ここではないどこかへ
ふと、どこか遠くへ行ってしまいたいと思うことがある。それは日本のどこかであり、海外であり、異世界でもある。とにかく、ここではないどこかへ逃げ出してしまいたくなる。
私のことを誰も知らない場所で、知らない土地の空気に私ごと溶かしてもらいたい。寄る辺なくなりたい。寄る辺のない、という状態にいっそ身を寄せてしまいたい。
外国へ行きたいという思いはないくせに、知らない場所の写真を見ると無性にその景色を生で見たくなる。切り取られた風景そのままの位置に立ちたい。
とてもいい外国の写真を撮る方を見つけた。サイトを勝手に載せるのは憚られるので、こっそりその方のTwitterを。(suzunaさんという方です)
留学中のときの写真を載せているというそのページには、海外ならではのカラフルな人々の営みが、どこか儚さも感じられる淡さとともに並べられている。一歩引いて世界を眺めているようなカメラの視点。だから余計に、私はこの見知らぬ街の風景に誘い込まれてしまうのかもしれない。
旅がしたいというよりは、その景色のある場所へ直接飛ばしてもらいたいというような気持ち。なんとも都合のいい不可解な欲望だけれど、どうしても浮かんでしまうのだ。私がその土地に生まれ育ち、その場所に肌を馴染ませて過ごしてきたという存在しない記憶が。
もしかしたら前世の記憶なのかもしれない、と最初の頃は思っていたけれど、こんなにもあちこちの場所に記憶を残しているだなんて、きっと前世が世界一周した旅人でもない限り不可能だろうから(いや、もしかしたら本当に前世は旅人なのかもしれない)これは単なる私の欲望の欠片にすぎないのだなと思うしかない。
訪れたこともないくせに、その風景を見るだけでなぜだかノスタルジックな気分の波に攫われる。思わず画面の向こうの世界に魂を飛ばす。そして今度は、体ごと連れていかれたいという衝動に駆られる。どこかへ行きたい、行ってしまいたい。
ああでも、なんだっけ。どこかで見たんだけど忘れてしまった。誰かの短歌に、ここではないどこかについて詠んだものがあったのだ。
……などと迷いながら記憶の断片をかき集めて調べてみたら、ちゃんとお目当ての短歌が出てきてくれた。いい時代だ。
ここじゃない何処かへ行けばここじゃない何処かがここになるだけだろう
岡野大嗣「サイレンと犀」より
そう、ここではないどこかへ行けたところで、私はその場所できっとまた、ここではないどこかを求めてしまうのだろう。叶わないからこそ夢は美しいとは、このことなのかもしれない。
叶わぬ夢を抱くことは、決してくだらないことではない。夢は希望で、欲望だ。欲望はいい意味でも悪い意味でも人を駆り立てる。その力がある限り、人は生きていけるんだと思う。
どこでもドアや瞬間移動が不可能であろうとも、存在さえすれば行きたい場所に足を運ぶことはできる。そうしてどうしようもない衝動を叶えることで世界がより輝くのか、理想と現実に挟まれて虚無しか残らないのかはいざ知らず。
だから写真は素晴らしい。訪れたこともない場所にいつでも連れて行ってくれる。けれど実際に行けるわけではないから、その場所へ行けたらという夢を抱かせてくれるのだ。
ここではないどこかへ。今日も私は、見知らぬ街の風景に思いを馳せる。
ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。