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【長編紀行】 風をあるいて 西国観音霊場1,000km野宿旅

携帯電話がなかった時代だからこそできた貴重な体験だったと、今になっては思う。今の時代で、携帯電話を持たずに、こんな旅ができるだろうか。不便だったからこそ、出会えた人のやさしさがあった。人は、そういうやさしさに触れることで、成長していくのだと思う。(「あとがき」より)

※これは未公開(未出版)の紀行文です。noteで初めて一般に公開します。
巻末に印刷用の地図(PDF)も添付しました。


那智にある1番札所から岐阜の33番札所まで約1,000kmの道のりを歩く

はじめに

すべては「東海道五十三次」を歩いたことからはじまった

 旅は孤独ではないけれども、旅の始まりはいつも独りぼっちだった。

 川面からいっせいに立ち上った水蒸気。霜に覆われた一面の畑。さっきから一言も話しかけようとしない隣の女性は、うつむき加減でウォークマンを聞いている。JR紀伊本線を南へ南へと走りつづけている特急列車の車窓からは、もうすぐ田辺の海が見えてくるはずだった。

 八年間、あきれる程あちこちを歩いてきた。東海道五十三次(京都〜東京)、北海道道南(函館〜札幌)、北海道道北、そして四国遍路へんろ。私は、青春の情熱のほとんどを歩き旅へと注いでいた。そのすべてのきっかけとなったのが、東海道五十三次の時の体験だった。

 大学一回生の春、たまたま見ていたテレビのブラウン間の中の、たった一人のタイの僧侶の姿だけが、何故か私の脳裏に鮮烈に焼きつけられた。私と、私と一緒に歩いてくれた中学時代からの友人は、一体何のために、京都から東京まで歩かなければならなかったのか。そんな理由はどこにもなかったけれども、とにかく私たちは、五百三十キロ余りの道のりを、京都五條大橋から、はるかかなたの東京日本橋を目指して、歩き始めたのだった。

 結局、私たちは、今なら新幹線でものの二時間と少ししかかからないところを、実に十八日間もの時間をかけて歩きぬいた。持参したものといえば、夏用の簡単な寝袋一つだけだった。夜露と薮蚊に悩まされた野宿が十三夜。その九十万歩の道中で見たもの、知ったものは、私の価値感をがらんと変えてしまった。

 生まれて初めて経験した橋の下での野宿。真夏の太陽の下で危うく日射病で倒れそうになったこと。サンダルばきの足の裏は、つぶれた豆で血だらけになって、見るに見かねた靴屋には包帯を巻かれた。

 しかし、歩くということがどんなに辛く苦しい行為であったとしても、そこにはその苦しみをはるかに上回る自然の美しさがあり、素晴らしい人との出会いがあった。東京日本橋へ近づいた私たちは、形容しがたい感動でいっぱいだった。

 いくつもいくつも大つぶの涙がこぼれ落ちてきたし、引きずっていた両足の痛みさえも、いつのまにか忘れてしまっていた。歩くということが、こんなに素晴らしいものだと知ったのは、この時が始めてだった。自分の足の力だけで、ここまで歩いてきたのかと思うと、本当に涙が止まらなかった。東京駅で、久しぶりに乗ったエスカレータで、思わず叫んでしまった。

「自分の力を使わなくても、前に進むことができる」

 私たちは、普段余りにあたりまえのことのようにそれを考えていないだろうか。車や電車のありがたさを忘れてはいなかっただろうか。

 以来、私にとって歩くということはいつも特別の意味を持っていた。歩いていない時は寂しかった。歩けない時は悲しかった。

「君にとって、歩くということは、歌手が歌を歌わないでいられないように、画家が絵を描かないではいられないように、歩かないではいられないものなのではないですか」

 そうある友人に言われてみて、初めて、それほどに私と歩くこととは切っても切れない関係になってしまっているのだと気が付いた。

四国遍路をする私

 四国を一周してからは、夢は膨らむばかりだった。前に一度リタイヤしていた日本縦断への再挑戦か、それとも一周なのか。あるいはもっと遠く世界へと…。

 しかし、どんなに長大な旅の計画を立ててみても、何かが物足らなかった。八年間追いつづけてきたものは、車が行き交う舗装道路を、果てしなく歩きつづけることでも、巷を騒がせるような冒険家になることでもなかった。

 私は精神的な何かを求めていた。それが何であるかははっきりとは分からなかったけれども、求めている何かに近づきつつあることだけは確かだった。それは、“巡礼”かも知れないし、“仏教”かも知れないし、あるいは“僧侶”かもしれなかった。とにかく形式的ではない精神的なその何かを追い求めるためには、歩きつづける他なかった。

 しかもその道は、私自身が自発的に求める道である必要があった。誰かに強要されるのでも、誰かと比較されるのでもない。自分にとってまったく未知の世界である必要があった。

西国観音霊場との出会い

 そんな時にある人の紹介で出会った一冊の本があった。

『西国札所ふだしょ古道巡礼 〜西国三十三ヶ所徒歩巡礼に必携のガイドブック〜』だった。その「徒歩」という二文字を見た時から心は決まっていた。

(西国を歩こう)

 西国三十三ヶ所観音かんのん霊場れいじょう。あの四国八十八ヶ所も他の数多くの巡礼道も、みんなこの西国を摸して作られたのだという。だとすれば、西国にこそ、自分が探し求めているものの原点があるのではないか。

未知への旅立ち

一、お経の幻聴がやまない

 特急列車は、大阪から三時間四十分をかけて、陽光のあふれる南国、紀伊勝浦駅へ停車した。プラットフォームのベンチに座って、次の那智行きの普通列車を待っていると、隣へ座った老夫婦が、

「ご修行ですか」

と話しかけてきた。彼らはちょうど那智から定期観光バスでここまで帰ってきたばかりだという。

 上下墨染めの作務衣さむえに大きなお椀をひっくり返したような形の網代笠、そして金剛杖と呼ばれる木製の杖を持って、二十キロ以上はあろうかという大きなザックを背負ったその私の姿は、これが単なる観光だとはとても見えない。

『修行』

 私の歩き旅はいつもこの二文字とは切っても切れない関係だった。単に歩くことを楽しむのなら、何も野宿や自炊のためにこんなに大きなザックを背負うこともない。衣類にしても、もっと軽くて機能性に優れたものがあることは知っていた。にもかかわらず、それでも私の旅のスタイルがこのスタイルであるのには、やはり歩くことのきっかけとなったあのタイの僧侶の姿があるからかもしれない。

 彼らのスタイルは、日本の僧侶のとはちょっと違っているような気がする。夜は、当然の如く寺や公園、神社の境内に、背負った三角錐さんかくすいのテントを広げて野宿する。履物にしても、しっかりと足首で固定されるような藁草履とはかけ離れた、ゴム製のサンダルなのだ。私はこのサンダルばきの歩き旅に幾度となく挑戦してきた。しかし、いづれも途中でリタイヤしている。

 サンダルばきで一日中何十キロを数日も歩きつづけていると、足の裏は、豆という状態を超越して、皮という皮がめくられて血まみれになった。裸足で生活することをしない私たちの足の裏は、それほど脆弱だった。

 しかし、その無謀ないくつかの挑戦のおかげで、私の足の裏はいつのまにか生まれ変わったのだった。以来、足の裏には豆が出来なくなった。四国遍路千二百キロの旅路でも、とうとう豆は一度も出来なかった。

どんなに歩いても豆ができなくなった足の裏

 再び車中の人となって、たった五分で列車は那智駅へ停車した。一九九七年十一月十九日、十四時四十二分。外はよく晴れていた。あまりに穏やかすぎる時間が、無人駅を取り囲んでいた。

 再び、あの道を歩きたい。あの風景に逢いたい。あの音を聴いてみたい……。そんな願いの全てがこの今にかけられていた。そして、気がつくと、私は杖を突いて、持鈴を鳴らしつつ歩む巡礼となっていた。

  眞實、諦メ、タダヒトリ、
  眞實一路ノ旅ヲユク。
  眞實一路ノ旅ナレド、
  眞實、鈴フリ、思ヒ出ス。

 北原白秋は『巡礼』という一篇の詩でこうつぶやいている。私はひとつの生き方を諦め、旅に出た。自分自身の生き方を問い直す為に。それはかつて見た、あの道の風景の中にきっとあると信じて。

 ここから岐阜県谷汲村たにぐみむらにある華厳寺けごんじまで、三十三の観音霊場を経巡って行く、その行程は千キロ余。しかし近世になってほとんど誰も歩かなくなってしまったこの巡礼道の正確な距離やルートは、結局よく分からなかった。

那智駅から歩いて一番札所へ向かう

 大型トラックの行き交う国道四十二号線を左へ折れて細い路地へ入ると、すぐ右手に補陀洛山寺ふだらくさんじの広い境内が見えた。補陀洛山寺はしかし、その今の真新しい堂舎からはおおよそ想像もつかないような、暗鬱で厳しい信仰の根本道場でもあった。

 それは、ここ熊野の海原の果てに補陀洛山という山があり、そこに至れば観音様の慈悲によってどんな者も安心成仏できるというものだった。実際の宗教儀礼では、海を渡る者が、屋台舟という一隻の船に自ら閉じ込められ、この浜から沖合いへと流されていった。もちろん流されたものが、生きてこの世に戻ることはない。

 その暗く狭い屋台舟の中で、観音浄土を一心に祈りつづけた修行僧たちは、“いのち”を超えた何かに、その願いを叫びつづけていたに違いない。

 私も今回の旅を、生きて戻ろうとは思っていなかった。厳冬の西国の果てで、力尽きてしまっても、それはそれで構わなかった。

 何も思い残すことはなかった。たった二人の友人のことを除いては。私の西国巡礼の決意が固いことを知ったその友人たちは、直前になって立派な網代笠あじろがさを送ってきてくれた。

「西国をあらゆる困難を越えてたったひとり歩んで行くのに、何か心の支えになるものを…」添えられていた手紙に涙が止まらなかった。

 すみれたんぽぽゆっくりあるかう  山頭火

 幽黙さんと私は、『空海の残した道』という私の四国遍路の記録を綴った本を通じて知り合った。その遍路の道中で出会ったのが慶澄さんだった。しかし私たちの出会いは、そういう偶然性をはるかに超えていたように思えてしかたがなかった。

 夕方四時前。西国一番札所青岸渡寺、そして熊野三山の一つ、熊野那智大社への参道である大門坂に立つ。

(こんな大杉の並木が残されているなんて……)

 蟻の熊野詣くまのもうでと言われるまでに盛んになった熊野信仰、そして観音浄土へのあこがれがつくり出した道。人々は一体何を求めてこの峻烈極まる山々をあえて歩みつづけたのだろうか。何がその身を痛めつけてまで、苛酷な巡礼へと踏み出させたのだろうか。それは自分自身への問いでもあった。

