【人新世の「資本論」】斎藤幸平ーこおるかもの読書ノートVol.01
こんにちは、こおるかもです。
このマガジンでは、年間の読書量が(たまに)100冊を超えるぼくの読書ノートを配信していきます。
今回は、その初回の記事となります。せっかくなので、自分の読書ノートを広く知ってもらうために、近年のベストセラー本を選ばせていただきました。
それがこちらの、人新世の「資本論」です。
中央公論の2021年新書大賞に選ばれているそうです。
個人的にもこちら、かなりおすすめで、とても面白い本です。
また、ぼくの読書ノートについて簡単に説明すると、「本全体の論理構成をほぼそのままに、内容を十分の一くらいに圧縮する」というスタイルを取っています。なので、僕の主観的な解釈は一切入っていないです。
かなりの分量になりますが、これを読めば、実際に本を読まなくても、10倍の速度で内容を正確に把握できます。実際にぼくはこの読書ノートを日ごろから読み返して復習しています。
今後、ものによって有料化したいと思っていますが、今回は初回のため、読書ノート全文を無料で公開します。一番最後には、内容をもう一度要約した超要約も付けましたので、面倒な方はそれだけ読んでいただければ幸いです。
それでは早速読書ノートを公開していきます。お楽しみください。
はじめにーSDGsは「大衆のアヘン」である
SDGsは「大衆のアヘン」である。これは、先進国が後進国(グローバルサウス)を搾取していることに対する、良心の呵責からの逃走、免罪符、アリバイづくりを意味している。
本書では、そうした先進国の「闇」を暴くとともに、今の資本主義経済では世界の気候変動危機に対処できないこと、そしてマルクスの読み直しを通して、経済成長をこれ以上追い求めない「脱成長」と、環境資源の民主的な管理による「コミュニズム」こそが、この問題の解決策であることを示す。
第一章:気候変動と帝国的生活様式
ウィリアム・ノードハウス
2018ノーベル経済学賞を受賞した経済学者。
彼は、気候変動を心配しすぎるよりも、今のまま経済成長を続けた方が良いと主張した。なぜなら、経済成長によって豊かになり、新しい環境技術を産むはずだから。
しかし彼のモデルによれば、2100年までに3.5℃温度上昇する。これは、途上国の農業に壊滅的被害が及ぶことを意味する。
しかし、途上国の農業生産は、世界のGDPの「たった」4%なので、「経済成長」には影響しない、というのが彼の主張の主旨である。
上位5カ国で世界全体のCO2排出量の60%を占める。ノードハウスやSDGsは、帝国的生活様式を守るための詭弁である。ちなみに日本は日本は5位で3.4%。日本人にも責任があることが十分に認識されていない。
グローバルサウス
資本主義の「矛盾」がグローバルサウスに凝縮されている。
矛盾とは、先進国の主張する「経済成長=豊かさの増大」の裏で、グローバルサウスの労働力と自然の搾取が行われているということ。
このような先進国のライフスタイルを「帝国的生活様式」と呼ぶことにする。
例)
ファストファッションにおけるバングラデシュの労働者。2013年に縫製工場が崩壊。
さらにその原料となる綿花の栽培は酷暑での労働を強いられているインドの貧しい農民。
犠牲の不可視化
しかし、そのような実態は先進国には見えないようにされている。資源・エネルギー・食料、あらゆるものが、先進国とグローバルサウスとの間の見えないところで「不等価交換」されているのである。
マルクス・ガブリエル「私たちがその不公正を引き起こしている原因だと知っていながら、現在の秩序の維持を暗に欲している」
オランダの誤謬
そうした指摘は、決して新しいものではない。1970~1980年代に指摘されたのが有名な「オランダの誤謬」
オランダの先進国的生活は、地球環境に大きな負荷をかけているにも関わらず、この国における大気汚染や水質汚染の程度は低い。
