見えている世界の広さが、思考の限界を決める
私は、自分の見えている世界の広さが、思考の限界を決めると思う。
見えている範囲、器、スケールの大きさ。
それらが、実は限界を決めているのではないかと。
一つの業界に属し、見える世界を限定してしまうことで、
思考の自由を狭めたくない。
だから、ミーハーだと揶揄されても、私は一次情報を掴み取り、鍵となる要素を集めにいきたい。
出来事の背景、文脈、対立構造が見えてきたら、「決して見られないような範囲」の世界も、みえてくるはずだろう。
点と点が繋がり、形となる。
だが、新しく何かを始めようとすると、
「無理だ」と他人の限界を決めようとする人は多い。何を前提にして考え、どこに根拠があるのだろうか。
無理だと決めたい理由は、自分の「見えている世界」の限界に気づきたくないからではないだろうか?束縛や心配は、相手のためのものではなく、自分の弱さを隠すためものだ。
勿論、知ること、には危険も伴うが、判断力は人間観察をするなかで磨くしかない。
優しい世界だけで生きていたら、危険を察知する能力が養われない。
他人に依存した思考しかできなくなる。
そこに自由意志はない。
それこそ、本人は自覚なしに、「思考の枠」にとらわれた絶好のカモなのだ。
常識、わかりやすさ、安心をふりかざせば、気づきもしないだろう。
ある意味、マニュアル依存なのだ。
ジョージオーウェルの1984年、p82-83には、以下のような場面がある、
分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて、思考の範囲を狭めることになるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。———年ごとに語数が減っていくから、意識の範囲は絶えず少しずつ縮まっていく。——-しかし最終的には、そうしたものもなくなるだろう。言語が完璧になったときこそが〈革命〉の完成。
自由という概念がなくなってしまったときに、〈自由は隷従なり〉といったスローガンなど掲げられるはずもない。思考風土全体が変わるのだよ。実際、われわれが今日理解しているような思考は存在しなくなる。正統は思考することを意味するわけではない。その意味するところは思考する必要がないこと。正統とは意識のないことなのだ。
話は変わるが、
そもそも、新しく何か始めることって、そんなに初めから完璧でなくてはならないのだろうか?
挑戦しない「リスク」をとってくれるのだろうか?
「知らないから、できない。だから学びたい」
それってカッコ悪いことなのかな…?
私は、まだまだ異分野に飛び込んで開拓したい。
もっともっと、広い世界が見えるようになり、
市場の限界、コミュニティの限界に縛られたくないからだ。
新しい市場は、既存の業界の枠を超えた先に生まれると思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?