 この日は、那智山に野宿地を求めた。三方を山々に取り囲まれた青岸渡寺せいがんとじ境内は、日が暮れるのが驚く程速く、山からの吹き下ろしの風が身を凍らせんばかりに冷たく感じられた。昨日から体調を崩していた私は、閉店した食堂の前でひとりカロリーメイトの夕食を取り、薬を飲むと、早々とテントを設営して寝袋に潜り込んだ。

 持参した防寒着はレインウェアの上下とフリース一枚。あとは上下の作務衣にランニングシャツだけだ。寒ければ買い足せばいいや、と安易に考えて来たものの、いざ二十キロ近くあるザックを背負って歩いてみると、そんな余裕は消えてなくなってしまった。

 野宿第一夜はいつもテントの中で不安におびえて小さくなる。たった一枚のテントの布だけが、自分を守ってくれる全てだった。私は滝の音に混じって遠くから聞こえてくるお経が、いつまでも止まないのに気が付いた。それは八時になっても九時になってもいっこうに止む気配がない。たまりかねて頭まで寝袋に潜り込む。私がそれを幻聴だと知ったのは、もう夜が明けかけた次の日の朝の事だった。

二、峰を越えて

 十一月二十日。ここ那智山から熊野古道大雲おおくも小雲こぐも取越とりごえを経て熊野本宮大社へ至るまでの約四十キロの道程を、人はアルプス越えよりも辛いと言う。アルプスへ行ったことのない者にはそれがどんなものなのか想像することすらできない。しかし、昨夜のうちに見ておいた大雲取越の登り口の勾配、持参した国土地理院の地形図にも記されていない、その薄暗い原生林の小径は、私にこの二十キロのザックを背負って歩き続けることを断念させた。

 自炊を諦め、燃料であるレギュラーガソリンと愛用のガソリンストーブ、コッヘル等の炊事道具一式を送り返して減量する。ストーブがあることが、厳冬の行脚でどんなに心強いかは知っていた。しかし今自分にはこれを背負って歩く勇気がなかった。

最初にこれだけあった装備は半分以下に減らした

 青岸渡寺へ参拝し、読経での納経を済ますと、堂内にあった納経所へ向かう。

納経
本来、願意を書き添えた写経を、各札所へ奉納することであるが、現在ではそれを簡略化してお経を読誦することが一般的になっている。納経帳は、その納経をした証である「朱印・揮毫」を頂くもの

 日付けを入れてもらった真新しい納経帳と金剛杖を手にすると、念のためにお坊さんに大雲取越への道を確認する。

 大雲取越は、やはり本堂右手の急な石段から始まっていた。そこには特に目立った標識や、門がある訳ではなかったが、その一歩を踏み出すということは、とてつもなく大きな何かへ挑戦することを意味しているように思えた。

 八時半、私は長いトンネルに入る前のように、一度深呼吸をして、振り返って眼下に広がる景色を脳裏に焼きつけてから、ゆっくりとその石段を登り始めた。さっきまで本堂にいたお坊さんが、心配そうにこっちを見ていたが、もう後へは引き返せない。

 大雲取越の終点である小口までの行程は約十六キロ。しかしその途中に立ちはだかる峰々の峻険さをどの体験記も嘆いている。単独行は絶対に止めておくべきだと警告するものもあった。

 その最初にさしかかる舟見峠の標高は八八三メートル。私はここで平素から体力づくりをしてこなかったことを深く後悔した。出発直前まで勤めていた会社の冷暖房のよく効いたオフィス。そこで一日中デスクワークに従事してきた体にとって、それはあまりに苛酷な道程だった。

 胸突き八丁と呼ぶにはなまぬるい急坂は、出せる限りの力を振り絞っても、またさらにそれ以上の力を必要としていた。しかしそんな弱音を吹き消すかのように、振り返ると昨日出発したばかりの那智湾、そして大平洋が遥か彼方に光り輝いていた。しかしその海もすぐに峰々で遮られ、見えなくなってしまう。西国巡礼の道は、紀伊田辺で再び海に出るまでは、ここから紀伊半島に広がる三千六百峰とも言われる大山脈地帯を約一週間歩き続ける。海とは当分お別れだ。

船見峠から太平洋側を見る

 海はいつも巡礼を暖かく見送り、出迎えてくれた。熊野詣の為に京大坂から半月余をかけて歩んできた者達にとっては、この海を見たときの感激は計り知れないだろう。

 忘れもしない、四国遍路、土佐の塚地峠(土佐湾)、伊予の三坂峠(伊予灘)、讃岐の雲辺寺山(燧灘)、そして花折峠(志度湾)……。峠から見渡す海の姿。それは厳しい山路を踏み越えて来た巡礼だけに許される、旅の醍醐味なのかも知れない。

 舟見峠を越えると、死んだ人に出会うという小径、亡者の出合を経て、ようやく鋪装された林道へ出た。しかしあいにくの俄雨。あわててザックに結わえてあった網代笠を頭につける。その笠の表には、西国巡礼が寝ても覚めても唱えつづける、

  南無大慈大悲観世音菩薩なむだいじだいひかんぜおんぼさつ

 というご宝号、そしてその裏には、

       同行慶澄
  祈念義晃君守護 
       同行幽黙

 と書き添えられてあった。西国をあらゆる困難を越えてたったひとり歩んで行くのに、何か心の支えになるものをと、出発前に幽黙さんが送ってくれたものだった。幽黙さんとは、私の前回の旅の紀行文を通じて知り合っていた。そして慶澄さんは、その四国遍路の道中で出会ったお坊さんだった。

同行二人どうぎょうににん』という言葉がある。巡礼は本来、四国遍路では弘法大師、西国では観世音菩薩と共に歩んでいく心の旅だとされている。そしてそれが心の旅だからこそ、人々はそれを求めて止まなかったのだと私は思う。たとえ表面的にはひとりぼっちでも、行く先々で歓待をされる訳でもなく、誰が待っていてくれる訳でも、ついてきてくれる訳でもないこんなひとり旅であっても、この網代笠はそんな淋しさをみんな吹き飛ばしてくれていた。

 十一時十一分。大雲取越唯一の水場がある地蔵茶屋へ到着する。水筒のお茶とカロリーメイトで昼飯にしていると、こんな山奥に一台の乗用車が現れて目の前で止まった。中から老夫婦が降りてきて、なつかしそうに辺りを眺めている。

「この道を歩かれたことがおありですか」

「ええ、もうかなり昔の事ですが……」

 私は驚きを隠せなかった。老夫婦は車道の延びているこの場所へ、わざわざ昔歩いた道に会うためだけに来たのだろうか。いずれにしろ、こうした一期一会の出会いは、行脚道中無数にあった。名前も聞かないことがほとんどだけれども、その中にはどうしても忘れられない人がある。遠く離れてしまって、二度と会うことができなくても、その人は私の心の中に生きている。

 その老夫婦に別れを告げ、石畳の続く標高七八〇メートルの石倉峠を越えて、一旦沢へ下り、その二、三百メートル先でいよいよ熊野古道の最大難所、越前峠の急登へさしかかった。越前峠の厳しさはその勾配ではなく、淋しさにあるのではないだろうか。鬱蒼とした原生林。どこまでも続く山、また山。平らという場所は一つもなく、ほっと気が休まるような視界のきく場所もない。今でさえ林道がその途中までなんとか延びているとはいえ、それらはまるで蛇の這うように峻険な山々を迂回することを余儀なくされていた。

 どれくらい歩いただろうか。山の頂きを真二つに切り裂くようにして、古道は標高八七〇メートルの峠を越えていた。ここからも視界がきかず、私は時計を見るのも忘れて、記念撮影を済ませると感動に酔いしれる間もなく、坂を下り出した。

「大雲取山」の説明板。右下に「経験者向」とあることからも、その峻烈さがうかがえる。

 十三時二分。ようやく傾斜が緩やかになった所で休憩する。小便をすると小さな虫が蠢いた。ふと気がつくと、道の両側の杉林の中には、苔むした猪垣が累々と続いている。

(こんなところに往時の宿の跡がある!)

 そう直感した。そこはかつて、巡礼を泊める宿が軒を連ねていた、楠久保村落跡だった。

 私は、今はじめて蟻の熊野詣といわれた往時をこの目で垣間見たような気がして泪が出た。嬉しかった。四国のへんろみちは、高速道路の建設や観光開発で、次々にその姿を変えつつあった。しかしここには千年も変わらぬ人の道の姿がまだ残されている!

 十四時十七分。西行法師が、

  雲鳥(取)や志古の山路はさておきて
    をくち(小口)川原の淋しからぬか

 と詠んだ小口の川原へ辿り着く。しかし現代の小口には雲取越で唯一の食料品店と自販機があり、まるでオアシスのようだ。

 私は早速食料を買い込んで川原へ降りてテントを張った。

「山の川で寝るなよ。山の川は水かさ増して危ないぞ」

 と四国で出会ったお坊さんに教えられていたが、これ以上歩く気力もなく、他に気の休まる良い場所が見つからなかった。

  川の水のお経やまない

 昨日からずっと誰かがお経をあげてくれている。

二日目に野宿した河原

三、忘れていた音

 十一月二十一日、三日目。五時半起床。長い夜だった。まだ外は真っ暗だが、腹が減ってどうしようもない。ヘッドランプの光を頼りに川の水で顔を洗い、かまぼこを少しかじって出発する。辺り一帯は濃い霧に包まれていた。

 古道は小和瀬の集落から細いつり橋を渡って、再び人里知れぬ山道へと分け入る。ここから請川へと越えて行く小雲取越も、いきなり胸突き八丁の羊腸たる道から始まっていた。登り口から最初の尾根までの高低差は四〇〇メートルもある。昨日の疲れが十分取れず腹が減っているせいか、その登りは昨日にも増して辛く感じられた。

 明治までは茶屋があったという桜茶屋跡を過ぎて、ようやく尾根にとりついたと思った時、ふと視界の開けた右手を見て、私は言葉を失った。そこには霧が晴れた真っ青な空と、雲海へ浮かんだ黒い山脈がどこまでも続いていた。その光景はとても言葉では表現しきれない。私ははやる気持ちを抑えてザックからカメラを取り出しシャッターを切った。しかしさっきまでハッキリと見えていたはずの山並は、瞬く間に湧き立った霧に消えてゆく。もう一枚。それでもシャッターを切り続ける。そして三枚目を撮り終えた時、辺りはもとの真っ白い霧の海に飲み込まれてしまった。

 ああ何ということだろう。結局初めに肉眼で見た光景は、私の脳裏にしか残せなかった。それはあたかも大自然が熊野をゆく巡礼を力づけてくれたかのようだった。自然は、人の為す術もなく移り変わっていく。そして巡礼もまた、ここに留まることなく歩みつづけることを余儀なくされるのだった。

小雲取越で見つけた猟師の詩?