つまり、彼らの環境負荷は、グローバルサウスへ転嫁しているだけなのである。この「転嫁」を無視して、先進国の技術が環境問題を解決してくれると思い込んでしまうのが「オランダの誤謬」である。
最後のフロンティア
経済成長は、利潤の獲得領域の拡大によって説明される。
グローバル化、金融、IT化など
そしてそのプロセスが限界に達した時、最後に搾取されるのは限りある地球環境である。資本は無限増殖するというのはマルクスの定義だが、地球の資源は明らかに有限である。
1988年、NASAのジェームズ・ハンセンは「99%の確率で」気候変動が人為的に引き起こされると指摘。しかしその直後、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊に伴い、アメリカ型の新自由主義が世界を覆ってしまった。
ノードハウスが件(くだん)の論文を書いたのもまさにこの時期だった。
マルクスによる環境危機の警告
こうした、「転嫁による外部性の創出」とその問題点を19世紀半ばから指摘したのがマルクスだった。
3種類の「転嫁」
技術的転嫁
環境危機を技術発展によって乗り越えようとするもの。
土壌疲弊は新たなアンモニアの工業的製法(ハーバー・ボッシュ法)によって解決されたかに見えた。
しかし実際には、アンモニアの生成に必要な天然ガスを大量に消費する結果となった。
空間的転嫁
まだハーバー・ボッシュ法が開発されていない頃、フンボルトによって南米のグアノという代替肥料が見つかった。
これによって欧米の地力は維持されたが、南米の原住民たちが搾取され、グアノ戦争(1864~1866)なども起きた。
時間的転嫁
資本主義は、現在の株主や経営者の意見が反映される。そのため、近視眼的である。
マルクスによる皮肉「大洪水よ、我が亡き後に来れ!」
大分岐の時代
転嫁がいよいよ困難であることが判明し、人々に不安が生まれると、排外主義運動が勢力を強めていく。
右派ポピュリズムは排外主義ナショナリズムを扇動し、分断が持ち込まれ、民主主義が危機に陥る。
その結果、権威主義的なリーダーによる「気候ファシズム」が到来しかねない。
ローザ・ルクセンブルク「社会主義か、野蛮か」が21世紀において現実味を帯びる。
これに対抗するため、左派は「グリーンニューディール=気候ケインズ主義」を掲げている。まずはこれを見ていこう。
第二章:気候ケインズ主義の限界
グリーン・ニューディール(気候ケインズ主義・緑のケインズ主義)
グリーン・ニューディールとは、再生可能エネルギーやEVなどのための財政出動や公共投資を行う政策のこと。安定した高賃金の雇用を生み、景気を刺激して、更なる投資、そしてイノベーションを目指す。
かつての20世紀の大恐慌を救ったケインズ型のニューディールになぞらえた表現。しかし、本当にこれはうまくいくのだろうか?
トーマスフリードマン:ビジネスチャンスとしてのグリーンニューディール
この考えでは、グリーンニューディールを格好のビジネスチャンスと捉える。つまり、「気候対策」と「経済成長」は両立すると考えている。
「緑の経済成長」こそが、資本主義が「平常運転」し続けるための「最後の砦」である、というわけである。
しかし果たして、そのような経済成長は、搾取される地球の限界と相容れるのだろうか。
ヨハン・ロックストローム:プラネタリーバウンダリー
これは、地球への環境負荷に対して、取り返しないのつかないラインに線引きをする、という考え方。
それはつまり、自然本来の回復力(レジリエンス)を超えない範囲を規定するということに等しい。
ところがヨハンの測定結果によると、すでにいくつかの項目について、地球はプラネタリーバウンダリーを超えているという。
そのような中、グリーンニューディールによる資本主義の「平常運転」は持続しても良いのであろうか?
