【小説】ノスタルジー
職場で泣いたのは初めてだった。学生時代のアルバイトでいくら扱かれても、涙ひとつ見せなかった私が。
私も戸惑ったし、私を指導してくれていた上司もすっかり言葉を失っていた。何が起きているのかお互いに理解できなくて、しばらくただ向き合うだけの時間が過ぎていく。
本人ですらその状況を把握しかねているというのに、涙は勝手に一粒、また一粒と後を絶たない。ようやく涙を拭うという応急処置を思いついたときには、すでに目の前にハンカチが差し出されていた。上司はため息をついた。
暗闇の中で、ぷっつりと糸の切れる音がした。
人は、いとも容易く自分を自分でなくさせることができるらしい。自分でも気づかないうちに少しずつ摩耗していき、途端にふと、こわれてしまう。
白衣を着たおじさんの話を聞いている間も、診断書と書かれた紙を受け取った時も、記憶にはあるけれど覚えてはいなかった。ずっと、リビングで勝手に流れているテレビドラマを流し見しているような感覚だった。
──白々しい。私によって踏みつけられる木漏れ日も、光の反射で私の目を痛めつける水たまりも。みんなみんな、知らんふりしている。私のことを知っていたくせに、見ていなかったことにする。
この季節は嫌いだ。光が主張しすぎている。ぎらぎらと照りつける白い光は、嫌いだ。
よくできる子だと、非の打ち所がないと、昔からそう褒められてきた。私がやることなすこと全てが誰かに注目されていたし、それが当たり前だと思っていた。
だからといって驕り高ぶるようなことはしなかった。それがこの世を渡っていく術だと知っていたから。いつも笑顔を振りまいているだけで、人は離れないどころかたくさん集まってきた。頼られることも多かったし、軽い冗談を言っては笑いを呼んだ。
そして程よい塩梅で弱みを見せた。本当の弱みは見せるつもりもなかったけれど、弱みなんてそう思い込めばいくらでも作り出せる。そうすることで人はより離れにくくなった。
こう見えて意外と天然だよね。よく言われる。そして賢い私は、天然じゃないもんと反抗することでさらにそう印象づけてしまえることを知っていた。天然か人工かなんて、結局のところ本人にしかわからないのだ。
私の内部にまで入り込めた人間はどこにもいない。そう思い込んでいた。私のことは私しか知らないはずだった。それなのに、気がついたときには孤独になっていた。どうやら誰かが見破ってしまったらしいのだ、私の殻の存在を。
しかし今更どうこうできるわけでもなく、一度偽物である私が広まってしまった以上、誰一人私の元へと来てくれる人はいなくなった。それでも私は、見破られてもなお自ら殻を破ることはしなかった。もはやそうすることでしか自分を保つことができなかったから。偽りは私の真実までをも蝕んでいた。
白く光を反射するアスファルトに、一際真っ白な像が浮かび上がる。人がその上を渡っていく。信号が変わると、今度は車がその上を通り過ぎていく。
昔は、偽りに染まる前は、この白の外は全部地獄の炎の海だった。かつては白線の上だけを選んで、注意して渡ったものだ。いつからかそんなことを気にせず、自ら炎の海を渡っていけるようになって。どうしてなんだろう、だって今も、あのアスファルトの表面はあんなに熱そうなのに。
「……ここから落ちたら死んじゃうぞ」
あの時と同じ台詞を呟いてみる。信号が青に変わる。一歩ずつ、慎重に白線を踏みしめていく。大人になっても、意外に大股じゃないと無事には渡れないらしい。白線の外の業火が私の心をはやらせた。懐かしい感覚だった。いつの間にか忘れてしまっていた、無邪気で真っ白な私の心が歩きだす。
ようやっとの思いで渡りきった炎の海を振り返る。そこにあるのは剥がれかけた横断歩道だけだ。そんなことわかってるはずなのに、もう少しこの気分を味わいたくて。
今度は、歩道の石畳の一番濃い色の部分だけを踏んで歩くことにした。すると、それ以外の色が灼熱の炎に包まれる。ここからいきなり難易度が上がる。石畳の一つ一つは私の足よりも少し小さい。そんな小さな特定の区画を瞬時に選んで、歩くと同時に足を乗せていく。足取りは軽くたどたどしい。
大の大人が何やってんだろう。思わず笑みがこぼれる。でもいいや。もう私、おかしくなっちゃったもんな。今更どうやったって、もう完璧にはなれない。
爪先立ちで炎の中を駆け抜けると、コンビニが目の前に待ち構えていた。何も考えずに中へと入っていた。半ば吸い込まれるように。
お母さん、これ買ってよ。だなんて、一度も言ったことがなかった。言ったらお母さんを困らせるから。あんたは手のかからないいい子だわ〜。母はよくそう言って頭を撫でてくれた。でもお母さん、ごめんね。私は今日からいい子じゃなくなるの。