 八時半。ようやく霧が晴れ、小口より七十五丁目にある石堂茶屋跡へ木漏れ日が差し込んだ。私は、そこに映し出される光景に暫時心を奪われる。ファインダーを通してでは見ることのできない、透明な空気と、静寂が辺り一帯と私とを包み込む。凍てついた空気の中で、何もかもが止まってしまったかのように感じられた。

石堂茶屋跡

 町界を過ぎ、小雲取越のほぼ中心に位置する如法山を右へかすめるようにして斜面を辿っていくと、突然視界が開ける絶壁へ出る。そこが百間ぐらだった。

 もう霧は完全に晴れていた。広大無辺の山脈と雲海。その絶景を背にして一体のお地蔵さんがぽつんと立っている。供物の蜜柑はまだ新しい。私は静かに手を合わせ、お経をあげた。その佛に向けようとした祈りは、私の意図するしないに関わらず、遥か彼方前方の熊野の山々に向けられていた。

 遠くで鳴り響く猟銃の発砲と、犬の吠える声に怯えながら、志古へ下る山路と別れ、十一時、いよいよ請川の町へ下る時がきた。遠くから聞こえてくるエンジン音。

(ああ、人の住む町がある……)

 雲取越で忘れていた『音』がそこには満ちていた。いままで人の造り出す音がこんなに恋しく思えたことはなかった。

 町へ降りると、まっさきに川湯の場所を尋ねた。ここまで生きて歩いて来れたら温泉に入ろう。そう心に決めていた。河原に掘られた大露天風呂は千人は入れるという。私はその湯につかりながら、今ここにある自分が信じられなくなった。声をあげて泣きたくなるような淋しい山道をたったひとり越えて来た。その感激は、結局居合わせた他の湯治客の誰にも語ることができなかった。

四、蟻の熊野詣

 十一月二十二日、四日目は、朝からざあざあ雨が降っている。しかも国道は、大規模な改良工事の真っ最中で、車がようやく一台通れる道を、巨大なダンプカーがうなりをあげて行き交う。その度に歩行者は水たまりを避けてガードレールにしがみつく。もううんざりだ!

 九時五十分。野中の集落へようやく辿り着くが、ここでも排気ガスの嵐。家から戸を開けて出ようとした腰を曲げたおばあさんの額をかすめるように、大型トラックが走り去る。それほどに家と道とは近接していた。その国道から少し離れた旧街道沿いで、民宿や茶店を営む「とがの木」の女将が、お茶を出してくれながらつぶやいた。

「あんな所へよう住んどるわ」

 新しい国道は、山を掘り、谷や川を埋めて延び続けていた。そんな現実を垣間見て、私はあの露天風呂や雲取越が観光客で溢れ返る日を想像して、ちょっと悲しくなった。

(残された道を誰かに伝えたい)

 そう願う思いがより一層強くなるのだった。

 夕方、五時前。初めてとった宿、近露王子のすぐ前にあった月の家旅館へ投宿する。腹一杯食べられる夕食に、暖かい布団。電灯をつければ夜でも苦労なく日記をつけることができた。月の家は、その名の通り私にとってはまるで別世界のように思えた。

 その夜は、三連休の中日とあって、いくつかある部屋は観光客で一杯になった。古道散策の感動の余韻覚めやらぬ女子学生達は、しばらくはしゃいでいたが、明日も本宮へ向けて歩くというのですぐに静かになった。しかし最後に投宿した若い男連中は、九時を過ぎても十時を過ぎても一向におとなしくなる気配がない。もしこんな行脚道中でなければ、ここは黙って寝てしまったかも知れなかった。しかし私は無性に彼等をどなりつけたくなった。今やらなければできない。私は思い切って起き上がり、戸を叩く。中から何人かの若い男の顔が見えた。

「お前らまわりもう寝とんじゃ、もうちょっと静かにせい!」

 自分でも信じられないくらいドスのきいた声が出た。

「はい……」

 そう言うとその男は申し訳なさそうに戸を閉めた。それからその部屋からは物音一つしてこなかった。

   *

 翌朝六時。下の階から聞こえてきた般若心経はんにゃしんぎょうに目が覚める。六時半出発。おかみさんは、腹が減るやろうからと、わざわざ弁当を作ってくれていた。

 熊野道は近露から再び深い山へと分け入る。標高三九七メートルの箸折峠、三九六メートルの逢坂峠、六八〇メートルの三体月伝説の展望所、六九一メートルの悪四郎山の肩をかすめる峠を越えて、五九六メートルの十丈峠へと歩んでいく。その途中の十丈坂では、ここで小判をくわえたまま力尽き、命を落としていた巡礼を、地元の村人が供養して建てたと伝えられる小判地蔵を見た。その道の峻険さと淋しさは今なお少しも変わっていなかった。

 そして十二時。ついに標高八五メートルにある滝尻王子への最後の急な下り坂へさしかかった時だった。前から古道散策の老若男女が次々に登ってくる。

(ああ、これが蟻の熊野詣ではないか!)

 私はこの時ハッキリと古道に連なる人の群れを見た。たとえそれが単なる観光目的の古道散策であったとしても、それはそれで構わなかった。千年の時を経て今なお人が歩み続けている道がある。そのことを肌で感じることができただけで嬉しかった。

五、お接待

 海に出会える日。十一月二十四日、六日目の朝五時。テントやシェラフは夜露でびっしょり濡れてしまったが、初めての快晴だ。私はその喜びを押さえることができなかった。自然と歩くのが速くなり、休むことなくどこまでも歩いていけるような気がした。

 八時前。田辺市上万呂を歩いていた時だった。車道の右側にいた私に、反対車線を走っていた乗用車が近付いて来て止まった。中から作務衣姿のお坊さんが顔を出す。

「大変失礼なことかも知れないんですが……」

 私は何か言われるのではないかとドキドキした。

「これ知り合いの結婚式の残り物ですが、受け取ってもらえるかなぁ」

 行脚中にお坊さんにお接待されることはほとんどない。突然の出来事に戸惑う私に、その人はでっかい包みと缶コーヒーを手渡すと、

「がんばれよ」

 とだけ言い残して走り去ってしまった。私はただ我を忘れて手を合わせる。お坊さんは、私がどこから来たのか、どこへ行くのか、何をしているのか。そんなことは何も聞かなかった。ずっとひとりぼっちだった心に、そのお坊さんの最後の言葉がいつまでも響いた。

 出発前に、

『西国にはもうお接待の風習は残ってないよ』

 と聞かされて孤独を覚悟で歩き始めた旅だった。しかしそれは予想以上に淋しい道程だった。西国を巡礼しているということはまず分かってもらえない。ましてひとりで歩いて巡礼していることなど……。

 しかし、包みを開くとそこにはとびきり大きな鯖寿司がまるごと三尾入っていた。一日分の食料として有り余る程ある。その包みを直しながら、私は改めて自分の高慢さを恥じ、そのお坊さんに感謝した。

『耐えがたい時は大木を仰げ、忍従の歳月と孤独とを思え』

 途中で立ち寄った高山寺の法句が胸に響く。そして国道はいよいよ海へ! その途中で初めてコインランドリーを見つけることができ、感激する。

 海が見えた。雲ひとつない空と光輝く水平線。夢にまで見た田辺の海に今私は辿り着いた。国道を離れて堤防の上へ出ると、浜辺の白い波打ち際に、横一列に並んで遊んでいる水鳥が見えた。これが夏なら思いっきり泳いで行きたい。

 しかしそこには新たな難が待ち受けていた。車道が狭い上に、歩道が全くない。しかもこの辺りには高速道路がなく、長距離トラックがひっきりなしに行き交う。何だか妙に静かになったなぁと思って振り返ると、バスが後ろをのろのろ着いてきていたなんてことが一体何度あっただろう。自転車ならともかく、こんな所を歩いている奴なんかいやしない。ドライバーからしてみればいい迷惑だろう。猛スピードで擦れ違う車に、いいかげん頭が痛くなってきた。

 十六時、印南町切目崎で見つけたドライブインの駐車場にとうとう座り込んでしまう。今日一日で何体のお地蔵さんや道端に供えられた花束を見ただろう。もしかすると自分もこの先のどこかであんなふうに供養されてしまうかも知れない。

 さらにこの悪夢の中を歩き続けて、十六時半、やっとの思いでJR切目駅に到着する。夕食を買いに入った駅前の食料品店のおじさんが、

「あそこならきっと一晩くらい泊めてくれるよ」

 と駅の裏にある寺の事を教えてくれたので、迷った挙げ句思い切って訪ねて行くと、中から優しそうな老夫婦が出て来てくれた。

「昔はようあんたみたいに旅しとる若者を泊めようたんよ」

 と言って案内してくれた所は、新築の観音堂で、中には三十三体の観音様が祀られていた。住職はわざわざ毛布や布団も出してきてくれる。三十三ケ所の観音霊場を拝しての旅路にある者が、今こうして三十三体の観音様に見守られて横になっていることが信じられず、この晩も忘れられない一夜となった。

   *

 翌朝四時。朝勤行に出させて頂き、朝食まで頂いて、六時五十分、奥さんに見送られて寺を後にする。

 御坊市名田町上野を歩いていると、通園中の園児達が私を見て、

「カッパ、カッパ!」

 と叫びながらついて来た。坊主頭に巻いていた手ぬぐいを取ると嬉しそうに声をあげる。確かに網代笠をザックの後ろに結わえた姿はカッパそのものだったので自分でもおかしくなった。

 そんな子供達とのふれあいを楽しみつつ、都会の町中を通り抜け、十二時前に、国道が鹿ヶ瀬峠越えの古道と分かれる高町萩原へさしかかった。やっとこの排気ガスと騒音から逃れられると思いきや、ここに待ち受ける鹿ヶ瀬峠ししがせとうげは、

「林鹿遠くこたえ、峡猿近く叫ぶ……」

 すなわち、鹿や猿が現れる深山と古来嘆かれる難所中の難所だった。しかもこの峠道も地形図に載っていない。何とか日暮れまでに峠を越えたい。そう願う一心で方角だけを頼りに山道を登り続けた。

 日暮れ前。標高三四〇メートルの峠を越えて、国道の合流する井関へ辿り着いたが、雲行きが怪しい。今夜は嵐になるという。雨をしのげる場所が欲しい。しかしどの高架や橋の下も草ぼうぼうで近づけない。強引に草むらを掻き分けて進もうものなら、体中が種だらけになった。

 五時半、真っ暗い中、ようやく名島の国道の橋下にテントが張れる広い場所を見つけるが、その頃にはもうだいぶ雨風が強くなってきていた。

 夜はなぜか蒸し暑くて寝付けなかった。おかしいと思って何度も寒暖計を見たが、気温は二十℃から下がらない。おまけに風で何度もテントごと吹き飛ばされそうになる。結局この日は一睡もできなかった。