デカップリング
日本語で「切り離し」「分離」を意味する。
気候変動におけるデカップリングとは、新技術によって、経済成長と二酸化炭素排出量の削減を「分離」させて「両立」させることを意味する。
グリーンニューディール論者は、これが可能であると主張する傾向にある。ただし、その場合のデカップリング論は二種類に大別される。
相対的デカップリング:経済成長に比べれば、CO2排出量は増えてない、という状態。(正>正の関係)
絶対的デカップリング:経済成長しているにもかかわらず、CO2排出量が減っている、という状態。(正/負の関係)
デカップリングのジレンマ
しかし、経済が成長するということは、規模が拡大し、資源の消費が増えるということを意味する。実際には、エネルギー効率が向上しても、結果的に資源の使用量が減ることはない。
かつて、石炭の技術向上によって、効率が上がったが、その結果として価格低下が起こり、それによってこれまで使っていなかったものにも石炭が使用されるようになり、その結果消費量はむしろ爆発的に増えた。
現代も同じ。テレビはどんどん省エネ化しているが、大画面化してむしろ消費電力は増えている。
このようなジレンマを「ジェヴォンズのパラドックス」という。
これが経済成長のジレンマである。資本主義はこうした「経済成長の罠」を抱えている。
そして現在、2~3%のGDP成長率を維持しつつ、年10%のペースでCO2排出量を減らすこと(つまり絶対的なデカップリングするということ)は、資本主義の「平常運転」ではどう考えても不可能だ。
生産性の罠
他にも資本主義にはこのような問題がある。例えば以下:
①資本主義はコストカットのために労働生産性をあげようとする。
②そうすると失業者が増える。
③それを政府は嫌がるので、経済規模を拡大させようとする。
④その結果、生産性が上がると経済規模も大きくなる。
これが「生産性の罠」だ。これも結局、経済成長が資源消費を抑制しないどころか、消費を増加させ得ることを意味する。
ティムジャクソン「成長なき繁栄」
現状を見れば、「相対的デカップリング」ですら起きていない。つまり、経済成長に比べて遜色ない、か、むしろそれ以上にCO2排出量は増えている。
なぜなら、先進国では、新技術によって相対的デカップリングが起きているように見えても、新興国の経済成長の方がはるかにウェイトを占めていて、かつ、先進国によって外部化された資源の消費、エネルギーの消費が新興国において起きているから。
こうして、ジャクソンは、デカップリングは全くの「神話」であると結論づける。
つまり、「市場の力では気候変動は止められない」=「市場外の強い強制力が必要」ということ。
電気自動車の本当の「コスト」
グリーンニューディール政策として、大きな注目を集めるひとつが、電気自動車であるということは言うまでもない。
しかし、その裏では、グローバルサウスにとって大きな負荷がかかっているという実態がある。
①リチウムはチリのアタカマ塩原が最大の産出地である
②コバルトもコンゴ民主共和国で採掘されている
③こうした採掘の実態では、過酷な労働環境により、人権団体によって裁判も起こされている。
④そうした事実をテスラやアップルのトップたちが知らないわけがない。
これがグリーンニューディールの実態である。
さらにダメ押しのデータとして、今後EVは、現在の200万台から2040年までに2億8000万台に増えるという。
しかしその時、CO2の削減量は、わずか1%であるという。
なぜなら、バッテリーの大型化によって、製造工程でますますCO2が増えるからである。
気候変動への「適応」
気候変動を「阻止」でも「緩和」でもない方法が提唱されている。それが「適応」である。
つまり、気温が3度上がった世界でも平穏に暮らす道を探すということ。
これは、スティーブンピンカーやビルゲイツらにも共有された味方である。
しかし、それはもう気候変動を止めることを諦めたということでもある。それはあまりにも早すぎる。
本書ではこれ以降、「脱成長」をビジョンとした提案を示していく。
第三章:資本主義システムでの脱成長を撃つ
ラワースとオニールの議論
彼らが提示した議論では、どのレベルまでの経済発展であれば、人類全員の繁栄が可能か、といった問いを出発点として、「脱成長」「定常型経済」への移行を結論づける。その方法として、公正な資源の分配を主張する。
本書はこれに全面的に同意する。
しかし、彼らの議論には重大な疑問が残る。彼らは資本主義そのものを問題には決してしない。
果たして、資本主義のもとでそのような「公正な資源分配」が恒常的に可能であろうか?
