超簡単十二因縁生起入門
はじめに
十二因縁生起というものを理解すれば悟って、解脱して、仏陀になることができます。
十二因縁生起は、略して因縁、または縁起などともいわれます。
ある程度仏教を勉強した方なら分かると思いますが、お釈迦様が悟るのは十二因縁生起を理解したからでそれは仏典のクライマックスでもあります。
はっきり言うと十二因縁生起を理解できれば誰でも悟って解脱して仏になることができます。
ですから仏教を本当に理解したいと考えれば十二因縁生起を理解すれば良いと断言できます。
仏教でもう一つ大切な理論は中道や中観論と呼ばれるものですがこれは簡単なので実質仏教の会得は十二因縁生起の理解につきます。
十二因縁生起をわかりやすく説明します。
第1章 十二因縁生起の意味
十二因縁生起は大乗仏教の中論(中観論)と空論、現代哲学のポスト構造主義と構造主義を同時に含むお釈迦様の作った理論です。
ですから十二因縁生起を理解すると仏教の悟りの内容は何か、つまり中や中観、空とは何か、また現代哲学とは何か、つまりポスト構造主義と構造主義とは何かを同時に理解できるようになります。
この様に現代社会では文明の進歩のおかげで同じものを理解するのに複数の方法があるから便利です。
十二因縁生起は2500年前の理論です。
十二因縁生起を理解するとお釈迦様やインド人やネパール人(お釈迦様はネパール人という説もある)がどれだけ論理的な人々であるか驚くことになるでしょう。
十二因縁生起は「苦しみ」がどのようにを生じるか説明する理論です。
「苦しみ」と書きましたが「」かっこの中は何でも構いません。
つまり世の中や人間の内面の存在や認識がどのように生まれるかを説明する理論です。
仏教や現代哲学の基本の2つの理論である空論と構造主義、中論、中観論とポスト構造主義に含まれていないのですが、仏教や現代哲学をきちんと理解しようとする場合には「素朴実在論」というものを理解する必要があります。
素朴実在論は中論、中観論やポスト構造主義と同様に簡単な理論なので簡単に理解できますが、なぜ仏教や現代哲学の2つの理論が大切なのか、2つの理論の意味は何かを理解し自覚するのに必要な理論です。
結論としては十二因縁生起はなぜ仏教や現代哲学が大切なのか、仏教や現代哲学が何のために存在しているかの解答でもあります。
第2章 十二因縁生起の説明
十二因縁生起を具体的に説明しましょう。
苦しみはなぜ生じるのか?
十二因縁生起では12の段階で説明します。
まずは①無明があり、次に②行があり、以下③識、④名色、⑤六処、⑥触、⑦受、⑧愛(渇愛)、⑨取、⑩有、⑪生、⑫老病死(苦しみ)の12個の要素で説明します。
お釈迦様は苦から逃れる方法を探しましたが、お釈迦様の場合の苦とは病気、老い、死です。
お釈迦様は老病死から永遠に逃れる方法を研究しようとしたので十二因縁生起によって老病死からどの様に永遠に逃れることができるかと、老病死がいかにして生成し、存在しているのかを説明します。
しかしお釈迦様以外の人々や我々にとっては必ずしも苦や老病死だけでなく別の問題を解明するために十二因縁生起を使っても構いません。
なぜ「何か」が存在し、どのように「何か」を滅ぼすことができるのかを説明するために十二因縁生起はあらゆる「何か」について使うことができます。
十二因縁生起を具体的に説明します。
①無明とは「明らかではない」ということです。
「明らかなものは無い」と言い換えても構いません。
これは全てのことには根拠がないということです。
我々は本質的に何かの原因や根拠について何も知らないし何も知り得ないということです。
この①無明は中や中観の考え方の元であり、ポスト構造主義の根幹と一緒です。
この無明を原理としているだけでいかにお釈迦様がいかに天才であるかを知ることができます。
特に理系的な意味で天才です。
お釈迦様であれば現代にタイムスリップしても難なく適応して現代の自然科学を容易に理解した可能性があります。
①無明は仮定ですがこれを前提として十二因縁生起の理論は構成されています。
これは同時に当時のインド社会の様々な通念や無意識の前提を捨象して何も前提にしない境地に立つことができているのです。
現代社会で頭がいいと自分で思っていたり人から思われている人、あるいは高い教育を受けたとされている人でもこれができずにどれだけ世の中のコミュニケーションに混乱をもたらしているかを見ればこれが現代人にとってすら極めて困難なことが分かるでしょう。
いわんや2500年前のインド人のことですからなおさらのことです。
①無明を少し哲学的に表現してみましょう。