   *

 翌朝五時、風雨と戦い続けた長い夜がようやく終わろうとしていた。テント内は相変わらず二十℃で、嵐は衰える気配がない。暗がりの中、線路づたいに駅へ向い、カロリーメイトの缶を一本飲んでとにかく歩き出す。強風と降り続く雨で靴の中までびっしょり濡れ、まるで川の中を歩いているようだ。私は、吉川を経て有田川へ下る方津戸峠と糸我峠を避けて、国道を直進することにした。そうでなくても今日はさらに二つの峠を越えなければならない。

 眼前に迫りくる拝ノ峠と藤白坂は、青岸渡寺から二番紀三井寺への道程で、巡礼に残された最後の難所だった。国道は、この二つの峠を擁する長峰山脈を海側へ大きく迂回していたが、巡礼の道はここでも真直ぐに目的に向かって延びていた。

 車道と別れ、急峻な蜜柑畑の間の山道を登って行くと、容赦なく吹き付ける雨風は一層激しくなる。網代笠をつけることを諦め、風に飛ばされないようにしっかりとロープでザックへ結んで、それを手に持って登るが、雨に濡れた体は、冷たい北風に体温を奪われ、次第に一歩一歩が重く感じられるようになっていった。

 十時半、最後の難所の藤白坂を登り切って、峠にあった地蔵峰寺の境内へ駆け込んだとたんに、弱まっていた風雨が一段と激しくなった。しかし境内にあった立派な休憩所の鍵はかかったままで、私は軒を越えて吹き付ける雨しぶきを受けながら、自然の猛威を前にただ呆然とする。

 ようやく風が弱まったのを見計らって、道標を頼りに山を下り始めたが、どういう訳か山道は地形図とは違う方角へ下っていた。気持ちが焦る。既に山頂から数百メートルも下っているが、途中には分岐がなかった。峠からの下りの道を間違ってしまったのだ。この川のようになった崖道を、また戻るのかと思うと泪が出そうになった。

 熊野道は今、古道ブームの中、道標が整備されつつあった。しかしそれはあくまで京大坂から熊野への道であり、熊野から歩んでくる西国巡礼の事は考えられていなかった。

 十一時五十分、藤白神社へ到着し、いよいよ紀三井寺へ。その門前に立った時、私はたった今、一つの旅が終わったのだと実感した。一つのお寺を目指して、山また山を越え歩き続けた八日間はあまりに長かった。

 参拝を済ませ、納経所の人に軒下の宿を乞う。

「今住職も副住職もおりませんので……」

 夕方五時になれば帰ってこられると言うのでそれまで待っていようと、境内の茶屋で久しぶりにうどんを一杯頼んで待っていると、さっき庭の掃除をしていたお坊さんが駆け入って来て、

「ビジネスホテルもありますし、とりあえずこれをお寺からお接待するようにとのことですので」

 と小さな封筒を差し出した。

   *

『お接待』という言葉を、もう長く聞かなかった。

 私が生まれて初めてお接待を受けたのは、四国遍路の第一日目のことだった。真夏の強い日ざしを避けて日陰へ休んでいた所へ、稲荷寿司とお茶を持って来てくれた人がいた。私はその時、お接待という行為がどんなものであるのかを初めて知った。四国ではそれが当たり前のことのように人々の間で行われていた。

 彼等は皆、『お接待させて下さい』と言う。そしてお遍路さんは、そのお接待を決して断わってはならないことになっている。お接待されたお遍路さんは、合掌し、『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』とご宝号を唱えてそれを受け、自分の納札(各札所へ納める、自分の願いごとや名前、住所などを書いたお札)を一枚、お礼に手渡す。

 四国遍路におけるこうした「お接待」という習慣は、まさに生きた仏教なのではないだろうか。彼等は何のためらいもなく喜々としてお遍路さんにお接待をする。そしてそれはお遍路さんのためのみならず、彼等自身のためであることを、私は四国で見てきた。彼等の心の平安とは、お遍路さんへのそうした喜捨の上に成り立っているのではないかとさえ思えるのだった。

   *

 宿代をお接待してくれたそのお坊さんは、合掌してまた駆け足で出て行ってしまった。茶店のおばさんも、うどんのお代をいらないと言う。外はまだ嵐だったが、私の心の中は感謝の気持ちで一杯だった。

(今夜は宿を取ろう)

 すぐに境内を出ると近くのビジネスホテルを予約し、コインランドリーで泥だらけの服を洗濯する。しかしここで何だか外の様子がおかしいのに気が付いた。まだ夕方の三時だというのに真っ暗だ。あわててラジオの時計も確かめ、近くの八百屋で時間を聞いて呆然とする。

(二時間もずれている!)

 ホテルへは五時に入ることを約束してあったのだ。

 やっと洗濯が終わって、宿へ着いたのはもう夜の七時過ぎだった。

六、高野山

 十一月二十七日、九日目。三番粉河寺を打ち終え、私は高野山へと向いつつあった。高野山は西国霊場の札所ではなかったが、四国を満願した時からいつかきっと歩いて登ろうと決意していた。

 もう日も暮れかけた頃、粉河町王子の王子神社へ辿り着いた。

(もう歩く元気がない、ここに寝よう)

 そう心に決めてベンチへ杖を休めて、その傍らへザックを降ろし、地図を眺めていると、一人の女性が珍しそうに近づいてきて、

「あ、お坊さん、絵を描いておられるかと思いました」

 と言う。神社は紀ノ川を見下ろす高台にあって、そこからは遠く高野山の山並が見渡せるような気がした。地形図と山とを見比べてみたり、今日歩いた行程へ気が付いたことを記入していた姿が、そんなふうに見えたらしい。

 神社のすぐ隣はお寺の境内になっていて、ちょうど住職と神社の禰宜ねぎさんが、昨日の嵐で山ほどに敷き積もった落ち葉を忙しく掻き集めている所だった。私は思い切って一夜の野宿を願い出た。すると、その禰宜さんと住職は、

「ここの方が絶対いいよ」

 と境内にあった舞殿の一角を片付けて勧めてくれる。私は思いがけないその好意に感謝して、そこへ上がらせてもらった。

 掃き清められた境内が夕闇に包まれると、掃除道具を片付け終わった禰宜さんが、持っていた小さな紙へ、心に残るこんな俳句を書いて渡してくれた。

  冬日燦修行僧の瞳の確か  阿紗子

 その禰宜さん(北畑阿紗子さん)は、ここで俳句の会を開いているという。

「山頭火をご存知ですか!」

 俳句と聞いて嬉しくなり、禰宜さんと話しているうちに、ふと頭をよぎったのは行乞流転の彼の生涯だった。彼も又、禅寺での得度を経ながらも、猶、己が身を定めることができなかった。かつて山頭火は僧ではなかったと言った人がいた。僧堂を逃げ出してしまった私も既に僧ではないのかも知れない。

 では「確か」と詠まれたこの瞳が見つめる物は一体何であったのか。それを知りたかったのは本当は私自身だったが、迫り繰る闇夜は、禰宜さんへのその問いを待ってはくれなかった。

 その夜は、住職と禰宜さんからの差し入れが、ひとりぼっちの夕飯をいつになく豪勢にしてくれていた。そこへどこからともなく、夕方私を絵描きだと言った娘さんが現れた。

「あ、すみません。さっきのお坊さんと違うんですね……」

 そう言って残念そうに去ろうとするのを、慌てて呼び止めた。

「ごめんなさい、あんまり寒いから」

 私が頭へ巻いていた手ぬぐいを取ると、やっと夕方会った者だとやっと分かってくれた様子だった。

「これ作って来たんです。中に少し包んでありますから、ゴミと思って捨てないで……」

 それだけ言ってその人は包みを置いて帰ってしまった。中には蜜柑、おにぎり弁当、パン、そして、幾らかの現金が入っていた。しかし何よりも嬉しかったのは、銀紙で包まれた紙コップのお茶だった。急いで家から持って来てくれたのか、それはまだ暖かい。あのわずかの間にこうして弁当を作って来てくれる人がいる。

(みんなありがとう……)

 その包みを抱えたまま、誰もいない暗闇へ向ってひとり何度もお礼を言った。

朝焼けに映える高野山の山並み

 翌朝五時半、まだ暗い中をヘッドランプをつけて出発し、十時前には高野七口の一つ、九度山から苅萱堂、不動坂へ至る街道の登り口である高野下郵便局前へ到着した。

 私はここで思わぬ失敗をしてしまっていることに気が付いた。今日は金曜日。もし今日中に高野山郵便局へ局留めで送った荷物を受け取れなければ、月曜日まで足留めされることになる。その荷物の中には、四国八十八ケ所の時の納経帳と、この先しばらくの行程の地形図が入っているはずだった。納経帳はともかく、地形図がなくては先へは進めない。高野山で三日の野宿は辛かった。しかも郵便局にはまだ荷物が届いていないという。

 祈るような気持ちで、ひとり薄暗い山道を登り始めた。しばらく沢に沿ってコンクリートで鋪装された細い道が続くと、やがて小さなお堂が見えて来た。苅萱堂だ。ここから先は地形図でも道がよく分からなかった。誰かが、

「苅萱堂にはおばあさんが住んでるから、そこで道を尋ねればいいよ」

 と教えてくれていたが、そこへは確かに女物と思しき洗濯物が干してあったが、人の気配がない。私は、仕方なくあてずっぽうに、そのお堂の前を横切って行く小径を選んで、奥深い山へと分け入っていった。

 道の両側には『至高野山◯里◯メートル』と刻まれた町石もちゃんと立っている。しかし山道は高度を増すにつれて奥深くなっていった。倒木に遮られてザックが通らない! ザックに結わえ付けてある荷物を外さなければ進めない程道は荒れていたが、ここまで来た以上は後へは引き返せない。私は町石だけを頼りに歩き続けた。

 どれくらい歩いただろうか、私は立ち止まった。道がない。歩くべき道がそこでなくなっていた。町石はすぐそばにあり、枝道へ迷い込んだとは考えられない。そこは、斜面をトラバースしてきた道が、V字形の深い谷間へさしかかる場所だった。通常なら谷の斜面のどこかに迂回できるコースがあるはずだが、いくら草木を掻き分けても道らしいものは見つからない。

 思い切って、真直ぐに谷へ降りてみた。しかし向こうの斜面の一体どこへとりつけば、次に歩くべき道があるというのか。そう思った次の瞬間、私の体は数メートルの土砂の崖を滑り落ちていた。

(もう助からないかもしれない)

 泥だらけになりながら無我夢中で登り続けた。ほとんど垂直に切り立った崖を、木の幹や枝を頼りに這い上がっていくと、上の方に瓦葺きの屋根が見えたような気がした。近づいてみるとそれはコンクリートの壁だった。

(林道がある!)