本書では、資本主義自体を問い直し、環境問題の解決をイデオロギーのレベルで考えていく。
4つの未来の選択肢
本書のここまでの議論をまとめると、人新世の時代に選びうる未来の形は以下のようになる。
①気候ファシズム:一部の既得権益を守り、弱者を切り捨てる国家体制
②野蛮状態:環境難民が反乱を起こし、大衆の反逆によって国家が転覆、統治機構が崩壊する。ホッブズの「自然状態」に近い状態。
③気候毛沢東主義:対立を避けるために、非民主主義的なトップダウン型の対策をとる、中央集権的な独裁国家。
④X:上記のどれでもない、人々が自発的で民主的に解決する道。
本書では徐々にXの正体を説明していく。
「脱成長」の本当の意味
脱成長と聞くと、「清貧」というイメージがあるだろう。逆に言えば、経済成長を通じて、我々は「清貧」を脱し、豊かな生活を目指しているわけである。
しかし、実際に経済成長で本当に貧しさは減っているのだろうか?
家賃、携帯、交通費と飲み会代を払ったら給料はあっという間になくなり、学生ローンや住宅ローンを抱えて毎日必死に働く。これが「清貧」ではなくてなんなのだろうか?
いったいあとどのくらい経済成長すれば、人々は豊かになるのだろうか。そう考えれば、今や「成長」に希望を抱く方がおかしいのではないか。
日本の特殊事情
日本の論壇では、高度経済成長期を謳歌した団塊の世代が、脱成長という綺麗事を吹聴して逃げ切ろうとしているという構図になりがち。
例)上野千鶴子と北田の世代間・指定論争。
こうして日本では、「脱成長vs経済成長」が「団塊世代vs氷河期世代」という構図に矮小化されてしまっている。
資本主義を批判するZ世代
サンダースらの「左派ポピュリズム」を支えたのは、日本人にとっては意外かもしれないが、ミレニアル世代やZ世代であった。
彼らは環境意識が極めて高く、資本主義に批判的である。むしろ、社会主義に肯定的な見方を抱いている。
「古い」脱成長論
旧世代の脱成長論は、一見すると資本主義に批判的だが、実は最後には資本主義を受け入れてしまっている。
例えば、「定常型経済」の概念を日本に広めた広井良典は、「持続的な福祉国家」として、次のように述べている。
"「市場経済」や「私利の追求」が全て否定されるわけではない。言い換えれば、定常型社会=社会主義経済システムということではない。"
つまり、資本主義的市場経済を維持したまま、資本の成長を止めることができる、というわけだ。
しかし、これは楽観的に過ぎるのではないか。資本主義とは、その定義からして、無限増殖を志向するものであることはマルクス以来はっきりしているではないか。
彼らのいう、「外部化や転嫁をやめ、労働者の幸福を守ろう」という主張こそ、資本主義の矛盾を指摘しているに過ぎない。
つまり、外部化や転嫁こそが、資本主義の性質であるのだから、それで資本主義を続けるということは、丸い三角を描くようなものである。
これが旧世代の脱成長論の限界なのだ。
ラワースらの議論も結局のところここに限界がある。「人口、分配、物欲、テクノロジー、ガバナンス」を掲げているが、資本主義そのものを本質的問題として捉えることができていない。
マルクスよ再び
旧世代の脱成長論が不可能だとわかれば、結局は気候ファシズムか野蛮状態という、気候変動の「ハードランディング」に陥るだろう。これは避けなければならない。
ならば、資本主義を問題にするしかない。
資本主義を明確に批判し、脱成長への自発的移行を明示的に要求する、理論と実践が求められている。
今こそ、マルクスを久々に呼び起こそう。
第四章:「人新世」のマルクス
なぜ今更マルクスなのか?