「お母さん、これ買って」
もう、一個だけね、と脳内の母は眉間にしわを寄せる。ああ、思い出した。一度も言ったことがなかったわけじゃ、なかったんだ。もういつの記憶だかも忘れた、あったかくてちょっぴりこわい母の顔。あの母の顔がなんだかんだで好きだった。いつから私はご機嫌とりに精を出すようになったんだろう。いつから母は私のご機嫌とりに喜ぶようになったんだろう。
いい子じゃなくなるだなんて言ったくせに、こんなところできちんと母の言いつけを守ってしまうあたり私もまだまだ子供らしい。それとも、子供に戻ってしまったのかな。こわれてしまったからこっちの方が正しいのかも。
カゴの中のコアラのマーチがひとつだけ、じっと私を見上げていた。
まるで探検しているような気分で、近くに公園を見つけにいく。石畳の踏むべき位置を確認しながら歩かないといけないから忙しい。てぺてぺとした足音とともに、きゅんきゅんとセンサーを働かせて周囲をチェックする。徐々に視界が低くなってくるような気がする。
ようやく見つけた小さな公園には、西に傾きかけたお日さまの眩い光がぽかぽかと差し込んでいた。ここだ、と思わず駆け出した。ベンチに座って、袋からコアラのマーチを取り出す。その前に、店員さんが親切に入れてくれたおしぼりで手を拭かないと。やがてぺりぺりと箱を開き、中の包みも開く。袋の中から、コアラたちの大きな深呼吸が聞こえた。外に出られるのは嬉しいんだ。
まずは一つ手にとって、口に放り込みそうになってからはっとする。柄を確認せずに食べなくなったのも、いつからなんだろう。改めてまじまじと小さなコアラを眺めてみる。一人目のコアラは、お腹を抱えて笑っていた。こんなにも笑顔いっぱいなのに今から私のお腹の中に入っちゃうのかと思うと、鼻がつんと痛くなった。
生きてて楽しいの? と言われたことがある。その問いの答えを、私は出せなかったのか、曖昧に出したのかは覚えていない。おそらく後者だろう。質問に答えられないなんて姿は誰にも見せたくなかったから。実際楽しかったかどうかと今聞かれても、わからないものはわからない。わからないというのも答えだとは思うけれど、あの人たちにそう答えてしまったら、ほらやっぱりと否定の意味として捉えられてしまうのだろう、どうせ。
スクールカースト上位の女たちというものは、悪意もなく悪意を表に出してくる。何も持たないくせに、あたかもなんでも持っているかのように振る舞って、本当になんでも持っている人間を蹴落としていく。くだらないと思った。私のことが羨ましいんだな、と呆れてそう思ったとき、自分の中の汚い感情に笑えてきた。表と裏の乖離を誰よりも知っていたのは、この私だ。お前らにわかるはずがない。
あの時代を越えて、私はより一層表の顔に磨きをかけるようになった。絶対にボロを見せないように、絶対に殻を破られないように。それ以前よりももっと、「ちょっとできない風」を心がけて。環境が変われば再び人は周りに集まってきたし、元どおりの私に戻れた。そう思っていた。
周りは圧倒的に私よりもできる人ばかりだった。そんなはずない、私は誰よりもなんでもできる人だったじゃないか。なんでもできるくせにちょっと抜けてるところが可愛い、そんな子だったはずじゃないか。
焦った私は「ちょっとできない風」をやめた。やめようとして、失敗した。私はできない子になっていた。周りは私がいくら頑張ったって追いつけない人たちに溢れていた。なんだ、私ができないふりなんて、する必要なかったんだ。
やがて私は、生き方の指針を失ったまま社会に出ることになった。元から人並み以上だったおかげでそれなりの環境には恵まれたけれど、そこでもやはり負け続ける毎日だった。褒められることはなくなった。頭を撫でてくれる人もいなくなった。私ができることは一つだけ、馬車馬のように使われること。
大きく息を吸って、吐く。こんなにたくさんの酸素を吸い込んだのは久しぶりだ。袋の中のコアラはみんなお腹の中。まゆげコアラは姿を現してはくれなかった。黄身がかった西日が足元をきらきらと照らす。そろそろおうちに帰らないと。
きっとたくさん頑張ったから、神様が休んでいいよって言ってくれたんだ。えらいね、いい子だね。頭に乗せられた手は自分のもののはずなのに、お母さんみたいにあったかくて、お父さんみたいに大きくて、先生みたいに優しかった。
ゴミはきちんと持ち帰ろう。……いや、さっきのコンビニのゴミ箱でいいや。肩がふっと軽くなる。家までの道のりは決して短くはないけれど、歩いていけそうな気がした。
あとがき