 何とか林道へ出ることができた私は、たまたま通り掛かった車に道を尋ねることができ、極楽橋を渡り、不動坂を登り切って十三時七分、とうとう高野山へ辿り着いた。何もかもが新鮮な驚きに満ちていた。標高九〇〇メートルの場所にこんな宗教都市があることが信じられなかった。しかし昼飯にうどんを一杯食べさせてもらった食堂のおじいさんがぽつりと言う。

「高野山でいい所と言えば奥の院だけになってしまったよ」

 確かに四国遍路が夢にまで見るあの神々しいまでの高野山の姿はここにはなかった。

 郵便局で無事受け取ることのできた局留めの荷物の中から、四国遍路の納経帳を取り出すと、はやる心を抑えて奥の院へと向う。

 向こうから白装束の巡礼が歩いてくるのが見えた。私はその人にそっと手を合わせる。忘れかけていた歩き遍路の姿。そしてその彼女の瞳は喜びに満ちあふれていた。

(きっと四国を満願したんだ……)

 高野山奥の院は、四十万基のお墓が、延々と続く二キロ余りの参道の両側を埋め尽くし、それを抱きかかえるかのように老杉が生い茂る。その最後の静かな谷あいに、今も空海は生きている。四国で巡り会った出来事を一つ一つ思い出しながらその最後の石畳を踏み終えて、私は空海と再会した。

 夕方から再び荒れ狂う嵐になったが、野宿のあてなく彷徨う私を、受け入れてくれた宿坊があった。常喜院。昼間入った食堂のおじいさんが、

「あそこに行けばきっと何か得るものがある」

 と教えてくれたお寺だった。寺の奥さんがかつて禅寺を訪れた時のことを懐かしそうに語って、貸してくれた禅の本の扉には、

上求なき下化はあり得ない、下化なき上求もあり得ない

 と書かれていた。そこには自分が諦めてしまった僧堂修行の道があった。

七、心の平安

 十一月二十九日、十一日目。朝勤行で寺のお坊さんと一緒に、声明という音階のついたお経をあげさせてもらう。しかし私のたどたどしい読経は見ていて何とも情けなく、仏前に並んで座っていた他の宿泊客の方々に申し訳がなかった。

 この日は、一日中豪雨の中を高野山を下り、夕方なんとか道の駅『紀ノ川万葉の里』まで歩いた。その公園の小屋で休んでいると、トラックの運ちゃん(運転手)が二人話し掛けてきた。私達は珍しく宗教について話り合い、おっちゃんは自分の人生観を熱っぽく語ってくれた。そして以前ここで長崎から日本を一周していたおじさんに会ったことを教えてくれる。その人は四キロ歩いて、食費をたった百円しか使わないという。私には超人としか思えない。しかし一度そんな人に会ってみたかった。一体どんな熱意がそこまで彼を歩くことに駆り立てているのかが知りたかった。

 翌朝、腹ぺこの体を癒そうと、カロリーメイトのありそうな自販機を嗅付けて、そこへ近づいた時、私はハッとした。一匹の犬をつれて年季の入ったパイプフレームのザックに、荷物を頭の上まで積み上げた五、六十の男が、一足先に朝食を済ませて歩き出そうとしている。

「もしかして長崎から歩かれている方では?」

「はい、こいつを連れて日本一周しましたよ! 最近は和歌山にいるんです」

 驚くべきことにその人こそ昨日トラック運ちゃんに聞かされた日本一周おじさんだったのだ! しかし、その人は私が次に言う言葉を待たずにさっさと出発してしまった。

 私はそのあまりのあっけなさに面喰らってしまった。もし会えたら色々とノウハウを聞き出したいと思っていたのに、先を急ぐからと言って歩き出した、そのおじさんの後ろ姿は、朝まだき国道の彼方へすぐに見えなくなってしまった。

   *

 日本のあちこちで、彼のようにたったひとりで歩いている人に出会う。

 乳母車へ載せきれない程の家財道具。そのほとんどが道で拾った物だと誇らし気に語ってくれた老人がいた。彼は実に四十年間も日本全国を無銭旅行していた。

「金を持って歩いている人とは話をしない」

 始め彼はそう言って私をつっぱねた。

「あんたは金を持って歩いているだろう。金を持っている人とは話が合わない。そういう人はみんな昼時になったら、『さあ、何を食べましょうか』とか『あそこにちょうど食堂があるから入りましょうか』とか『ジュースの自販機があるからここで休みましょうか』とか言う。それが嫌なんだ」

「世の中はうまくできている。(なぜなら)貧乏人はこうしていつも歩いているから病気もせず、病院に行かなくてもいいから金もいらない」

 その時、ほんの遊び半分のような徒歩旅行を繰り返していた私には、その人へ返す言葉がなかった。

 またある時には、どこに目や鼻があるのかすら分からない程、真っ黒に日焼けした青年に出会った。その青年は、金がなくなったらその町で働き、また溜まった金で歩き始めるという、そんな気ままな歩き旅を続けていた。私はその青年と別れた後、彼が教えてくれた自宅の住所へ手紙を出した。しかししばらく経ってその母親から送られて来た一通の手紙は、私の心を複雑にした。彼は旅に出て以来ずっと家へ戻っていない。連絡も全くなく、今どこで何をしているのかも分からないのだと言う。そこにはその母親の痛切な思いが込められていた。

 四国遍路では、一人の歩き遍路と駅で野宿をした。一緒にガソリンストーブで濡れた靴を乾かし、湯を沸かしてカップラーメンを食べたりして、遍路道中のいろんな失敗談などをおもしろおかしく語り合ったりしたが、その人は、自分がどこから来て、どういう人間なのかということだけは、決して語ろうとはしなかった。ただ黙々と杖を突いて巡礼の道を歩き続ける、そんな彼の後ろ姿を思い出すと、今でも目に泪が滲んでくる。

 ある寺では、滝行や断食などの荒行をしつつ歩いているまだ若い青年と一緒になった。私が出会った時には、すでに彼はその寺で当分の間、修行することを決心していた。

 歩き旅、そして巡礼に出るということは、そんな彼等にとって、思い出したくない何かとの、耐え難い心の痛みを伴った離別であったのかも知れない。その離別や動機が何であるのかは、人それぞれに異なっていても、旅に出る前に彼等が見ていた日本の社会は、一様に、限りなく冷たいものであったに違いない。

 乳母車をひいていた老人は私にこう言った。

「わしなんか家にいないほうが、周りに迷惑をかけないから……」

 彼等はみんな心の平安を求めていた。ひとりぼっちの淋しさ、暴走族の騒音、排気ガスの充満したトンネル、足の豆の痛み、凍てつく様な寒さ、灼熱の太陽、暗闇の恐怖、飢え、渇き……。そんな苦しみを苦しみとも思わせない何か大きな力が、彼等をその真の幸福へと導いている様な気がしてならなかった。

   *

 その日の夕方、私は四番施福寺で一夜の宿を乞うことになった。

「ちょっと待ちなさい、いいとこがあるから」

 と住職が言う。しばらくして現れた親切そうな寺男に案内された所は、その昔、寺の坊として使われていたという古い建物だった。中には三、四十畳はあろうかという畳の敷かれた大広間があって、蜘蛛の巣の張った五右衛門風呂がある土間と、大釜の並ぶ厨房へは、かろうじて足元を照らすことのできる小さな裸電球がぶら下がっていた。

 そんなところへ、

「電気も、ほれ、トイレもあるし、遠慮なく」

 とひとり取り残されたものの、その無気味さに思わず飛び出したくなる。気を紛らわす為に、仏壇に祀られた大日如来と釈迦牟尼佛にお経をあげてみるが、鼠が辺り構わず走り回るのには参った。以前、亀虫がうようよ這う通夜堂に泊めてもらったことはあったが、鼠にはちょっと耐えられなかった。悩んだ挙げ句、結局土間へテントを張ることにした。しかしそのテントの内側を見て腰が抜ける。今度は大きなムカデが張り付いていた。昨日から尻の辺が痛い訳がようやく分かった様な気がした。テントの外では相変わらず鼠の走り回る音が止まない。

八、雪中野宿と暴走族

 十二月に入りとにかく耳と手が冷たいのには参った。京へ向けてひたすら北上するが、それは常に真正面から北風を受けるということでもあった。そしてそこでは杖を突くということが一つの苦行になっていた。しかし逆にそれを持つ手を交互に変えることが、唯一の希望でもあった。

 十二月二日の夕方、六番壷阪寺の麓でとうとう吹雪になった。笠をつけるも強風で前がよく見えない。そしてようやく寺へ辿り着いた私を待っていたものは、高さ二〇メートルの大観音像、レリーフに飾られた大石堂を始めとする大伽藍だった。拝観料を支払い、中へ入ると境内の一角に釈尊の一生を描いたレリーフが並べられていた。私は諸堂の拝観はほとんどせず、雪の舞う中、唯そのレリーフに見入った。

 レリーフにはひとつひとつ詳しい説明がつけてあった。それを読みながら、出発前に慶澄さんから贈ってもらった『スッタニパータ(ブッダの言葉)』の一節を思い出す。

寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、蛇と虻と、これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め

 今夜はせめて雪をしのげる場所へ野宿したい。私は軒下の宿を寺に願い出た。しかし寺側は治安の問題を理由に丁寧にそれを断わってきた。予想もしない事だった。もう山を下る元気は残っていないし、下ったところで野宿できる場所が見つかる保証はどこにもない。

 寺務所から出て来たその男は、私に一杯のお茶を差し出して、

「バス停なら屋根もありますし、あそこなら私達の責任外です」

 と言う。私は腹の底から込み上げてくる何かをグッと抑えながら、馬鹿丁寧なお礼を言って頭を下げると、その人に見送られて寺の山門を出た。

 もともと野宿の巡礼というものは、こんなものなんだ。人に頼ってはいけない。必死にそう自分に言い聞かせたが、教えられたバス停には、冷たい雪混じりの風が山の上から吹き込み、とてもじっとしていられない。たまらなくなって近くに見つけたたき火にあたっていると、みやげ物やのおばちゃんが出て来て、

「あんたあそこじゃ今晩はとても寝れんよ。もう少し下の駐車場の方が絶対暖ったかいから」

「もうちょっと早く来とったら、弁当暖めといてやるのに、あんちゃん来るの遅かったやろ……」

 と言う。その言葉に泪が出た。

「おばちゃんもバイクの運転気をつけてな」

 おばちゃんは、

「ありがとう」

 という言葉を残して、吹雪の中、山を降りて行った。

 日が暮れて、高台の大観音像は美しくライトアップされたが、頼みの公衆便所の電気は消えて、辺りは闇夜に閉ざされた。しかもテントを張っている駐車場は、いつの間にか暴走族のたまり場と化していた。鼓膜も張り裂けんばかりの爆音が辺り一帯にこだまし、奇声をあげる彼等に何かされるのではないかという恐怖が身を凍らせる。結局一睡もすることなく、朝までずっと寒さに震えていた。もしあのおばちゃんの暖かい言葉がなかったら、耐えきれなかったかも知れない。