世間一般では、ソ連や中国共産党の独裁政治と、生産手段の国有化というイメージが強い。しかし近年、マルクスは「コモン」という鍵概念を通して再解釈されている。
それは「第三の道」を示す。つまり、資本主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、あらゆるものを国有化するのでもなく、水や電気、住居、医療、教育といった生活基盤を公共財として民主主義的に管理するという道である。
マルクスのコミュニズム
元々のマルクスにとっての「コミュニズム」とは、一党独裁や国有化を意図したものではなく、地球をコモンとして管理する社会として描かれていた。
つまり、コミュニズムとは、無限の価値増殖を求めて地球を荒廃させる資本を打倒し、地球全体を相互扶助で管理しようという思想だったのである。
一般的なマルクス理解
よく知られている理解はこのようなものである。
①資本家によって労働者が搾取され、生産性が向上し、商品が大量にできるようになる。
②しかし低賃金の搾取された労働者は、それを買うことができない。
③そうして、最終的に過剰生産による恐慌が発生し、失業者が大量に生じる。
④そして一層困窮した労働者や失業者が団結して社会主義革命を起こし、労働者たちは晴れて解放される。
誤解されたマルクス
しかし上記には大きな誤解がある。
それは、資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類に解放をもたらす、と楽観的に考えていた点である。
こうした考えを進歩史観と言う。
マルクスの進歩史観
これは二つの構成要素をもつ
①生産力至上主義:
生産が環境にもたらす破壊的影響を無視する態度。
しかしマルクスは、リービッヒの「掠奪農業」(1862)を読み共感を受け、生産主義至上主義を脱却した。
だから、資本主義は物質新陳代謝に「修復不可能な亀裂」を生み出すことになる、と資本論で警告している。
②ヨーロッパ中心主義:
確かにマルクスは、ずっとオリエンタリズムを維持しているように見える。
例えば、1850年代初頭には、インドを指して、それが定常型経済であることを理由に「全く歴史を持たない」と切り捨てている。
しかし晩期にははっきりと、オリエンタリズムを反省し、また、資本主義という段階を経ることなしに、コミュニズムへ移行できること、つまり欧米型社会を後追いしなくとも、より良い社会が実現できること、を明確に述べている。
つまり、マルクスの歴史観は、ヨーロッパ中心主義という単線的なものではなくなっていたのである。
マルクスが辿り着いたところ
では、上記二つを否定して、マルクスはどこに辿り着いたのか。
それは、新しい合理性、つまり、無限の経済成長ではなく、「地球の持続可能な管理のために」必要な経済と共同体とは何かを考えたということである。
それが冒頭の、地球をコモンとして管理し、「持続可能性」と「平等」を唱えるコミュニズムである。
資本論を執筆していた時点(1860年代)には、エコ社会主義(経済成長も、持続可能性も)という立場だったが、1870年代以降は、このような脱成長型の共同体を構想していたことがはっきりと見て取れる。
逆に、このような思想の転換のために、そのために資本論が未完に終わっているのだと言える。
第五章:加速主義という現実逃避
左派加速主義とは
本書は、これまでのマルクスを踏まえ、「脱成長型コミュニズム」を目指すものである。
その一方で、今注目を集めているのが左派加速主義である。
これは、マルクスの誤解されたままの「生産力至上主義」がそのまま突き進んだものである。
あらゆる環境問題が、技術で解決可能であり、自然には限界など存在しない、という楽観主義的な立場のこと。(バスターニ など)
別の名を「エコ近代主義」とも呼ばれる。
NETや原子力発電やジオエンジニアリングなどを徹底的に使って、地球を「管理運用」しようという思想である。
これがポピュリズムと結びつくと、政治エリートが技術革新に投資する政策を立て、トップダウンに実行していくようになる。
これはいずれ気候毛沢東主義へとつながり、民主主義が蔑ろにされていく。
