるかもしれませんが、その根本的な部分に「多数派に馴染めない少数派」を排除する指向性がありはしないでしょうか。

秩序化という名の少数派の排除

 これは、フーコーの権力論とも関係がありますが、現代の権力は「秩序化」を進めていると考えられます。「少数派」を「異質なもの」と捉えて、多数派の邪魔をしないように、見えなくなるように隠してしまう。でも、そうやって多数派の都合の良いようにしていくと、学校の子どもたちの多様性は失われ、どんどん「均質性」を高めていくのではないか。そんな危機感をフーコーの思想は感じさせてくれるのです。


フーコーの「権力論」

 フーコーの主題には「権力論」もあります。権力とはどういう意味でしょうか。一般的には「権力者」がいて、それに「服従させられる人たち」という図式を思い浮かべるかと思いますが、フーコーの権力論は、この認識を覆します。フーコーの権力論についての記述を引用してみましょう。

権力は下から来るということ。すなわ、権力の関係の原理には一般的な母型として、支配する者と支配されるものという二項的かつ総体的な対立はない。その二項対立が上から下へ、ますます局限された集団へと及んで、ついに社会体の深部に至るといった運動もないのである。むしろ次のように想定すべきなのだ、すなわち生産の機関、家族、局限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっているのだと。

ミシェル・フーコー著『性の歴史1 知への意志』渡辺守章訳 1986 新潮社

 権力は「下から来る」とはどういうことでしょうか。先ほどのまでの話と絡めてみると「多数派」というのが「権力」を持っていることになり、「少数派」が「排除される弱者」ということもできます。

 教室でもそうですよね。ドラえもんに出てくるジャイアンみたいな少数派の集団が権力を持っているという構図もあるかもしれませんが、それよりは、いわゆる「普通」である「多数派」が、「少し変わっている」ような「少数派」を排除しようとする力関係の方が、よく見かけるような気がします。つまり、権力とは「教師」という権力者が一方的に振るうだけでなく、多数派の子どもの側からも来るという捉え方もできるのではないでしょうか。

同質性の高い教室環境

 教室というのは極めて「同質性が高く」なるように設計された集団だと感じます。同じ地域で同時期に生まれた子どもを学級集団として狭い教室に鮨詰めにし、一日中同一課題をやらせて、時には競わせる。清掃も給食もみんな集団行動が強いられている。そんなことを繰り返していけば、「そういうことが苦手な子」というのはすぐに「炙り出せる」ことでしょう。そして、その子に「障害」というレッテルを貼って「適切な支援」を受けてもらうために「排除」する。こう書くと憤慨される方もいらっしゃるでしょうが、「そういう視点」を持つということは大切だと思います。

 少なくとも、僕はフーコーを学んでその視点を手に入れてからは「現状維持」ではダメかもしれない。もっと「より良い」支援の形があるかもしれない、と考えるモチベーションは生まれました。もちろん、それは制度との戦いでもありますので、容易なことではありませんが、かといって「制度ですから」と割り切って、その権力構造に加担はしたくない。物事を捉える視点が増えるということは、それだけ葛藤の場が増えるということです。でも、それは良いことではないでしょうか。ただでさえ「秩序化」が進み、「スッキリさせたい」という社会の流れの中で、学校の中くらいは、子どもたちの「多様性」を認め、少々ワイルドだけど、それでもそれぞれが「息苦しく無い」ような空間を作ってしまっても。

パノプティコン(一望監視施設)

 さて、フーコーの権力論の話では「パノプティコン」の話が有名です。パノプティコンについては図を参照してもらえる方がわかりやすいとは思うのですが、イギリスの哲学者・経済学者ベンサム(1748〜1832)が考案した監獄のシステムです。

パノプティコンのイメージ

 これは、ドーナツ型をした監獄に囚人用の独房があり、その真ん中に監視塔を建てているという設計です。独房には窓がなく、監視塔しか見ることができないという構造から、囚人は「常に見られている」という「感じ」を受け続けることになるのです。このシステムのすごいところは、仮に「監視塔」に誰もいなかったとしても、この「感じ」は維持されるという点です。つまり、自分で自分のことを自己監視しているとも言えます。以下にパノプティコンに関するフーコーの記述を引用します。