   *

 翌朝から天候はなんとか回復し、次々に札所を打つことができたが、その分、相変わらず厳しい寒さは続いていた。

 十二月四日、十六日目は十番三室戸寺まで打ち終えたところで日が暮れ始めてしまった。私はいつものように納経所の人へ一夜の野宿を願い出たが、この寺でもそれは断わられた。

「四時半には閉門して警報が鳴るから駄目です」

 寺には誰一人住んでいないのだ。

 少なくとも四国遍路をするまでは、寺は今生きている者にとっては縁の少ない場所だと、私は思っていた。しかし、へんろみちに散在する寺院は、巡礼の心のよりどころとなっていた。ある時は一宇のお堂の軒下へ宿を乞い、又ある時は山門の下へうずくまって夜を明かす。そんな野宿の巡礼のために、畳の敷かれた小さな小屋や、通夜堂の一室を与えてくれる寺院も多かった。

 それ以来ずっと、寺院とは巡礼を暖かく迎え入れてくれる場所だと信じていた。あまねく一切の生きとし生けるものの幸福を願い、それらへ惜しみない慈悲を振り向けようとする仏教。その寺院は、巡礼に限らず、全ての弱い立場の者にとって安らぎの場であると思っていた。

 しかし、西国霊場の札所には、既にそうした寺院はほとんど残されていないように思えてならなかった。それは、現代日本の車社会が引き起こした悲劇の一つなのかも知れない。

   *

 肩を落として三室戸寺の山門を出て、門前町を彷徨ったが、公園では子供等にサルガンセキとからかわれ、野宿を乞いに入った寺では犬にさんざん吠えられる。やっと住宅街のど真ん中の何もない小公園に辿り着いた時には、もう辺りは真っ暗になっていた。トイレがないので夕飯をパンをかじっただけにしたのが災いして、寝袋にくるまっても、腹が減ってやりきれない。しかしそれよりも寒さの方が心配だった。

 翌朝、予想通りテント内は五℃以下にまで冷え込んだ。体温がじわりじわりと奪われていくのが分かり、持って来た寝袋の限界を初めて感じた。その上テントが凍っている! 夜露がみんな凍り付いてしまったのだ。そのテントを撤収する作業は地獄だった。かじかむ素手を暖めながら畳もうとするが、どうしてもうまく袋に入り切らない。凍ったテントがこんなに冷たいものとは思わなかった。せめてこんな時の為にも、軍手ぐらい買わないと……。もう寒さのあまり挫けそうになる自分をそんなふうになぐさめた。

九、橋の下の佛さま

 三室戸寺から標高四〇〇メートルの上醍醐寺、三三〇メートルの笠取山の峠、さらに四〇〇メートルの岩間寺を越えて十三番石山寺まで来ると、もう琵琶湖は目前だった。私は眼下を流れる瀬田川を前に嘆きとも喜びともつかない深いため息をつく。出発前に地図を眺めながら、ここまで歩いて来た自分が一体どんな心境でこの川に出会うのか。それをいろいろ想像してみた。

 出家した私に強い影響を与えた一休禅師は、七日間の石山寺での参籠後、この岸辺を湖畔の膳所城までさかのぼり投身自殺を計ったという。そしてそこには忘れもしない、生涯初めての行脚の第一夜を過ごした場所があった。

 一九八九年七月二十七日夜、国道一号線が瀬田川を渡りきったその橋の下に野宿をした。今もあの若き多感な日々がそこに残されていると、そう信じて、私はじっとその場所を見つめて動こうとしなかった。ここから僧侶の道を選んだ私のすべてが始まっていることを、誰よりもよく知っているのは自分自身だった。

 十二月六日、十八日目。かねてから道中一緒に歩いてみたいと言われていた幽黙さんと一日だけ京都の札所を巡ることになった。道中の淋しさは、彼と語りつつ歩んでいる間は、みんな消えてしまった。ひとりきりの時は黙って歩くことが多かった。何かを感じた時は、写真を撮り、日記をつけた。しかし今日は違う。私にはその喜びや悲しみを共にしてくれる友がいる。そのことが何より嬉しかった。

 この日は十九番革堂こうどうまでを打ち終え、夕方、ある禅寺の宿坊の門を叩いた。宿泊する部屋へ案内された後、住職の部屋へ通される。火燵の反対側にそのお坊さんが座り、他にも何人かの寺の人たちが暖をとっている。いきなりその人は尋ねてきた。

「どこの僧堂で修行した?」

「僧堂修行はしておりません」

 そう答えるや否や、

「ばかもん!」

 と一喝された。

「お前は順序を間違っていないか。まず僧堂を出てそれから歩くなら歩けばいい」

 臨済宗では僧堂修行もしていないような僧は僧とはいえないことは知っていた。しかし今歩いていることそのものを否定されたことに気が動転し、私はいろいろと理屈を並べて、

「出て行け!」

 の言葉通りその宿坊を後にしてしまった。

 二人は再び冷たい北風の舞う公園へ戻って来た。全ては私の中途半端な生き方、半僧半俗と思っているこの身が間違っている。自分は弱かった。だからこそ僧堂修行に挫折し、だからこそ歩き続けた。

 大学時代、東海道五十三次を友人と二人で踏破した後は、挫折の連続だった。九十一年の北海道縦断、九十二年の日本縦断、九十三年の四国遍路、そして九十四年の出家、僧堂掛塔かとうをそれぞれ途中で投げ出し、九十五年には何とか残りの四国遍路を踏破したものの、その日以来自分には挑戦すべき次の壁が見えていた。それが今回の行脚だった。

 幽黙さんがぽつりと言う。

「義晃さん、目悪いんでしたよね」

 私は視力が〇・一以下なのに眼鏡を持っていない。

「あの革堂の尼僧さん、山門を出る時、ピースを二つも出して見送っておられましたよ」

 お経を唱えつつ、真言を唱えつつ歩んで行く巡礼は、時に人々に勇気づけられ、時に人々を勇気づける。巡礼がたとえどんな経歴や身分であろうと、その歩みの祈りの姿は変わることがない。巡礼には身の上を聞いてはならない。その問いに答えてしまって、ひとり落ち込んでいるのが情けなかった。

「世の中の人がみんな完全だったら、面白くないですよね」

 自分に言い聞かせるようにそう言うと、私は再び歩き始めた。

 十二月八日、二十日目。禅宗僧堂は臘八大接心ろうはつおおぜっしん(禅宗寺院の専門道場において、十二月一日から始まる一年の内で最も厳しい八日間の修行)の最後の朝を迎えていたが、私はテントを撤収すると、いつものように、ただ黙々と雨の中を歩き始める。

 二十一番穴太寺から二十二番総持寺までの間には、いくつかの峠越えのルートがあり、どれを歩くか迷ったが、雨ということを考えて最短コースを選んだ。しかし車道は道幅が狭く、歩道が全くない。それに前後から巨大なダンプカーが擦れ違い、その度に路面に溜まった泥混じりの雨水をはね飛ばしていく。ドライバーもこんな道に歩行者なんかいたらたまらないだろう。

(早く着きたい)

 そう思えば思う程、道程は長く感じられる。巨大な砕石工場が見えてきた時だった。私は突然足元をとられ、転倒しそうになった。道の両側は、溶けたセメントの様な泥で一面覆い尽くされ、塀にもべったりと泥が付着していて、体中セメントだらけになってしまった。

土砂崩れを越えて歩いていく

 十三時半。茨木市内に入り、暴走するダンプカーにいつ轢かれるとも分からない恐怖におびえ、セメントだらけで歩き続けた三時間の苦闘がようやく終わった。

 二十二番総持寺の境内に入ると目を疑うような豪華な納経所があった。まるでホテルのロビーのようだ。自動ドアが開くと、暖房のよく効いたホールのカウンターに、作務衣姿のお坊さんがぽつんと座っている。お坊さんは、差し出された納経帳を事務的に処理し終えると、また自分の仕事を始める。ロビーには寺の紹介のビデオが流れ続けていた。

 私は立ち止まることなく寺を出て、もの足らなさを慰めるかのように歩き続けた。ふと見ると、捨てられたとは思えない布団が橋の下に広げてあった。ささやかながらも周りに並べられた家財道具。私は杖を両手で持ってその橋を渡る。巡礼は橋の上では杖は突かない。それは、世間では弘法大師が橋の下で野宿されたからだというが、その本当の意味は、そこに野宿をした者なら誰しもが知っていた。

道の途中、いたる所にゴミの不法投棄がある
歩いている途中で見つけた一休さんのような人形

十、こういう仕事長いんか

 十二月九日、二十一日目。標高四〇〇メートルの峠を越えて二十三番勝尾寺、さらに宝塚の高級住宅街を通って、二十四番中山寺を打ち終えるが、どの寺もエスカレーター式の参道や、ホテルのロビーような寺務所、立派な塔や山門はあれど、寺そのものに魅力を感じることはなかった。

 午後、町中での野宿をさける為に、宿を取ろうとタウンページを頼りに電話をするが、立て続けに三軒断わられてしまった。歩いている巡礼だということが分かってもらえず、携帯電話がないのなら泊められないという宿。二人以上でないと駄目という宿。今改装中だという宿。四軒目でようやく一人でも泊めてくれる所があったが、一泊素泊八千円は信じられない。もう電話をかける元気がない。天下に名の知れた宝塚なら一つくらい適当な安宿があるだろうという期待は、無惨に散ってしまった。

 朝からの歩行距離は既に三十二キロを越えていた。ひたすら歩き続けたが、夕方四時を過ぎても適当な野宿地が見つからない。そんな中、家路を急ぐ車の列の中で、一台の乗用車が路肩に停車しているのが見えた。近づいて行くとサングラスをかけた若いあんちゃんが降りて来て、千円札を黙って差し出す。どうもお接待をしたいらしいのだが何と言っていいのか分からない様子だ。車の中からは、連れの女性が、

「乗って行く?」

 と声を掛けてくれる。

 ステレオのボリュームを一杯に上げて、暴走する若者たち。そんな彼等が肩を落としてしょんぼり歩いていた私を励ましてくれている。こんなことは初めてだったし、信じられなかった。人とは本来こんなにも優しい心を持つものなのか。壷阪寺で見た若者達を思い出す。一体何が彼等を暴走へと掻立てているのか。一体何が彼等にその本来の心を思い起こさせているのか……。

