【連載小説】少女よ、星になれ(1)
「お姉さんは、なんのために生きてるの?」
あの瞳が忘れられない。純真無垢で、それでいて精悍な彼女の目には、世界がどんな色に映っていたのだろう。
✴︎
自殺を図った子供の話を聞いてやってほしい。そう言われて署のとある一室に呼び出されたのは、木曜日の昼下がりのことだった。
正直この手の業務は気乗りがしない。子供は苦手だし、難しい。それなのに私が配属されてしまったのが、この少年課だ。しかも自殺や非行に走るような子供はなおさら扱いがわからない。大抵そういう子たちは生い立ちや周りの環境が複雑だから、どこで傷つけてしまってもおかしくないのだ。それでも話は聞かなければならない、仕事だから。
今日話を聞く予定の子供は、マンションの屋上から飛び降りようとしていたところを通報されたため、まさに未遂に留まったらしい。しかし喜んでいるのは大人たちだけだ。いくら未然に防げたからといって、その原因を放置してしまえば彼らは再び自殺に踏み切ることだってある。
自殺未遂をした、ということは、言い方を変えれば死に損なったということだ。それが幸となるか不幸となるかは本人の今後の人生次第。とはいえ、こちらとしてはこれ以上このような事件を増やさないためにも、まずは自殺未遂に至った背景を知る必要がある。私が事情を聞き出せば、然るべき機関に彼らのサポートを任せることができる。そうして彼らの背景から事件を解決へと導くことで、自殺の再企図を予防する。これが私たちの役目だ。
ドアの前でひとつ深呼吸をし、部屋に入る。小さな会議室のような空間では、さらに小さな少女がパイプ椅子にお行儀よく腰かけている。少女の前には簡易的な長テーブル、そしてその向かいには私のためのパイプ椅子も用意されていた。
「えっと……如月かりんちゃんだよね。私は少年課の筒井です。今日はよろしくね」
「はい。榊原小学校6年生の如月かりんです。よろしくお願いします」
凛とした声にまっすぐな視線。微笑みをたたえてきちんとしたお辞儀までしてくれた彼女は、見る限りいいお家のお嬢様といった雰囲気だ。さりげなくリボンをあしらった白いワンピースに黒のローファー、肩まで伸ばされた髪には艶があり、美しく整えられている。自殺という言葉から最もかけ離れたような、眩しいくらいに健康的な子供だった。
……いや、先入観はいけない。こういう優等生タイプほど内に大きな葛藤を抱えていることもある。しかしこの少女からは、優等生かつ自殺や非行を行う子供にありがちな達観した雰囲気や、大人を小馬鹿にしたような態度が見受けられない。ただ素直ないい子、という印象である。だから、先入観はいけないのだけれど。
さて、どう切り出したものか。とりあえず、何気ない雑談から探りを入れてみよう。
「わざわざこんなところまで来てくれてありがとうね。疲れてない?」
「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
まるでお手本のような笑顔を向けられ、逆にこちらがたじろいでしまう。
「……すごく礼儀正しいね」
思わず漏れた呟きにも、少女はにこやかに答えてくれた。
「母に昔からしつけられてきたんです。おかげで先生とか、大人の人にはよく褒めてもらえます」
「お母さんは厳しい人なの?」
「マ……母は礼儀作法にはちょっと厳しいですけど、いつも優しくていい人です。欲しいものはなんでも買ってくれるし。でも、欲しいものに関しては父の方があたしに甘いかもしれません」
なるほど、自然に話題を進めていけた家庭環境に関しては悪くなさそうだ。ママと言いかけたところからも、母親への愛情の深さがうかがえる。
「お父さんの方が甘やかしてくれるの?」
「父は単身赴任であまり家に帰らないんです。その分帰ってきたときにはいろんなところに連れてってくれて、いっぱい遊んでくれます」
「そっか。お父さんもお母さんも素敵な人なんだね」
そう言うと、少女は幸せそうにはにかんだ。
この笑顔を見る限り、無理して嘘をついているわけでもなさそうだ。となると、問題は学校なのだろうか。小学生のコミュニティはほとんど家庭と学校に限られてくるし、悩みもそこで生まれやすい。ここまで出来のいい子供だから、同級生から妬まれているなんてこともあるかもしれない。
「学校はどう? 6年生の勉強はやっぱり難しいかな」
少女はそこで初めて、うーんと悩ましい表情を見せた。
「算数がちょっと難しいです。でも、得意な友達に教えてもらっているので、なんとか100点はとれてます」
「100点かあ、賢いんだね」
「……100点をとると父も母も喜んでくれるから、勉強しちゃうんですよね」
「モチベーションって大事だよね。すごくいいことだと思う」
一瞬、少女の表情が曇ったような気がした。何か間違ったことを口走ってしまっただろうか。しかし思い当たる節はない。
それにしても。家庭環境も良ければ友人関係も悪くない、おまけに優秀なこの子が自殺未遂を図っただなんて、余計に信じられなくなってきている。
「……ねえ、お姉さん」
そのとき、不意に少女から声をかけられた。お姉さんという呼び方だけが妙に小学生じみていて、この子もまだ子供なんだということを意識させられる。
「お姉さんが聞きたいのって、こういうお話じゃないんですよね?」
「……」
「あたしが死にたい理由、聞きたいですか?」
“死にたい”理由。これ以上ない直接的な表現に目眩がした。
つまり、彼女の心には今も、自殺願望が巣食っている。
「あたしには触れられて困ることも、傷つく心配があるものもありません。ただ、身近な人には話せない理由なんです。だから、率直に聞いてください」
彼女はあまりにも子供らしくなかった。適切な受け答え、大人顔負けの礼儀正しさ、そして何より、察しの良さ。もう少しこちらに苦労させてもいいのに。子供の対応が苦手な私ですら、そう感じてしまうほどだった。
私の役目は彼女の言うとおり、世間話をすることではない。警察が一度絡んだ事件を書類上で取りまとめて報告し、解決に導くための聞き取り調査だ。私もまた、大人の言うことを聞いて動いているだけにすぎない。しかしそれは、私が大人だからだ。子供にまでそれを求めるのは違う。「優等生」を大人にとっての「楽」な存在にしてしまうのは、違う。
「……かりんちゃんが話したくないのなら、話さなくていいよ。上にはそうやって報告するだけだから。でも、もし話したいというのなら、私が話を聞きます」
数秒、息をつく。彼女がぐっと強い目で構えた、ような気がした。
「かりんちゃんは、どうして、屋上から飛び降りようとしたの?」
予想に反して、彼女の表情は最初に話しかけたときと同じように、にっこりとした穏やかな笑みだった。
「お姉さんになら、話してもいいような気がする」