 今や各人は、然るべき場所におかれ、独房内に閉じ込められ、しかもそこでは監視者に正面から見られているが、独房の側面の壁のせいで同輩と接触をもつわけにはいかない。見られてはいても、こちらには見えないのであり、ある情報のための客体ではあっても、ある情報伝達をおこなう主体にはけっしてなれないのだ。

ミシェル・フーコー著『監獄の誕生ー監視と処罰』田村俶訳 1977 新潮社 p202

 

教室はパノプティコン?

 僕はこの文章を初めて読んだときに「パノプティコン=教室」という図式が浮かんで、頭から離れなくなりました。だって、これはそのまま教室の説明じゃないですか。教室においては、子どもたちは「然るべき場所」に座り、正面にいる教師からは、子どもたちの一挙手一投足のすべてを監視することができ、でも子どもたちは授業中に自由におしゃべりすることは許されていない。子どもたちは、授業内容に合ったことしか話せないのだから「ある情報のための客体」であり、子どもたちから何かを発信する「主体」には決してなれない。

 書いていて、嫌になってきてしまいます。教師という自分にはこんなに権力が付与されていたのかと。それもそのほとんどは無自覚的にです。でも、そこに自覚的である方が無自覚よりは良いのでしょう。

学習評価も権力論

 「ある情報のための客体」という言葉は、そのまま「評価」という文脈で考えるとわかりやすいと思います。「指導と評価の一体化」が盛んに言われる中で、教師は「評価材料集め」に追われています。「目標に準拠する評価」が導入されて、それまでの「相対的な評価」の頃のように「同一課題をやらせて序列化しておしまい」が許されなくなったのです。だから、これまで以上に多くの「評価材料」が必要になる。指導案を書く時などは、単元のどこで「評価活動」を入れるのかというのは、指導案検討会での重大なテーマです。でも、これこそまさに子どもたちを「ある情報のための客体」としてしか見ていないことになりますよね。だって、学習評価では「授業内容に沿った発言や行動」において評価がなされるわけですから。

 学習評価をつきつめると、子どもたちは「面接試験における受験生」状態になります。面接試験の雰囲気は厳しいですよね。「何か間違ったことをしてしまわないかな・・・」と常に不安な気持ちにさせられます。人は「査定されている」と感じると、身体が強張り、その本来のパフォーマンスを発揮できなくなります。そんなもの教育ではありませんよね。面接試験は一時的なことですぐに終わりますが、授業は一年中続くわけです。

現代社会はどこでもパノプティコン

 フーコーはパノプティコンの事例を「一般化が可能な一つの作用モデル」と述べています。実際、これは病院などの施設でも説明できてしまうのでしょう。近代の権力論はこのように「権力者の不可視化」をすすめてきたのです。つまり、教室においては権力者たる「教師」がいますが、このように「見られている」という経験を積むことで、子どもたちは「見られているかもしれない」となって、自己への監視を強めていくのです。大人しくなっていくということですね。これは、良いことのようにも感じます。しかし、「大人しい」というのは「権力に従順である」ということでもあり、それを達成していくのが「教育の役目」であると言われると、文科書の「主体的で対話的で深い学び」が虚しく響いてしまいます。教育基本法にもある「社会や国家の形成者」というのが「権力に従順な人間」であるはずがありません、と書いたあとで、いやそうかもしれない、なんて思っている自分もいるのですが。

王様がいた時代の権力論(死の権力と生の権力)

 ちなみに、フーコーは、パノプティコンのような権力ができる前を「王様がいた時代」として、そこには別の権力が作用していたと述べています。つまり、王様という絶対的な権力者がいた時代は、「公開処刑」という形で「権力」を誇示していた。「王様に逆らうとこういうことになるんだな」ということです。でも、逆に言えば「バレなきゃ良い」ということでもあるのです。それぞれが自分を自己監視するというよりは、もっと「ゆるやかな」権力だったのではないか、ということです。もちろん「殺される」というのもかなり強烈ではあるのですが、権力の質はなんだか違う感じがしますよね。このような「王様のいた時代」の権力を「死の権力」と呼び、それ以後の自分で自分を自己監視させるような権力を「生の権力」と呼んでいます。