 夜。名塩という集落の高台に、ようやく神社を見つけてテントを張った。ラジオから聞こえてくるアナウンサーの、

「明日は冷え込みが厳しくなりますので、暖かくしてお出かけください……」

 というのんきそうな声に無性にやりきれなくなる。バカヤローと叫びたくなるのを必死に抑えて、寝袋に頭まで突っ込んだ。

   *

 十二月十日、二十二日目。朝テント内は五℃。辺り一面は真っ白い霜で覆われていた。

 七時半、国道が北六甲台へさしかかる短い橋のたもとで、工事現場のおっちゃんから声をかけられる。

「こういう仕事長いんか?」

 こういう、つまり歩いているのが私の仕事だとそのおっちゃんは言う。

「どこから来たんや」

「和歌山の那智」

「どこへ行くんや」

「岐阜まで」……

 歩いている間じゅう、工事現場に出食わさない日はなかった。そして日本の社会はこんな土方のおっちゃん達が支えているんだと感じていた。朝早くから夕方遅くまで、毎日丸一日北風に吹かれて道路を延ばし続ける。車は嫌いだったけれども、そんなおっちゃん達は好きだった。この北風の本当の冷たさを唯一分かってくれる人達だとも思った。

 そして私は「仕事」だと言われた自分の行脚を省みた。これは金儲けじゃないし、世間から見れば暇と金を持て余した者の贅沢な旅行かも知れない。しかし、そのおっちゃんと今の自分には、「生きる」ことと「働く」ことは全く同じだった。どちらが手段でもどちらが目的でもない。歩くために、歩き続けること。それが今の私のすべてだった。

 いつしか地形図には休憩した場所へ、日時と歩行距離、そして気温が記されるようになった。九時四十二分、三田市貴志、十三・八キロ、六℃。十時二十八分、広沢、十六・四キロ、七℃。十一時二十六分、相野、十九・八キロ、八℃。十二時四十五分、間新田、二十四・五キロ、八℃……。昼過ぎでも十℃を越えないこんな日は、冷たい北風にうんざりした。

 大川瀬ダムの岸辺を辿る淋しい道では、数匹の野良犬にまわりを取り囲まれた。西国でも町中で放し飼いになっている犬に睨まれることは多かったが、こうして人里離れた場所にたむろしているのに出会うことは滅多にない。彼等は自分の縄張りを侵されるのではないかという恐怖心から、さかんに牽制してくるが、決してその誘惑に負けてはいけない。こちらが少しでも逃げ出す姿勢を見せれば、今とばかりに襲ってくるだろう。

 私はこういう時、いつも知らん顔で、メモ帳をめくったりして、何か考え事をしているふりをすることにしていた。彼等が動物的な本能で襲ってくるのなら、こちらはそれを人間的な知性をもってかわさなければならない。歩き旅をする者が、野良犬とうまく付き合っていくためには、ちょっとした技術が必要だった。

 標高五二〇メートルにある二十五番清水寺へ辿り着いたのは、もう午後三時過ぎだった。

(今夜だけは宿に泊まりたい)

 祈るように納経所のお坊さんに尋ねる。

「ここのユースホステルへ今晩泊めていただけないでしょうか」

「せめて午前中に電話してくれればねえ、突然言われても」

「ついさっきここへ宿があると知ったんです。部屋だけでもいいんですが……」

「社<やしろ>まで行けばビジネスホテルがあるから」

 そんな……、社はここからまだ十キロもあるというのに。

 本堂からは、遥か彼方に光り輝く瀬戸内海が見えたが、もうその光景に感動する元気がなかった。肩を落として歩き続けるそんな私に、下校中の子供達が次から次へと挨拶をしてくれる。

「さよなら、さよなら……」

 それに返事をする度に、私は少しづつ勇気づけられる。子供達の心は厳しい自然に育まれ、限りなく透き通って見えた。

 十七時。地形図を頼りに、下鴨川の住吉神社へ到着した。夜露をしのげる場所がどうにか見つかったことだけが救いだったが、周りには民家も街灯もなく、夜はとんでもない寒さと淋しさで寝付けなかった。外を猪なのか犬なのか四つ足の獣の走る音がする。テント内は氷点下1℃。ありったけの重ね着をしても全く眠れなくなってしまった。仕方なく深夜ラジオを聞き始めるが、まるで時間までもが凍ってしまったのかと錯覚した。

 翌朝、暖を取るための手段のない私は、自販機を求めて歩き続けた。しかし手足がかじかんで、思うように歩けない。そんな姿を見兼ねてか、車が止まって、

「何か困ったことはないのか?」

 と声を掛けてくれるが、まさか、

「暖かい飲み物が欲しい」

 と言う訳にもいかなかった。

 出発から二時間。馬瀬でとうとう自販機を見つけ、泪が出る思いで一杯飲んだ。やがて谷を挟んだ山の稜線から、ようやく太陽の光が差してくる。

 私は思わずその太陽に手を合わせた。生まれてこの方、太陽がこんなに有り難い日はなかった。太陽がこんなに恋しい日はなかった。

 気が付くと片方の耳には凍傷の大きな水膨れができていた。

『無理は美徳じゃない』

『オリンピックするな』

 幽黙さんや四国で出会ったクマというお坊さんの言葉が思い浮かぶ。

(今夜は社で宿に泊まろう!)

 その日は宿までのたった十キロの道程を、半日かけて歩き、太陽を思いっきり浴びた。

  太陽の日を腹いっぱい

 良く晴れたこんな日は、もう何もなくてもそれだけで十分だった。

十一、上を向いて歩こう

 西国巡礼は姫路から中国山地を横断して一路日本海を目指して北上する。十二月十五日はその横断の行程の三日目だった。否応なく野宿しなければならない日が続き、いつ終わるとも分からない道程、ひとりぼっちの淋しさにあえいでいた時、昼飯を買いに入った食料品店の屋外スピーカーから、あの「上を向いて歩こう」のメロディが流れ始めた。感激の余り泪が出そうになる。それ以来、道中で挫けそうになる度に、幾度となくこの歌詞を口ずさんだ。

 夜久野から再び京都府へ入って国道九号線と別れると、辺りはやっと静かになった。人家もまばらでオアシスである自販機もほとんどなかったが、何よりあのダンプカーの恐怖に怯えなくてよいことが嬉しかった。農村を真直ぐに貫くのどかな車道の両側に、葉牡丹で彩られた大きな門松が飾られ、十二時になると、「もう幾つ寝ると、お正月……」のメロディーが流れる。それは偶然にしろ、歩き疲れた巡礼の心を慰めるのに十二分な演出だった。

 夕方、野宿しようと立ち寄った但東町の大生部兵主神社の大杉の説明板を読んで、背筋が冷たくなった。その杉には、藁人形を釘で打ちつけた跡が幾つも残っていたのだ! そこにはわざわざその部分の拡大写真の入った新聞記事の切り抜きまで貼ってあった。観光で来たのならともかく、たまたまここで日が暮れてしまい野宿を余儀なくされている者にとっては辛かった。

 午後から雨が止まない。私はその杉の前で手を合わせてから、仕方なくすぐそばの軒下にテントを張った。正直に言うと、この時程自分が僧形でいることを有り難く思ったことはなかった。

  風の音にも念仏雨の音にも念仏

 夜、お参りに来た近所の老婆が、

「何じゃこれ、何じゃこれは」

 と不審そうな声を出して、テントを触ってくる。私はひとりテントの中で例えようのない恐怖に怯えていた。

 日本海に出会える日。十二月十七日、二十九日目。二十八番成相寺から、歩く巡礼にとってはまるで天国の様な天橋立を渡る。

 しかしその喜びもつかの間、前方に巨大な栗田トンネルが見えてきた。長いトンネルなんてもう慣れっこだからと安易に考えていたが、中の状態は最悪だった。歩道が狭い上、路面が雨で濡れた泥で覆われていて、何度も滑りこけそうになる。いつものようにヘッドランプをつけなかったことを後悔したが、前から後ろから迫りくる大型トラックや観光バスに、ザックを外すこともできない。そのたった一キロ足らずの道程が、何時間にも感じられた。

 栗田湾の小さな漁村を通り抜け、鉄道と車道とが断崖絶壁にしがみつくように並行して走る奈具海岸はさらに苦戦を強いられた。車が撥ねつける水を避けるべき場所がない。もう靴の中までびっしょり濡れている。せっかく出会った日本海の美しい景色も、ゆっくり鑑賞している余裕はなかった。

 十四時半。ようやく由良の町へ入った。海水浴場にあった公衆便所で靴下まで脱いで素足になり、冷えきって感覚のなくなった足の指を、手で暖めてみる。濡れた靴を履いているよりも、素足でいた方がずっと楽だった。ついでに靴の中をよく見てみると、尖った小石が靴底を突き破って刺さっていた。どうも数日前から左の靴下にだけ大きな穴が開いて、足の裏が痛むと思ったら、これが原因だったのか……。靴下に穴が開く程に歩いたことを誇りに思い、証拠写真まで撮り、その都度買い替えていた自分がおかしくてたまらなかった。

十二、たった一つの希望

 十二月二十日、三十二日目。今なお当時の鯖街道の面影を残す熊川宿で、三代前から続いているという、きく家旅館のおばちゃんに、食事をみんなたいらげることを喜ばれる。私も直前に迫ったゴールに心落ち着かず、宿代の釣銭も受け取らないで、お礼を言うとすぐに宿を出発した。

 熊川から琵琶湖湖岸の今津までの約十三キロは、狭い国道を大型トラックが行き交う最悪のコースだったが、そんな辛さもあと少しの辛抱だと思うと、みんな消えてしまった。今日は午後から竹生島へ渡り、さらに湖東の長命寺まで船で行き、近江八幡市内へ一泊。そこから岐阜県谷汲までは、長く見積もってもあと三日しかかからない。

 今津港への標識が見えると、もう両足は休むことを知らなかった。今津警察署のある最後の交差点を左折すると、港が見えた。しかし船が着いている様子もなく、人気がない。そして切符売り場に残されたたった一枚の貼り紙を見て、気を失いそうになる。『運休中』。すぐ前の酒屋へ飛び込んで店の人に尋ねる。

「今ここから竹生島へは船がないのですか!」

「長浜や彦根からならあると思うけど……」

(そんな馬鹿な!)

