かんたんなお釈迦さまの教育と勉強と学習
かんたんなお釈迦さまの教育と勉強と学習
・お釈迦さまはどんな教育と学習で悟ったか
ここではお釈迦様が悟るため信者にどのような方法を説いたかではなく、お釈迦様自体がどんな学びの結果、悟ったかをまとめてみます。
お釈迦さまは悟って仏陀になりました。
お釈迦様が悟れたのはお釈迦さまに解決したい問題と解決しようという問題意識があったからです。
仏典によってお釈迦様の生涯はある程度分かっています。
しかし我々一般人にはお釈迦様が自ら悟った内容ほど、お釈迦様自身がどんな教育や学びがあったのかは知られていません。
古代インド哲学を研究している専門家はお釈迦様とその思想を生んだ思想史の背景は分かっているかもしれません。
しかしそこが分かっていないとお釈迦さまは天才で当時のインド思想界や社会と関係なく突然出現したような感じを受けてしまうこともあると思います。
実際にはお釈迦さまは大まかに3つの学習の段階があると思います。
① 釈迦族の王族の王子として授かった教育
② 出家直後にアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという2人の先生に指示して彼らの教えを吸収したこと
③ 6年間の苦行の間に学んだこと
これらの教育内容がどのくらい分かっているかは分かりません。
・お釈迦様の出家前の教育
お釈迦さまは釈迦族の国の王子として生まれています。
インドではカースト制とかヴァルナ制という強固な身分制度があり、お釈迦様はクシャトリアという階級です。
王子様で跡取りなのでそれに必要な当時のその地域の常識的で最低限の教育はあったでしょう。
それに釈迦族特有の王子教育もあったかもしれません。
上層階級で支配者階級で貴族ですから教養教育があったでしょう。
特にインドの伝統的で古典的なヴェーダの哲学や宗教や歴史は教えられたのではないでしょうか。
色々な階級から教育を受けたかもしれませんが上層階級のバラモンやクシャトリヤから特にそういった教育を受けたかもしれません。
・出家直後の2人の師匠
なぜそのようなことが可能で、許されたのか分かりませんがお釈迦さまは出家します。
出家直後に2人の師匠について修行します。
最初に師事したのはアーラーラ・カーラーマという先生で、次に師事したのがウッダカ・ラーマプッタという先生です。
仏教にはもともと悟りは一気にもたらされるのではなく段階的に悟っていくという考え方があり、お釈迦さまもそう説いています。
特に南方仏教系ではその考え方が強いと思います。
日本では北方仏教の大乗仏教や禅の影響から悟りは一気にもたらされると思っている風潮が強いかもしれません。
多分そういう悟り方もあるのですがお釈迦様の修行過程をみると段々に悟っていますし、お釈迦様の教えには段階を踏んで1つ1つ悟っていく考え方があります。
9つの段階をふんで悟っていくので九次次第や九次題定といいます。
この9の段階のうち5番目を(虚)空無辺処定、7番目を無所有処定、8番目を非想非非想処定または非有想非無想処定といいます。
ついでに6番目を加えておくと識無辺処定と言います。
この5番目から8番目までを無色界の禅定と言います。
この考え方では精神を欲界、色界、無色界に分けます。
1番目から4番目の禅定は欲界、色界に関するものになります。
最初のアーラーラ・カーラーマという先生のもとではお釈迦さまは5番目の(虚)空無辺処定とそれで得られる智慧を学びます。
次に師事したのがウッダカ・ラーマプッタの下ではお釈迦さまは8番目を非想非非想処定または非有想非無想処定とそれで得られる智慧を学びます。
9番目の滅受想というのがお釈迦様が最終的に悟った悟りの内容になります。
・仏教では瞑想が大事
仏教の特徴は瞑想、禅定、三昧、止観、ヨガ(瑜伽)というもので修行することです。
仏教は色んな角度から物事を分類、分析します。
その中に「戒定慧」という見方があります。
この定と慧というものを見てみます。
大雑把に見ると瞑想して何かを発見、習得することを言います。
瞑想してある精神状態になってその中で何かの対象を観察しその結果としてその段階で得られる拾得物である何かの知恵を得ることを言います。
前者のある状態にとどまることを「止」、何かの対象を観察することを「観」と言います。
仏教の宗派によって使う言葉に強弱や頻度があります。
天台宗は仏教の元締めみたいなところがありますので禅も止観も使います。