気候市民会議
これに対して、近年、欧米では「気候市民会議」が注目されている。
民主的に素人が意見を出し合い、議会に提案していく運動である。
フランスの「黄色いベスト運動」
イギリスの「絶滅への叛逆」
このように、民主的に国を動かす例が出てきている。
第六章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
欠乏の資本主義
これまでの議論から、資本主義は豊かさよりも一層の貧しさを生み出していることがわかる。
人間の生活も、地球環境も、ますます欠乏している。資本主義は絶えず欠乏を生み出すシステムなのだ。
潤沢なコミュニズム
一方で、コミュニズムでは例えば、投資目的の土地売買が禁止となったとする。その代わり、土地の値段が半分になるとしたらどうだろう。
土地の価格は、結局人がつけたものであって、その土地の使用価値は全く変化しない。
その分、働く量が減れば、人間にとっての「潤沢さ」が回復する。
囲い込み
かつてのイギリス産業革命期における囲い込みでは、土地然り、かつては共同管理だったものが、解体され、私的所有に転じ、賃労働者に転落した人の生活の質は落ちた。
この一連の流れは、エネルギーでも同様だった。河川(水力)という誰でも自由に使えたエネルギーが、コモンズから引き剥がされ、石炭などの「希少」で「有償」な資源が使われるようになった。なぜだろうか。
マルサス主義的説明
これを、技術の発展はいかにして起こるかを考えて説明してみよう。
つまり、経済の発展により供給不足となり、価格が高騰。そこで技術発展によって廉価な代替物が発明され、普及する。
しかし、この理論では、先程の水の理論を説明できない。なぜなら、水は最初から潤沢で無償だからだ。
ローダデールのパラドックス
これを正確に説明するのがローダデールのパラドックスである(公共の富の性質と起源)
彼によれば、希少性が、その富の私有によって、その人の富の増殖を促す。だから人々は公共財をむしろ人工的に希少なものとし、独占競争を始める。
これは結果的に、「私財の増大は公富の減少によって生じる」というパラドックスを導く。
マルクスの「価値」と「使用価値」の対立
マルクスによれば、資本主義においては、「価値(値段)」の論理が優先される。それによって、モノの使用価値は、価値を実現する手段に貶められる。
水の「商品化」によって本来無料のはずの水の価値(値段)が上がった。
ところが、水が民営化されたことで、水質汚染など、使用価値が減じることも起きた。
そして「キレイな水」を謳うことで希少性を高め、ますます水ビジネスが儲かるようになる。
希少性と惨事便乗型資本主義
要するに、コモンズとは、本来「使用価値」の理論が優位にたつ価値観を持っている。
一方で資本主義は、何らかの形で人工的に希少性を作り出してしまえば、市場が勝手に値段をつけてくれる。
希少性の増大が商品としての価値を増大させるのである。
気候変動
気候変動がビジネスチャンスとなるのも、全く同じ理由である。
気候変動は、水、耕作地、住居など、多くの希少性を生み出すだろう。その分需要が供給を上回り、資本家がますます富むのである。
コモンを取り戻すコミュニズム
コミュニズムのポイントは、人々が生産手段(コモン)を自律的、水平的に共同管理するということである。(水、電気、インターネットなど)
しかし、国有化が必要であるとは限らない。むしろ、地域住民による市民管理が望ましい。
その際、太陽光や水など、希少化が困難な生産手段を選ぶことが肝要である。
要するに、人工的な希少性の領域を減らし、消費主義、物質主義から決別した「ラディカルな潤沢さ」を目指すということ。
民主主義的経済
労働も、ワーカーズコープのように、労働者が自ら出資し、生産手段を共有するような働き方によって、経済を「民主化」できる。
自然科学では、なぜ「気温が2度上昇した世界」が「3度上昇した世界」よりも望ましいのかは教えてくれない。
それを決めるのは人間の価値判断であり、専門家に任せてしまっては一部の利害関係で世界が決まってしまう。
さらに、将来世代の声を反映して、民主的な議論の下に決めるべきことである。
