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「Education」=「教育」という変換 岡倉天心の「翻訳というものは常に裏切りでしかない」という視点から…

歴史的視点:Educationの「教育」への翻訳の背景


 「education」という言葉が日本に導入され、「教育」と訳されたのは明治時代以降のことです。もともと「education」はラテン語の「educare(引き出す)」や「educere(導き出す)」に由来し、個人の内なる可能性を育むことを意味していました。一方で、日本において「教育」という語は、儒学的な「教え育てる」という意味合いが強く、個人の内面からの成長というよりも、外からの教化や訓育の要素が色濃くなりました。

 明治時代の日本では、西洋の学校制度を急速に取り入れつつも、国家主導の「教育勅語」に代表されるように、教育は「個の成長」よりも「国家のための人材育成」として位置づけられました。この時点で、education の「引き出す」教育は、「上から与える」教育へと翻訳されることで、本来の意味から乖離する「裏切り」が生じたといえるでしょう。

哲学的視点:翻訳による意味の変容


 岡倉天心の指摘を踏まえれば、翻訳とは必然的に「裏切り」を伴うものです。しかし、問題は単なる「ズレ」ではなく、そのズレがどのような思想的影響をもたらすかという点にあります。

 西洋における教育思想は、ルソーの『エミール』やデューイの「経験に基づく学習」など、個の自律性や主体性を重視する方向へと発展してきました。一方、日本では「教育」という訳語が確立されたことで、個人の自由な成長というよりも、社会的規範を内面化させるプロセスとしての意味合いが強くなりました。

 例えば、「教育」という言葉には「教え(instruction)」と「育てる(nurture)」の二つの側面が含まれていますが、日本では「教え」に重点が置かれやすい傾向にあります。これは「学ぶ」よりも「教える」が先に立つ教育観を生み、教師が知識を授け、子どもがそれを受け取るという上下関係を強化する結果を招きました。

 このズレは、現在の教育制度にも根付いています。学習指導要領に基づく一律のカリキュラム、テストによる評価システム、受験競争などは、「教育=国家の要請に応じた人材育成」という側面を強く反映しています。これは、岡倉天心が指摘したように、本来の概念を翻訳する過程での「裏切り」が、単なる言葉の問題にとどまらず、教育そのもののあり方を規定してしまったことを示しているのではないでしょうか。

教育学的視点:現代の教育の課題と可能性


 では、この翻訳の「裏切り」を前提とした上で、日本の教育をどのように見直すことができるでしょうか。

 近年、「主体的・対話的で深い学び」が重視されるようになり、「教える」教育から「学びのプロセスを支援する」教育へと転換しつつあります。これは、西洋のeducationの理念に近づく動きともいえますが、同時に日本独自の文化や教育観との折衷の中で新たな意味を生み出しています。

 例えば、日本の伝統的な「修行」や「道」の概念は、外からの教えを受けつつ、内なる成長を重視する要素を持っています。この考え方を生かすことで、「教える」と「育てる」をよりバランスよく統合し、日本独自の「education」の形を探ることができるかもしれません。

 また、幼児教育においては、オノマトペを活用した自然教育の実践など、子どもが自ら環境と関わりながら学ぶアプローチが増えています。これは、「教える」から「引き出す」へと教育の重心を移す試みの一つであり、educationの本来の意味へと再接続する可能性を秘めているといえるでしょう。

翻訳の「裏切り」を乗り越えるには


 岡倉天心の言葉に立ち返るならば、「教育」という翻訳は確かに「裏切り」であり、ズレを伴うものでした。しかし、そのズレを単なる誤訳と見るのではなく、それが日本独自の教育観を形作ったこともまた事実です。

 問題は、この翻訳が固定化され、機能し続けることです。本来の「education」の意味を取り戻すためには、単に言葉を再翻訳するのではなく、「学びとは何か?」を根本から問い直し、教育のあり方そのものを変革していく必要があるのではないでしょうか。

 つまり、「教育」という訳語にとらわれるのではなく、その背景にある「遊び・学び」の本質を再考し、翻訳を超えた新たな実践を生み出していくことこそ、日本の教育が直面する課題であり、可能性でもあるのではないかと考えます。

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