規律訓練(ディシプリン)と生政治(バイオ・ポリティクス)

 さて、フーコーの権力論はさらに進みます。ここまで書いてきた権力を「規律訓練」と呼びます。柔らかい言葉でいうと「しつけ」でもいいかもしれません。それらは子どもたちの「内面」へと介入していくことで、自己監視させる意識を育てていったとも捉えることができます。一方、権力は個々人の内面に働きかけるだけでなく、集団にも即物的に働きかけるようにもなります。こちらの権力を「生政治」と呼びます。その違いについては、『現代思想入門』(講談社現代新書)などで有名な千葉雅也氏の説明を引用しましょう。

新型コロナ問題を例にしてみると、「感染拡大を抑えるために、出歩くのを控えましょう」といった心がけを訴えるのが規律訓練で、「そうは言ったって出歩くやつはいるんだから、とにかく物理的に病気が悪くならないようにするために、ワクチン接種をできるかぎり一律にやろう」とうのが生政治です。

千葉雅也著 『現代思想入門』講談社現代新書 2022

 つまり、内面への働きかけは「効果が見えにくい」から「効果が見えるような」即物的な働きかけをするのが生政治です。そして、これを教室での活動に当てはめてみたいと思います。

「生政治」的な学習活動

 教室では子どもたちに「書かせる」という活動を頻繁に行わせます。「書く」という行為によって学べることがあるということ自体は否定しませんが、学校ではあまりに「書く」ことに偏重過ぎはしないかと感じるのです。例えば、我々大人だって学ぶことはありますが、そこまで「書く」のかなと疑問に思うわけです。もちろん、書いている人もいます。しかし、ほとんどの人は「聞いて」いるのではないでしょうか。

 教師が学ぶ場である「研修会」などでも、講師先生の言うことをしっかりと書いている人も中にはいますが、それは少数派であり、多くの人は「聞いて」理解しようとしています。

 僕自身もこうやって原稿を書く時には「キーボードで入力」しますが、紙に文字を書いたりして学ぶことは、学生の頃に比べればずいぶん減りました。

 いろいろな人がいて、いろいろな学び方があることは至極当然なのですが、なぜか学校という場では「書く」ことが重視され過ぎている気がします。そして、それこそが学校という権力が子どもたちに対して生政治をしているのではないかなと、僕は感じるわけです。

 どういうことでしょうか。つまり、こちらが「教えている内容」を子どもたちが「理解しているか」というのを確認する方法は非常に困難です。テストをすれば「理解度を数値化」できないことはないでしょうが(それでも子どもの理解のごく一部です)、毎回の授業でテストをするわけにもいきません。そこで「書かせる」という実践が出てくるわけです。「理解しているか、していないかなんてわからない」からこそ「とりあえず、ノートに書かせておけば、理解してそうである」というわけなのです。実際、教師も保護者も「黒板の内容をきれいに写せている紙」を見ると「あぁ、よく勉強しているな」と満足される方がほとんどです。しかし、それは「その子の理解」とは「まったく別物」と考えてもいいでしょう。子どもたちが学校で書かされることの多くは「教師が黒板にまとめたこと」で、それを写して書いているのがノートなのですから。

 子どもの中にだって「書く」ことに「多大な負担」を感じる子はいるはずで、そういう子は「聞く」でも十分に理解できるはずなのですが、なぜか学校では「どの子にも」書かせます。だから、「多大な負担」を感じてしまう子は「書くこと(写すこと)」にすべてのエネルギーを使ってしまい、思考したり発言したりする機会を奪われていることも大いにあります。