「何かが確かに存在している」「何かを正しく認識できる」という考えを持つ人がいてもその人はその根拠を示すことが原理的にできない、ということを最初に宣言しています。
これはいわゆる隠れたイデオロギーとして存在している「素朴実在論」の前提をいったん外すことを意味します。
何も根拠や前提がないのになぜ「何か」が存在したり認識できるように感じられるのでしょうか。
それは作るからです。
②~⑫が全て大乗仏教の空論、あるいは現代哲学のポスト構造主義の説明そのものになります。
⑪行は作る、構成する、構築するという意味と考えてください。
十二因縁生起については変な先入観を持ちやすいのでここからは現代的と言うか、工学的な、システムでも作るような観点で見てください。
できれば心理学や精神分析学、精神医学や認知科学、神経心理学の知識があると理解があるとぴんと着やすくなります。
つまり精神の構築であり、精神の科学、技術、工学だからです。
②行、構築としてまずは③識を作ります。
③識は意識とか認識と同じと理解して頂いて結構です。
③識を構築したところで、より具体的に意識、認識されるものとして⑨名色を設定します。
④名色とは名と色です。
名と色とは言い換えれば象徴と想像や現実などのイメージです。
更に象徴(シンボル)と現実や想像のイメージを具現化して⑧六処=感覚を設定します。
⑤六処とは6種類の感覚と理解してください。
普通現代では感覚を5つに分け、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感に分けますが、仏教ではこれらに「意」という感覚を加えて六感という6つの感覚のモダリティに分けていました。
感覚の種類を何個に分けようがここでは特に問題ではないので無視してください。
⑤六処まで構築され用意されたところで⑨触を設定します。
⑥触というものを考える際には、何かを感じるということは感じることと感じさせるものの2つから成り立つことに注意して下さい。
感覚器に刺激を与える「何か」をここでは設定したと考えてください。
つまり主観に対する客体の様なものをここで設定します。
⑦受とは感覚器が刺激を受けることです。
⑧触と⑨受は似ているかもしれません。
簡単に理解したければ細かく区別しなくても結構です。
他方で細かく理解したければ、我々は自分以外の何かの中、世界や社会というものの中にいつの間にか投げ入れられ存在し、常に自分以外のものから刺激を受けている存在であることに心を向けてみてください。
まとめていうと我々にはいつも何かが現象し、何かが現前して他者や外部の存在を実感しながら生きています。
我々が常に何らかの刺激を感じていることに関係して⑧愛(渇愛)を設定します。
⑧愛(渇愛)とは意志、欲望(併せて意欲という)、嗜好、好み、好き嫌い、志向性です。
これは我々に現象するもの、現前してくるものに対して志向性、あるいは意欲や好悪などが作られる過程です。
お釈迦様の十二因縁生起は精神の生理学(正常の研究)ですが、知的や精神などの章が保健福祉医療などに従事していると12の要素のどれか一つが失われる、あるいは亢進したり減弱する過程を観察できるので理解に役に立ちます。
精神医療では緊張病と呼ばれる状態はその典型です。
その他の外傷性障害や認知機能障害などの症候性・器質性の傷害でも⑧愛(渇愛)以外も含めて色々な12個の要素の欠失を観察できます。
保健医療福祉関係でなくても富豪などの物欲のコントロールが意味をなさない状態になったりすると一部⑧愛だけ失調したような状態を体験することもあります。
一番簡単な表現として他者や物事に対する好き嫌いを作ることで人間の精神をより具現化します。
⑧渇愛を設定することで⑨取を設定できます。
⑧の欲望を満たせたり、自分の好きなものを手に入れる状態です。
あるいは逆に嫌いなものを遠ざけたり破壊する場合もあるでしょうし、望んだことが上手くいかない場合もあるでしょう。
⑨取により生成するもの、それが④有です。
⑩有は単純に有無の感覚と捉えてもらって構いません。
何かがある、あるいは何かがないという感覚は⑤渇愛(愛)と結びついてここで初めて生成させます。
実感や充実感、空虚感や喪失感などもこれに関係した感情です。
①無明で何かが実在する根拠も証拠もないと前提しています。
しかし⑩有では何かがあるという感じが知性や感情、意志を超えて臨在しています。
当たり前ですが、⑩有で何かが実在するという感覚が確信をもって生々しく感じられるからと言う理由で①無明の前提、あるいは仮定は否定されるべきである、とするのは論理的に間違いです。