 船の運行会社へ電話すると、その受話器からの丁寧な女性の声。

「大変申し訳ありませんが、冬期は長浜と彦根からのみ運行しております」

 長浜?彦根?そんな地名は頭になかったので、急いでコンビニで観光ガイドを買って来て、琵琶湖のあるページを開いてみて愕然とする。

 長浜も彦根も今津の反対側の遥か湖東にあった。琵琶湖を長浜まで北から回って五十キロ、彦根への南回りだと百キロはありそうだった。しかも北回りだと長命寺までの約四十キロを戻り打ち(往復)しなければならない。歩く巡礼にとって、同じ道を意味なく行き来することはこの上なく辛かった。

 私は予約していた今夜の宿をキャンセルすると、周りの迷惑も顧みず、コンビニの前で地図を投げ出したまま頭を抱え込む。寒さも、足の痛みも、空腹も、もうどうでもよかった。

 一時間。何かを考えていた。しかしそれはもう思い出したくもなかったし、思い出せなかった。私はたった一つの希望を持って、目の前の警察署に駆け込んだ。すぐに親切そうな若い警官が応対に出てくれる。

「琵琶湖大橋は歩いても渡れるんでしょうか?」

「あれなら確か二十円だか三十円で渡れる筈だよ」

 琵琶湖大橋は今津から南へ四十キロの地点から一気に湖東へ渡っている。そしてそこから長命寺までは二十キロ程だった。三十三ケ所の打ち順を初めて狂わすことにはなるが、南回りなら岐阜へ向う途中の彦根から竹生島が打てる!

(もうあと二日)

 頭の中にはそれしかなかった。もうあと二日、六十キロを余計に歩く。しかし地図を見てしまうと、その道程は余りにも遠く感じられた。

 十六時十八分。JR北小松駅を見上げる神社に辿り着き、そこでテントを張る。そんな姿を見て、コンビニで会ったおっちゃんが、

「将来偉くなる坊さんだから、名前教えてくれ」

 としつこく迫ってきたが、私は何も答えなかった。

 翌朝、灰色の雲の中を昇り来る太陽を、久しぶりにファインダーから覗いていた。今までずっと撮り続けた記録写真も、昨日はたったの一枚だった。そして十時。とうとう琵琶湖を歩いて渡った。もう渡れない湖はない。そう思うと琵琶湖を前に泪が出た。

 十二月二十三日、三十五日目の早朝、竹生島へ渡る船の出る港を目指して彦根市内を歩いている時だった。

「ずっと歩きか?」

 駐車場でワゴン車に乗ろうとしていたおっさんが声をかけてきた。

「電車とか乗らんとか、頑張るんやなー」

 と言うとその荒々しい体格に不似合な笑顔で千円札を接待してくれる。

 そして彦根港へとうとう着いた。広い待合室に、一組の夫婦と、私、そして数名の乗船員がガスストーブで暖をとっていたところへ、船が着岸し、いよいよ出航準備完了の合図が出される。そして全員が乗船し終わると、すぐに船は陸から離れた。

 遠くの島陰が近づくにつれて、他の客は席をあちこち変わったり、デッキへ出てみたりしていたが、私はじっと窓から外を眺めていた。

(雲が流れて行く!あんなに早く!)

 ずっと止まっていたかのように見えていた雲が、突然頭の上を動き出す。その感動は言い知れぬものがあった。

 彦根からの往復便の乗客に許された竹生島での滞在時間は、わずかに一時間しかない。私達は、先を争うように上陸すると、足早に参拝と観光を済ませ、再び元の船へと戻ってきた。ザックをかかえてタラップを渡ろうとする私に、船員が声をかける。

「(拝観料を)まけてくれたか?」

「いいえ」

「これからどこへ?」

「岐阜です」

「ほなこれやろう」

 おっちゃんはそう言って缶コーヒーを一本くれた。

 帰りの船内に流されたアナウンスのバックミュージックが、高野山で唱えた声明に聞こえた時、私は止めどなく溢れ出る自分の泪に気が付いた。北風と戦いながらがむしゃらに歩き続けてきた三十五日間の辛くも懐かしい思い出が、一つ一つ蘇ってくる。あれからずっと耳にはあの声明が鳴り響いていた。そして空と湖の青さが目にしみた。見えるもの全てが目にしみた。

 その午後は久しぶりによく晴れていた。私はこの日初めて、自分がなぜ旅に出たのかを考えた。インターネットプロバイダで端末の前に座る毎日。作家、僧侶、一度は諦めてしまった自分の道。大学時代から続けていた数々の徒歩旅行、そして行脚。挫折の連続。そこにどうしようもなくなった自分があった。越えられない壁に再び挑戦せずにはいられなかった自分。厳冬の西国観音霊場を歩き始めずにはいられなかった自分。そんな自分は、道中の幾千幾万という人と自然との出会いの中で、限りなく希薄になって、なくなり、そして今再び私自身の道を見い出そうとしていた。

十三、満願、そして今

 おかしなことに、旅の途中から人に尋ねられても今朝どこから歩き始めたのか、昨日どこへ泊まったのかが思い出せなくなっていた。私はこの寒さのためにひどく忘れっぽくなっていたのだろうか。それとも、今を歩くことに精一杯でそんなことを思い出す余裕すらなかったのだろうか。

 十二月二十五日、満願の日。昨夜泊まった大垣駅前の坂田旅館でも、沢山の出稼ぎ労働者たちが一緒だった。彼等はもう数ヶ月も ここで働いている。道中こうした安宿に泊めてもらうことが幾度となくあったが、食堂や風呂で一緒になっても彼等にはどうしても溶け込めなかった。私一人が個室を与えられていたということもあったが、行脚とは名ばかりで、ろくに僧堂修行もしていない似非えせ僧侶の自分。路銀を携え、気紛れに宿をとりつつの歩き旅は、この上なく贅沢に見えたはずだった。

 日本海に面したある町では、前から歩いて来た老婆が突然目の前で合掌してこう訴えた。

「今、禅寺からの帰りです。寺には外人さんやお坊さんが沢山修行されていますが、彼等は毎日ただ坐って食っていればいい。世間から見れば何と言う贅沢か!」

 そんな私はこの三十七日間、ただ歩いて、ただ生きていた。

 しかし道中受けたお接待、励ましの声数知れず。実際旅費の半分近くはこうしたお接待だった。特に忘れられないのは、子供やお年寄り達の笑顔だった。擦れ違った後で、

「お坊さんに挨拶ができた!」

 と喜んで走り去った子。手を取って身の上話を語り出した老人。土方のおっちゃん、おばちゃんたち。今にも倒れそうな野良犬。車に轢かれた獣のなきがら。道端に添えられた花束。それらに手を合わせ続けた僧形の私。これ以上でもこれ以下でもない私。今ここにあるがままの姿の私。

 十二時。見上げた空に雲は一つも浮かんでいなかった。岐阜県揖斐郡谷汲村にある西国観音霊場三十三番華厳寺の山門の前に、私は立った。左手に笠を取り、右手に杖を突いて、光り溢れる境内へ踏み込む。

(満願寺では必ず観音経を読もう)

 そう心に決めていた。

 そして最後の納経が終わった。満願。千百キロ、一五八万歩、三十七日間の行脚が、この今の私の心を透明にしていった。でき得るならこの喜びを誰かに伝えたい。

 その時だった。仁王門から一人のお坊さんが歩いて来るのが見えた。黒い作務衣姿のその人は、右手を差し出して、あの忘れられない笑顔で迎えてくれた。

「信じられない!」

 慶澄さんがわざわざ長野から車で会いに来てくれていた。

「確か二十四か、二十五に着くと書いてあったから……」

 私が一週間前に天橋立から出していた手紙だけを頼りに……。それは全く奇跡としか言いようがなかった。

「慶澄さんにどうしても撮ってもらいたい写真があるんです」

 私は網代笠を裏返しに持ったまま、山門の前に立った。それはこの道程を共に歩んでくれた幽黙さん、慶澄さん、そして数えきれないお接待、この一巡礼と心を通わせてくれた全ての人々へ、私からできる精一杯の感謝の気持ちだった。

 巡礼、すなわち歩くことはいつも何かを教えてくれていたが、自分の短い人生をこんなことに賭けてもいいのかどうか、こんな生き方でいいのかどうか、本当はずっと迷っていた。行脚は単なる現実逃避だという後ろめたさと、躊躇がどうしても頭の隅から離れなかった。しかし、歩くことは必要以上に私をひきつけてやまなかった。歩いていない時は淋しかった。歩けない日は悲しかった。なぜこんなにも歩くという行為が私をひきつけてやまないのか、それを知りたくてまた歩き始めた。

 私にとって歩くということは祈りそのものだった。町を歩いている時は町へ祈り、山を歩いている時は山へ祈り、雨を歩いている時は雨へ祈り、風を歩いている時は風へ祈る。こんな私の仏教は、歩くことで得た経験に他ならず、それはもはや仏教とは呼べないものかも知れない。

 ただ歩いて、ただ生きること。こんなに簡単で、こんなに難しいことを知るためだけに歩き続けた日々。たとえどんな生き方をしていようと、それが生きるために働き、働くために生きるという、人間本来の姿に根ざしたものであるならば、それはきっと本当に幸せと呼べる人生なのではないだろうか。巡礼の道を歩むということは、私に生きることの大切な意味を教えてくれていた。

 そしてそこには、名もない巡礼たちの一歩一歩の歩みの積み重ねによって、この日本に生み出された「巡礼」という文化があった。そのひとつひとつの歩み、ひとりひとりの歩みは限りなく無意味に等しいとしても、そこに形作られる「巡礼」という祈りの姿は、決して変わることがない。これを真の文化と言わずしてなんと言うのか。

 しかし、今まさに西国からは、お接待という習俗が跡絶え、わずかに残された巡礼の火が消えようとしていた。それを再び呼び起こしたいという願いを込めて、私はまた次の一歩を踏み出そうとしている。永遠に変わることのない祈りの姿を伝え、求め続けるために。

あとがき

 noteへ掲載するために、過去に書いていた原稿をあらためて読み返してみた。この頃は、まだ携帯電話もなく、道に迷ってもどうすることもできなかった。

 しかし、携帯電話がなかった時代だからこそできた貴重な体験だったと、今になっては思う。今の時代で、携帯電話を持たずに、こんな旅ができるだろうか。不便だったからこそ、出会えた人のやさしさがあった。人は、そういうやさしさに触れることで、成長していくのだと思う。今の人は便利なものに囲まれすぎて、人のやさしさに触れる機会が少ない。本当に残念なことだと思う。

 私たちは、日々、社内にある柔道場で柔道をしている。せめて柔道をしている間だけでも、携帯電話を持たないで、赤子のような無心なこころに戻って、人間同士のふれあいができればと、願っている。

 柔道衣は私とっては巡礼の時に着ていた「白衣」だ。だから、柔道をしている今も、私は「道」を求めて歩き続けている。

 ところでこの紀行文は、noteを書き始めてからちょうど33日目に公開することができた。西国三十三ヶ所の紀行文だから、ちょっと嬉しい。

巻末付録

西国三十三カ所 徒歩巡礼 カラー地図 PDF版

西国三十三カ所 徒歩巡礼 地図 PDF版(手書き)

受けたお接待の記録(直筆ノート)

受けたお接待の記録。合計 50,590円となっている。

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