禅宗は禅という言葉が使われやすいです。
特に中国には徐々に悟っていく漸悟の北宗禅と一気に悟る南宗禅がありましたが、日本の禅は南宗禅なので止観より瞑想が使われやすかったと思います。
止観が大切なのは仏教には悟りの段階があるという考え方が元々あるからです。
・九次次第や九次題定
悟る時には9つの精神状態とそこで得られた智慧を段階的に経て最終的な悟りに至るという考え方があります。
あるいは悟った後に悟った内容を分析すると9つのものに分けられるという見方があります。
仏教は悟りに至る精神状態を欲界、色界、無色界という風に分けます。
欲界や色界に関係する4つの段階があり、無色界に関係する4つの段階があり、最後の1つはお釈迦様が至った最終的な悟りの段階です。
あわせて9つになりますので九次次第や九次題定といいます。
最初の4つの禅定の段階は感覚や感情に関わるものです。
その次の無色界の4つの禅定は観念や心の内面での精神の観察になります。
・段階的な悟り方とその他の悟り方
九次次第は典型的な段階的な悟り方の例になります。
その他の悟り方は例えばいきなり結論を理解することです。
大乗仏教の開祖の龍樹の空論は段階をふんだ悟り方というよりは直接結論を理解するものです。
しかし空は精神内界の省察から得られるものです。
どちらにせよ精神の省察は必要なので龍樹の理論の後に瑜伽により精神を省察する瑜伽行唯識派というものが生まれます。
精神内界を省察すればお釈迦様の最終的な悟りに至らないにせよ、いろいろな発見があるかもしれません。
ついでに言えば空を理解したうえで精神を省察すればこれもまたいろいろな発見があるかもしれません。
悟りに至る道は一つではないにせよ、悟りに至る精神の省察には比較的多いパターンがあってそれを段階化できるかもしれません。
・段階的に悟るのと一気に悟ること
仏教の開祖のお釈迦さまの悟った内容は十二因縁生起や五蘊皆空などで示されます。
また大乗仏教の開祖の龍樹の思想も空を示すことで表されます。
結論に至る方法をさほど重視していないように見えます。
結論に至る過程は一通りではないという考えがあったのかもしれません。
今日ではお者様の智慧や龍樹の空は現代思想の構造主義を使って精神を洞察することでも可能ですし、数学の形式主義を知っていればそれを精神のモデル化に使用することで理解することが出来ます。
他方で精神を分析する際には精神を様々な要素に分ける必要があります。
九次次第には色や欲(渇欲)、空(虚空)、色、想、受などの言葉が出てきます。
お釈迦様の十二因縁生起や五蘊皆空も空以外はこれらの言葉が使われます。
龍樹や天台智顗ではもっとシンプルで空だけです。
天台智顗の三諦論では空と、「色」という言葉は使いませんが代わりに同じようなものとして仮や戯という言葉を使います。
空を表現するには空以外の言語や概念がやはり必要です。
これは「空」に限らず何かを表現する、モデル化するには別の何か、言葉や概念が必要ということは仏教や現代思想の構造主義、現代数学の結論です。
・苦行で何を学んだか
お釈迦様の修行の第3段階は苦行です。
ただお釈迦さまは苦行の結果、苦行は無駄という結論に至りました。
その後、苦行を辞めた後、さらっとした感じでさっさと悟ってしまいます。
苦行を辞めて悟るまでが何となくあっけなく見えるので、この時期が修行の第4期と言ってもいいかもしれませんが、第3期の苦行期に入れてしまいました。
苦行を辞めた後は菩提樹の木の下で瞑想をしたことが知られます。
これがどれくらいの期間かよくわかりません。
またこの間の具体的な出来事もよく分かりません。
本当に苦行を辞めたすぐあとにすぐ菩提樹の期の下で瞑想して一回で悟ってしまったのかもしれません。
この悟りの間のお釈迦様の内面は思考とインスピレーションだったようです。
オカルトや超常現象的、超能力的な特殊な状態と表されることもあるようです。
そちらが正解かもしれませんが実際にはよくわかりません。
お釈迦さまも自分の理解者はいない、或いは死んでしまった、そして自分の教えは正しく伝わらないだろうと嘆いている節もあるのでお経と言えどもお釈迦様の教えがどれくらい正確に伝わったか、あるいはお釈迦様自身が自分の悟りをどれくらい上手に表せたかは分かりません。
実際お釈迦様が死ぬと仏教は根本分裂、枝葉分裂と分派化、セクト化していきます。
・お釈迦様の悟りは段階をふんでいる
結論としてお釈迦様の悟りは段階をふんでいます。