ただこの間違いこそが「素朴実在論」であり人類を長く、あるいは現在も多くの人にはびこっている思想です。
同じようにこの十二因縁生起の論法が素朴実在論を否定している、と結論すればそれも論理的に間違いです。
しかしこの間違いも多くの人間が過去から現在までしてしまう誤りです。
⑩有、があるので⑪生、を設定します。
これは簡単には自分が生きている感覚、と考えて頂いて結構です。
同時に自分の生が他者と切り離されて感じられるということでもあります。
この⑪生は自己同一性、自分探し、心、魂、精神などの概念と関係します。
⑪生きるとはただ呼吸をして心臓が動いて食べて寝て生活しているということではなく、自分が「生きている」と実感することと関係があります。
あるいは乳幼児が自分の手や鏡に映った顔を自分と認識したり、母や父兄妹を自分ではない存在と認識したりすることにも関係しています。
⑪生を設定すると、そこから健康や加齢、死の問題、すなわち⑫老病死を設定することができます。
ここでお釈迦様の解決しようとした問題について考えてみましょう。
お釈迦様が問題にしたのは苦の問題ですがそれは単に人間が老いや病や死によって苦しまなければいけないことではありません。
お釈迦様が嫌がっておられたのは輪廻転生というものがある限り、苦しみに終わりがない、未来永劫無限に苦しむ可能性が無くならないことでした。
輪廻転生がなければ⑫老病死から逃れたければ一度⑪生を失って死んでしまえばいいのです。
しかし輪廻転生があると一度死んでもまた生まれるのでその生で苦しむ可能性があります。
それに永遠に終わりがありません。
お釈迦様はインド文化圏の原理である「輪廻転生」という前提を捨て去ってしまいました。
捨て去ってしまえば輪廻転生の有無はどちらにせよ仮説に過ぎません。
理性と抽象化をここまで深められる2500年前のインド人、あるいはお釈迦様と言う一個人は偉大と言う他はなく人類史上、ちょっと比較できる人がいない突出した天才だったのかもしれません。
十二因縁生起を悟ったところでそれ以上生きる必要がなくなり、死ぬことで苦しみを終わらせようとしたお釈迦さまでしたが梵天様(アートマン、知恵)に説得されて自分が悟ったことを世の中に広め伝えようと仏教を創出したのが仏教の始まりです。
おわりに
仏教は十二因縁生起を理解する事が全てです。
十二因縁生起を理解すれば悟りであり解脱でありお釈迦様と同じ仏陀です。
上座部仏教と言われる南伝仏教の中にはこれと違う考え方をする派があります。
これは悟り段階説であり、悟りの程度で仏教徒を区別します。
悟りの程度が少ない依流果から、一来果、不還果、阿羅漢果とより上級の存在になっていきます。
過去、現在、未来に宇宙がいくつもあってその中で一人だけ特別な阿羅漢が出て仏教を広めます。
その意味でその阿羅漢だけを特別視します。
今の宇宙ではそれはお釈迦様を指すと考えます。
この考え方は悟りにもレベルがあり、そのレベルと瞑想時の特殊な精神状態を結びつけて考えるのでいい意味でも悪い意味でも時にカルト的な新興宗教に利用されてしまう場合があります。
欧米の神智学が仏教の影響を受けましたし、日本のオーム真理教なども影響を受けているようです。
大乗仏教でも禅宗の様な宗教では時にこの要素を持つ場合があり、日本に現在伝わっているのは南宗禅と言って頓悟、すなわち突然一回で悟ってしまうことがあるという考え方ですが、現代には伝わっていない北宗善では漸悟、すなわち修行するにつれて段階的に悟っていくという考え方が取り入れられています。
その様な観点でいうと大乗仏教や現代哲学は頓悟で空や中(中観)、構造主義やポスト構造主義を知的に理解するかどうかの区別しかなく、瞑想などによる特殊な精神状態などの要素が一切ありません。
そういった観点を踏まえつつ、共通して言えるのは仏教においてはお釈迦様は十二因縁生起を理解することで悟って仏陀になったのであり、誰でも十二因縁生起を理解すれば悟って仏陀になれるという点は仏典というものが大乗仏教であれ上座部仏教であれ共通に記載されていることですから揺るぎようがありません。
悟りに段階があるかどうか、頓悟か漸悟か、特殊な精神状態になれるかなれないかは全て後付けであり仏教の文化や歴史に大切なものではありますが、あえてこういう言い方をすれば仏教の本質とは関係ありません。
本書が多くの人が十二因縁生起の理解につながるように祈ります。(字数:5,748)
現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。