第七章:脱成長コミュニズムが世界を救う
これまでのまとめ
このままだと、気候ファシズム(一部の利害関係だけを守る)か、気候毛沢東主義(強権によって監視・処罰する)のどちらかになるだろう。
いずれにせよ、政府が市場に介入するという程度の対策(気候ケインズ主義)では、もう不十分である。
そして、さらに危機的状況になれば、国家が機能しなくなり、野蛮状態になるかもしれない。
それを防ぐには、本書が主張する立場X、すなわち脱成長コミュニズムしかない。
ピケティの転向
ピケティは、経済格差を批判し、累進性の強い課税を主張するリベラル左派の経済学者であるが、最近は「参加型社会主義」を表明した。
それは、気候危機に直面して、資本主義では民主主義を守れないと考えたからだという。単なる再分配にとどまらない、社会主義が必要だと。
脱成長コミュニズム構想
①使用価値経済への転換
大量消費社会からの脱却。コロナ禍におけるマスクや人工呼吸器の生産体制の欠乏は、その「使用価値」を甘く見た結果である。
②労働時間の短縮
使用価値を蔑ろにする労働を禁止する。マーケティング、広告、ブランディング、パッケージングなど。
③画一的な分業の廃止
分業を廃止し、労働に創造性を回復させる。
④生産過程の民主化
生産プロセスを民主化し、経済を減速させる。例えば、原子力発電との契約を打ち切り、地産地消の再生可能エネルギーを選択する。
⑤エッセンシャルワークの重視
ケアワーカーなど、やりがいの搾取を禁止する。使用価値を重視して、重要な仕事の賃金を上げる。
第八章:気候正義という「梃子」
気候正義とは、本書が示してきた通り、現在の気候変動の原因は先進国であるにもかかわらず、その直接的な被害を被るのは、むしろ化石燃料をあまり使ってこなかったグローバルサウスや、将来の世代の人々である、という認識に基づいて、気候変動を食い止めようとする価値観のことである。
超要約
①気候変動の原因は先進国による資源の大量消費である
②そして現在、気候変動を食い止めるために先進国が行っている環境経済政策(グリーンニューディールなど)は詭弁であり、結果的にグローバルサウスがその環境破壊やその代償を負担する羽目になっている。
③ではどうすればいいか?経済成長と気候対策を分離(デカップリング)し両立させられれば良いが、様々なデータに基づき、これは不可能である。
④むしろ、マルクスによれば、資本主義経済自体が資源の消費拡大を本質的に背負っている。だから、デカップリングは原理的に不可能であり、矛盾している。
⑤だから、気候変動を止めたければ、資本主義による経済成長を辞める、「脱成長」しかありえない。
⑥脱成長においては、モノの価値を、値段ではなく、その本来の「使用価値」に重きを置くことで実現できる。なぜなら、モノの値段とは人々が意図的にそのモノの希少性を高めることでいくらでも上げられるからだ。かつて無料だった水を、もう一度民主的にみんなで管理すればいい。
⑦そのように、人類の共有資源である”コモンズ”(水、土地、インターネットなど)を国ではなく民主的にひとびとが管理する「脱成長コミュニズム」が発展すればよい。
⑧そうすれば、気候ケインズ主義(先進国政府が市場に介入し、グローバルサウスを搾取する政策)や、気候ファシズム(ポピュリズムによる一部の利害関係だけを守る政策)や、気候毛沢東主義(強権によって監視・処罰する体制)のいずれもを回避することができるだろう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
最初から全部読んだ猛者の方、超要約だけ読んでご満足いただけた方、ぜひコメントを残していっていただけると嬉しいです。今後の参考にします。よろしくお願いいたします。
また、こちらの読書ノートに関しては、自分のためにやっていることとはいえ大変な時間がかかっていますので、もしお心のある方は以下よりサポート(投げ銭)していただけると大変うれしいです。こちらもよろしくお願いいたします。
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