見出し画像

ジャック・デリダ(脱構築)


「脱構築」は「二項対立を揺るがせる」

 今回はジャック・デリダ(1930〜2004)です。ジャック・デリダはフランスの哲学者で、「脱構築」などの考え方で有名です。

 脱構築とはどういう考え方なのでしょうか。脱構築を理解するためには、まずは「二項対立」について理解しないといけません。二項対立とは、対立する二つの概念のことを言います。例えば、「戦争と平和」とか「自然と人工」などですね。教育の分野に絡めて言えば、「管理と放任」や「一斉指導と個別支援」などでしょうか。人は思考するときには、一方の考えと、それに対立する考えを比べながら思考することが多いと思います。さらに、議論するときなどにも二項対立はよく使われます。相手の主張に対して議論を展開するときは、相手の主張の対立する考えを推し進めるということもよくあることかと思います。

 「脱構築」はこの二項対立の構造を揺るがせるための思考法です。二項対立とは一般的に「片方が優位」で「片方が劣位」になるように作られています。例えば、先ほどの例から「管理と放任」で考えてみると、「管理教育は良くない」なんて言葉はよく言われてはいますけど、現場レベルで考えれば「放任」なんてもってのほかと考えられています。それは「学級崩壊」という言葉の存在もあるでしょうが、まだまだ「管理偏重」という状況の学校がほとんどなのではないでしょうか。そういう意味では「管理と放任」という二項対立では「管理」が優位で、「放任」が劣位と考えることができます。

 もしくは、「優位・劣位」が納得しにくかったら「現実的」と「理想的」でもいいかもしれません。「管理教育」が「現実的」で、「放任教育」が「理想的」ですね。例えば、新任の先生が「管理と放任」で指導方針を悩んでいたとしましょう。その場合、十中八九、「管理」を勧める管理職が多いことでしょう。「うんうん、放任で学級運営ができるならそれが理想的だよね。でも、それはとても難しいことだから、まずは管理をしていきなさい」。
 まあ、こんな言い方はしないでしょうし、現実は「管理か放任か」という極論でもなくて「その中間」みたいなことになるのでしょうけど、その辺りは、次章の弁証法に譲るとしましょう。

劣位(「放任」)の側に下駄をはかせる

 さて、二項対立には「片方を優位、片方を劣位」に置くような価値観が存在しているという話でした。脱構築はこれを揺さぶるのです。つまり、「劣位」にされている方に下駄を履かせるとでもいいましょうか、劣位側に味方をすることで、我々の「常識」や「当たり前」を崩しにかかるのです。

 先ほどの「管理と放任」で考えるならば、「放任」側に肩入れをするロジックを考えるのです。

「教育という営みには教師と子どもの信頼が必要であり、管理というのはその信頼関係の土台をそもそも掘り崩すのではないか」

「教育は権威に従順な子どもたちを作るわけではない。子どもたちの主体性の育成を考えるならば管理は不必要だ」

「放任の中で子どもたちは失敗もするだろうが、そういう中で試行錯誤する経験こそ教育に必要な体験なのである」

 これらを聞くと、「たしかに管理教育は、非教育的なのではないか」という気がしてきませんか。ただ、学校教育の難しい点として「同調圧力の強さ」というものがあります。あなたが、脱構築的思考を勧める中で「管理教育の問題点」を把握したところで、「管理教育の代案を実践する」ためのハードルが高いのです。あなたの考えに賛同してくれる学年主任ならば良いかもしれませんが、学年主任が「管理教育信奉者」である可能性は十分にありますし、果たして管理職は「あなたの実践の支持者」となってくれるのか、には疑問符がついてしまいます。

「組織」と「個人」の二項対立を脱構築

 では、この話の流れで「組織と個人」という二項対立も脱構築してみましょう。もちろん、今回の二項対立の優位は「組織」であり、劣位は「個人」ですね。「チーム学校」なんて言葉もありますし、日本の学校の「同僚生の高さ」は世界の学校の比ではないそうです。

 学校において「組織」が大切であるということは、「調和」や「一貫した指導」なども大切にされるということになります。小学校教育は六年間、続くわけですから、それぞれの教室での教育がてんでバラバラでは不安になるというのが多くの先生や管理職に抱く感情なのではないでしょうか。学校目標なるものを決めるのも「個人」よりも学校という「組織」による教育を大切にしているということが感じられます。学校組織には「研究」という業務もあり、これの多くは「ある教科の指導法」について、学校全体で同じ課題意識をもって取り組むことです。その場合には、「実践的な統一」を課すことも多く、よくあるのは「掲示物の統一」や「授業の流れの統一」ですね。

 このように学校文化には「組織と個人」という二項対立においては「組織」を優位にする価値観が至る所にあることが感じられると思います。

劣位(「個人」)の側に下駄をはかせる

 では、一方の劣位側である「個人」に味方して考えてみましょう。まず、「組織」を優位に置くということは「教育の画一性」を産むことになります。しかし、教員の特性というのはそれぞれ異なるわけで、特性が違う教員が「画一的な教育」をすることで「それぞれの教員のパフォーマンスが下がる」ということはあり得そうです。例えば、荒れている学校であれば「学習規律を重視しよう」という方針が取られることが多いですが、これは大体「〇〇スタンダード」という表面的な規律の遵守を子どもたちに求めることになるので、子どもたちの「主体性を伸ばす」ような実践を行いにくいということがよくあります。つまり、規律に従順な子どもを育成することに主眼が置かれているので、どうしても先ほどの「管理と放任」の議論と同じような流れになってしまいます。

 さらに、「教育は多様性こそ強みである」という視点から「組織優位」への「揺らぎ」をつくってみましょう。「画一的な教育」が育てる子どもは論理の必然として「画一的な子ども」となります。しかし、予測することが困難だとされる現代社会において「画一的な子ども」を育てることは、果たして「社会の形成者」をつくるという戦略上、有効であるのでしょうか。むしろ、「いろいろな先生がいろいろな教育実践を行う」という戦略の方が、「多様な人間」が育まれるという面でも良いのではないでしょうか。だって、どのような子が未来の社会を形成していけるかの正解がないのですから。

日本の学校教育が世界のお手本だった時代

 少し話が逸れますが、過去に日本が高度経済成長をしていた時代や、バブルの時代などは、世界各国の教育行政に関わる人たちが日本の教育を視察する「日本詣で」をしていたそうです。「敗戦国日本が如何にして経済大国になったのか」という問いの答えを、各国の教育行政官は「日本の公教育」に見たのでしょう。たしかに、「シャカリキにがんばる」とか「滅私奉公」とか「一蓮托生」などの過去の日本に際立った企業風土の醸成には、日本の学校教育が一役も二役も買ったことは、その通りでしょう。そして、それが時代遅れの感覚であることも、またその通りでしょう。

 大体、数年前まで盛んに取り上げられていた、北欧教育の最先端であった「フィンランド詣で」とか、全国学力学習状況調査で上位だった県である「秋田詣で」も、今や過去の話になりつつあります。教育が、経済などのトレンドを追うようになったらダメになるという指摘は、教育などを「社会的共通資本」だと述べた経済学者である宇沢弘文です。社会的共通資本については、専門家集団による専門的な運営が必要なのです。そして、現在はそれの真逆を行っていますね。GIGAスクール構想にしろ、英語教育にしろ、見据えている未来は「経済的合理性」です。

 最後に少し話が逸れてしまいましたが、デリダの脱構築的な思考は、様々な場面で使うことができます。自分の中の「当たり前」となってしまっている二項対立を揺るがせることで「これまでとは違う世界」を見つけることができるかもしれません。