 管理という側面で考えても、「書かせる(写させる)」というのは有効です。子どもたちに「話をさせる」とか「質問させる」学び方を認めると、教師はそこへの「対応」が求められます。そして、それを「30人以上で」行っていくためには、教師の高度な指導技術が求められるでしょう。一方、教師が話し、黒板に書いてまとめ、それを子どもが写すという授業スタイルは「一方向的」であり、教師に高い技術を求めません。そこに必要なのは、子どもの主体性でも教師の指導技術でもなく「静寂」だからです。

「生政治」の有効活用

 ここまでは学校の授業における「生政治」の負の側面について述べてきましたが、一概に「生政治」的な考えが悪いと言っているわけではありません。僕は「生政治」的な考えを利用している部分もあります。算数科の事例で考えてみましょう。

 算数科ほど「理解しているか」が求められる教科というのはありません。他の教科であれば「答えが合う」ということをもって「理解している」と判断されることがほとんどですが、算数科においては「しっかりと理解しているか」というのが、時にはしつこいくらいに確認されることがあります。かけ算を例に取って考えてみましょう。

かけ算順序問題

 かけ算には「一つ分×いくつ分」という「かけ算をする順序」が示されています。これは導入期でも、活用期でも同様です。高学年になっても、この順序は教科書に載っています。しかし、我々はそれを教えながらも、同時に、かけ算には「交換法則」があることもしっています。つまり、「かけ算は数値を入れ替えても答えが同じである」ということです。これは九九を習いたての子どもでも直感的に理解できます。

 しかし、算数科では「教えたことをしっかり理解しているのか」というのがしつこいくらいに求められますので、「答えが合っていても、バツ」という他の教科では起こり得ない不思議なことが発生します。それは「式が間違っている」というものです。つまり「いくつ分×一つ分」をしているということですね。実際、テストの問題でも「子どもたちにわざと間違えさせる」ように、「問題文にいくつ分の数値から記述し、その後に一つ分の数値を記述する」という手法はよく見られます。子どもははじめ、これに対して戸惑います。「なんで、答えが合っているのにバツなの?」、それに対して教師は「かけ算は一つ分×いくつ分と教えたでしょう」と答えるのです。子どもはわかったような、わからないような顔をしながら、とりあえず直します。

 でも、実は、この指導には問題があって、あまり長く論じることはできませんが、「一つ分」とか「いくつ分」は「多様である」という視点が教師側に抜け落ちていることがほとんどなのです。例えば、「長方形」は見方を変えれば「たて」が「よこ」になるように、「一つ分」は必ず「一つ分」ではなくて「いくつ分」になり得るのです。そして、この「かけ算順序問題」は、そういう算数科のもつ「多様な視点の育成」という点において、問題があると言わねばならないのです。

 ということで、算数科では「理解しているか」を測定することに意識が向き過ぎて「答えが合っているのに、バツ」という自体が起きてしまうのですが、その教師のバツは往々にして「教師の視点の狭さ」が原因であり、理不尽なバツなのです。そこで、「生政治」を活用しましょう。つまり、「もう理解しているかどうかなんて、よくわからないのだから、とりあえず答えが合っていたら丸」ということです。

子どもが教師を超えている可能性

 これに違和感を感じてしまう人は、「子どもたちは自分の教えたことを理解しているか」についての自分の感覚を少し疑った方がいいかもしれません。人はそれぞれの方法で思考します。決して、あなたと同じ思考がスタンダードではない。それこそあなたには理解できないようなとんでもない思考で答えまで辿り着いている子もいるかもしれない。それを「式が正答例と違うから」という理由でバツにしていいはずがありません。正当例は、あくまで「例」なのです。

 そもそも、仮にその子の理解の仕方が間違っているだけであるならば、他の問題の答えは「合わない」はずでし、他の問題の答えが「合っている」ならば、やはりその子の思考は「正解である」と推定しても過たないはずなのです。

 このように子どもを「管理」したい気持ちが強すぎると、指導には歪みが出てきてしまうことがよくあるので、よくわからない部分は「即物的な」関わり方、言い換えると「ドライな」関わり方がいいのかもしれません。それをフーコーの「生政治」から考えてみました。