苦行前の修行段階で、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処に達してそこで発見をし、苦行後に滅受想という最終的な悟りに達しています。
苦行前に達した精神状態と観察対象、そして発見は師匠から教わったものです。
つまりお釈迦様以外にもかなりいいとこまで行ってた人がいたことを示しています。
そしてそういう人たちが真理を求めて探求を行っていたことも分かります。
お釈迦様以前の伝統的、古代のヴェーダ思想、哲学、宗教、歴史からそれ以外の新規思想群も含めた大きな思想群、思想史の中でお釈迦さまを考えると分かり易いです。
お釈迦様の同時代には思想探求が活発で中国の百家争鳴、や古代ギリシアのような真理探究ブームだったのでしょう。
バラモンだけでなく沙門と言われるバラモン階級以外からの真理の探究者が仏典ではたくさん登場します。
クシャトリアであるお釈迦さまもその一人です。
一例として仏典にも書かれている六師外道という思想群があります。
その中の一つのジャイナ今日は有名で現在でもインドに伝統的な信者や教団があります。
・六師外道とインド思想の多様性、合理性、論理性
お釈迦様時代の新興思想群の代表として6つの思想が挙げられます。
下の6つです。
① プーラナ・カッサパの無道徳論、道徳否定論
② パクダ・カッチャーヤナの唯物論と原子論、要素集合説、七要素説
宇宙あるいは人間が多元の要素の集合で構成されているという積集説(アーランバ・ヴァーダ)、唯物論的思考の先駆。
人は地・水・火・風の四元素と、苦・楽および命(霊魂)の七つの要素の集合により構成されていると考え、霊魂の独立性を認めない。七要素は作られるものでも他を作るものでもなく、不変不動で、互いに影響はない。
③ アジタ・ケーサカンバリンの唯物論、感覚論、快楽主義
このような思想をローカーヤタ(順世派)、チャールヴァーカ(Carvaka、ブリハスパティを祖とする)と呼ぶが、その先駆的な例。
ウパニシャッドに説かれるアートマンを否定し、霊魂と身体の不可分年子の霊魂の非存在を主張する唯物論の代表。人間は地・水・火・風の四元素から成り、各元素は独立して実在し、死によって人間を構成していた四元素は各元素の集合へと戻り、ゆえに人間は死ぬと空無となり霊魂も何も残らない。来世もなく、善の報いも悪の報いもなく、よって宗教も道徳も不要である。
④ マッカリ・ゴーサーラのアージーヴィカ教(邪命外道と呼ばれた)。運命決定論(宿命論)
一切の生き物は輪廻の生存を続けるが、輪廻から抜け出せないものも、そこから解脱するものも、すべて無因無縁であり、自己の意志による行いは何一つない。一切はあらかじめ決定されており、定められた期間は流転する運命である。計り知れない年月の果てに苦しみの終焉に達するまで、どのような修行をしても解脱することはできない。よって、道徳を否定し、宗教を無用とする。
⑤ サンジャヤ・ベーラッティプッタの懐疑論、不可知論
真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である。問いに確答せず、つかみどころのない議論を行った。抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の態度表明といえる。
⑥ マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ 、本名ヴァルダマーナ)のジャイナ教、相対主義、苦行主義、要素実在説
相対主義(不定主義)の立場を取り、一方的な判断を排す。宇宙は実体から構成され、太古よりあるとして、創造神は想定しない。霊魂は永遠不滅の実体であり、行為の主体として行為の果報を受けるため、家を離れて乞食・苦行の生活を行って業の汚れを離れ、本来の霊魂が持つ上昇性を取り戻し、世界を脱してその頂上にある非世界を目指し、生きながら涅槃に達することを目指す。
懐疑論や不可知論、唯物論や観念論、実在論や相対主義など各種の合理的な思考パターンがすでに出現し啓発活動されてます。
バラモンや真理探究の沙門たちは伝統思想だけでなくこういった思想を学ぶ機会がありました。
当時の現代思想ブームのようなものでお釈迦様の出家もこの流れの一環で、お釈迦さまも当時の思想ブームにのった若者だったのかもしれません。
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